禁猟区 -1- by DEDI



恐怖だけが、今の彼を突き動かしていた。
剥き出しの足に、茨が絶え間無く細かい傷を作ってゆく。
ブラウスシャツ一枚を身に纏い、彼は走る。袖は破れ、幾度も膝を折りそうになりながら。心臓は飛び跳ね、今にも口から飛び出しそうだ。時折、鈍い痛みが下腹部に走り、体内の異物感に背筋が凍る。眼は開いていても何も見ていないのと同じだ。耳には聞こえもしない彼を追う犬の吠え声と馬の蹄の音が谺している。本能だけで彼は追跡者から逃れようとしていた。
嘶き。
蹄が額を掠る。後ろ足で立ち上がったそれを馬であると認めながら、彼は絶望の暗闇に落ちて行った。

熱い。熱い。熱い。
体中が火のようだ。喉の渇きは堪えようもなく、さながら炎に嘗められているような熱に、彼は不意に目覚める。
「気がついたか…」
耳朶を擽る低い声がする。奇妙な瞳の色をした恐ろしいほどの美貌の男が、冷たいタオルで彼の額の汗を拭った。
「名前は?」
「ウォルフ…」問われるままに返事をしようとして、彼は体内に響いた疼痛に顔をしかめる。
「ウォルフ…?」
「…ウォルフガング…アゥ…」嬌声に変わる語尾を後が残る程噛み付いた右手で塞ぎ、左手で己れの肩を抱き締めた。
「何処が痛む?」血が滲む程爪を立てた肩を見咎めて、男が手を延ばす。男が触れた途端、そこに電流が流れたような痛みとも快感ともつかない代物が走り、ウォルフは思わず身を竦ませる。
「触るなッ!」
頬を弾くような口調に、黒と青の瞳が奇妙な色をたたえるのもつかのま、それは微笑むように眇られた。
「触らないで…くれ」吐き捨てられた科白を一向に介さない様子で、構わず男は彼に触れた。
「苦しいか」言いながら丹念に腕から首、胸と何かを捜す様に男は指先を動かす。
「…ふ…ぅ…」ウォルフは何度も止めてくれと空しく口を開くが、声は言葉になる前に喘ぎとも呻きともつかないただの音へと成り果てる。
「狐狩りゲームの獲物はまず薬を与えられる筈だ。何処に打たれた?それとも飲まされたのか?」
ウォルフの顎を掴み、男は無理矢理唇を開かせると指を差しこんで口中を弄る。唾液が顎を伝って喉を濡らす。突然、その指を喉の奥へと押し込まれ、ウォルフは反射的に嘔吐した。すえた匂いが部屋に漂う。吐瀉物が頬を汚し、意識とは関係無く涙が鼻陵を伝う。
「止めて…」咳込みながらも、ウォルフはやっとの思いでそれだけを言葉にする。
「あれは非合法の薬の筈。このままでは、おまえの行く先は知れている。…廃人になりたいか?」
肩を大きく喘がせて、ウォルフは眼を瞑った。
「あんた…は…?」
「すがる人の名前が必要ならばオスカーと呼べ」男は、さっと寝台から少年の様な体を抱き上げる。
「アッ…」それだけで、ウォルフは声が漏れてしまう。男が歩く度に振動と腕に誘発された感覚に、彼は眩暈を覚え、歯を食いしばる。オスカーが彼を連れて来た部屋がバスルームであることに、冷たい琺瑯のバスタブに下ろされるまでウォルフは気付かない。
オスカーは、湯をぬるめにしてハンドシャワーを握る。ウォルフは体を打つ湯にさえも反応して声を上げた。
「ヒッ…」
頬や体の汚れを拭い落として、オスカーの指先が動く。
「や…やだッ…」
その度に、ウォルフは頭をのけぞらせて身悶える。
「我慢する事はない、声をあげろ」
ウォルフは頷是無い子供のように首を振った。食いしばった唇の端が切れて、血が滲んでいる。
「これから、もっと辛くなる」
オスカーは、ウォルフを俯せにして腰の下に手を差し込んだ。
「なに…ハァ…ァッ」尻を上げさせられた恰好で、いきなりオスカーの指が彼の薔薇色の秘孔に触れたので、ウォルフは力の入らない四肢で逃れようと試みた。しかし、震える膝頭は体を支えることすらままならない。
「嫌だ…止めろぉ…」
オスカーは、チューブから指先にゼリーをとり、いっきに指をウォルフの体の中に挿入した。探るように内部を弄る。
「ああ…」ウォルフが啜り泣いた。体と心が耐えられないと悲鳴を上げている。熱く絡み付く内部には、カプセルの残骸が残っていた。オスカーはそれを、丹念に掻き出し洗い流してゆく。それだけで分けも判らずウォルフは幾度も股間を汚した。バスタブの縁を堅く握り締めた指が、血の気を失い白くなっている。汗と涙で、顔はぐしゃぐしゃだ。
「や…やだ…助け…て…」最後にもう一度挿入された長い指に、ウォルフの辛うじて残っていた自尊心と正気が粉々に砕け散った。
恍惚と瞳孔の開いた瞳を空に向け、ウォルフはまるで糸の切れた操り人形のようにぐったりとオスカーの腕に体を預けた。回った薬の効き目に鼓動も呼吸も早い。火を付けられた欲望が、身の内を焦がし、吐き出す息は全て甘い吐息となっている。
それは、確かな変貌だ。
真新しいリネンの寝台に移したウォルフは、最早その内に燻る肉欲を隠そうともしない。渇いた喉を少しでも潤してやろうと、含んだ水を口移しに与えるオスカーの唇を彼は欲しがった。
「…ん…んんっ」
慰めてくれる腕と温もりを求めて、ウォルフはオスカーの頭に手をまわす。オスカーのダークブラウンの前髪がはらりと額に落ち掛かり、ウォルフの蜂蜜色をしたそれと絡み合った。
息をつくのすら忘れたような長く激しい接吻。オスカーに、少年を抱く趣味はなかったが、いつしか本気になって行く自分に気付き、我ながら面白いことだと思った。
(こんな、己れを無くした者に…)シニカルな笑みを浮かべ、オスカーはウォルフを抱き締める。
ウォルフは昂まる欲望をどう処理していいかわからないまま、オスカーの腕に身を委ねた。
オスカーの指が滑ってゆく。項から肩へ。脇腹から腰へ。胸に咲く薔薇色の蕾を舌先で転がすと、ウォルフはしなやかに体を反らせる。
「ふ…ンッ」
その姿はさながら夜に舞うダンサーの様だ。ウォルフはオスカーの振り付けにより、艶めかしくあられもない姿態を晒す。
その身に受けるあらゆる感覚が、ウォルフを追い詰め、追い落とす。
焦れたように自身に延ばされた手を掴まれて、ウォルフは瞳を上げる。享楽に狂った眼の色は、グレイというより紫がかったくすんだ青に近かった。
「駄目だ」
「な…ぜ…?」
「ひとりだけ良い思いをするのは狡いだろ」オスカーがクックと喉で笑う。そして、張り詰めたウォルフにゆっくりと指を絡めた。
「ハァ…ッ…アァ」髪を振り乱し、ウォルフは背をそり返らせる。その頭髪を掴んで、オスカーは、ウォルフの顔を覗き込む。
「イッ…!」
「見せろよ。とっておきのおまえの顔を…」
「痛い…」髪の毛を握り込んだ指を振り解こうと、ウォルフはオスカーの腕を掴む。絡まる指に手の届く寸前、ウォルフは巧みな指の動きによって生み出される下腹部から這い上る快感に己れを放棄してしまい、抵抗も半ばで空しく費える。
「あ…アァッ…」
音を上げそうなウォルフの耳元で、オスカーが意地悪く囁く。
「オスカーだ…言ってみろ、オスカー」
「オ…オスカ…ァッ…」
「もう一度、俺を見て」
涙で濡れた重そうな睫が開き、色調を変えた虹彩がオスカーの像を捕える。ぎりっとウォルフの奥歯が鳴る。
「ク…ア…オスカァッ!」
その名を吐き出すと同時に、ビクンとウォルフは体を痙攣させ、極めた。
気だるげに肩で息しながら、ウォルフはそれでも消えない炎のようなものを体内に感じ途方に暮れる。オスカーの指が、ウォルフが腹の上に放出したものを掬いとりそっと薔薇の蕾に触れた。
「んっ…」
ウォルフの広げた脚の間に、膝を入れ否が応うでもそれが閉じる事のないようにすると、オスカーは指を差し入れる。
「ン…ふ」
薬によって蕩かされたそこは、大した抵抗もなくオスカーの指を含んだ。
「イッ…」
ゆっくりと、寛がせるように体内を蠢く指に、ウォルフは恍惚と喘ぐ。萎えた筈のウォルフの分身が再び熱く頭を擡げ始める。シーツの上をさ迷っていたウォルフの指が、シーツを堅く握り込む。それを取り上げ、オスカーは上から重ねるようにしてオスカーの男を握らせた。
「おまえの番だ…」
始めはためらいがちに、やがて、しっかりとウォルフの手はオスカーを捕える。それは多少ぎこちない動作ではあったが、確かな目的をもって動く。体を密着させ、まるで互いに相手を飲み込んでしまいたいといった風に、二人は舌を絡み合わせる。オスカーは、ウォルフの嬌声を唇で受け取め、挿入していた指を引き抜いた。登り詰める前に逃げて行こうとするそれを追うように、ウォルフが腰を浮かす。
「ハ…ンンッ…ヤ…ダ…」望んでいたものを与えられず、ウォルフが泣く。涙がこめかみを伝わってシーツを濡らした。
「もっと、いいものをやる」言うなり、オスカーは足を持ってウォルフの体を大きく開く。そして、腰を抱え上げるようにして一気に貫いた。
「…ツ!」
余りの痛みに、目の前には血のような赤い幕が降りる。体が二つに裂かれる。ウォルフは、オスカーから逃れようと死物狂いで足掻いた。
「止め…」制止の言葉は、半ばで悲鳴に変わる。
本来、受け入れる事などないそこは、いくら薬に冒されていてもそう簡単には慣れない。女と違う細腰には、それは苛酷なまでに残忍な行為に違いない。
がっちりと押え込まれた腰はびくとも動かず、オスカーの思うがままに、抉じ開けられ熱く脈打つものを打ち込まれて、ウォルフは呻吟する。
「ツ…力を抜け、ウォルフ」
オスカーがゆるゆると動き始める。
「ク…ァァッ」
ウォルフの指先がオスカーの肩を掻き毟る。ショックで見瞠いた眼からはとめどなく涙が流れ、ウォルフはオスカーの肩に爪を食い込ませている。
再び萎えてしまったウォルフを、オスカーは茂みから引きずり出し優しく扱く。手の動きに腰の動きを連動させると、やがてそれは欲望の兆しを見せた。それにつられ、ウォルフの口から漏れる声も、痛みだけによるものだけでない甘い吐息が混ざり始める。
「オスカ…ァ…」譫言のように名前を呼び縋りつく。
突き上げられる度に、骨が軋むほどの痛みとも快感ともつかぬものが脊髄をかけのぼる。ウォルフは、いまや性愛に捕えられた奴隷と同じだ。みだらに腰を動かし、貪欲に快楽を追及する。
そこにいるのはもはや人では無い。夜に産み落とされた二匹の獣だ。本能のままに振舞う。絡み合う息で、空気すら熱い。
「アァッ…も…ヤッ…」
獰猛な獣じみた動きが頂点に向け、早まってゆく。
「…ッ、ァア…ハッ」
その刹那、ウォルフは体を大きくのけ反らせ、虚空に欲望を吐き出す。オスカーは、ウォルフの肩に額を押し付けるようにして低く呻き、痙攣したように収縮を繰り返す彼の内部に放った。
オスカーは、ウォルフの放心した体を拭き清め、リネンを取り替える。抗生剤のタブレットを口に押し込んで飲み込ませると、ウォルフは苦しがって折角綺麗になった枕を水で濡らした。やがて、ゆるりと眠りがウォルフをその腕に抱きとるのを見届けて、オスカーは客用の寝室を後にした。

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