廊下を自室に戻る途中、突然階下が騒がしくなる。廊下の外れにある階段に執事が姿を現わし、彼を認めて足早に近付いた。
「お客様が参っております」
それが誰かまでは判らなかったが、どんな目的で来たのかおおよその見当はついたので、オスカーは舌打ちをした。
「どうせ、ろくな客ではあるまい。着替えるまで待たせておけ」
「畏まりました」執事の声を背中で聞きながら、オスカーは自室の扉を閉じた。
客は三人だった。彼等は室内に入って来たオスカーを認めるなり、思わず声を上げた。
「そうか、オスカー・フォン・ロイエンタール…貴公の屋敷だったのか」
明らかに一番年嵩の男が、意味有り気に唇を歪める。
「まずは、そちらから名乗るのが礼儀というものではないのか」
「私か。私は、ウルリッヒ・フォン・ブレムシュテラー」少しも悪びれず、知っていて当然のように家名を口にして、男は胸を張る。そして、左右に視線をチラリと投げて、「ヘルマンとビクトル。私の弟達だ」と、他の二人を紹介する。
家名を出しさえすれば、どんな事柄も許されると思い上がった尊大な話し方に、オスカーは辟易する。
「ところで、一体今何時なのか教えてもらいたいな。生憎私は就寝中だったのでね。まさか、時計も持ちあわせていないなどとは言わないでくれ。それから、貴殿等の用件とやらを聞こう」
椅子を勧めもせずに、オスカーはひとりソファに腰を下ろす。射すような鋭い視線を向けると、男達は金銀妖瞳の醸し出す独特の雰囲気に気圧され鼻白む。
「深夜の非礼は詫びる。だが、我々も急いでいてね。狐狩りをしていたのだが、逃げられたのだ。我々の獲物に覚えはないだろうか?」
オスカーが鼻で哂う。
「知らんな。貴殿等の逃した獲物の事などどうして私に判る。よしんば、それを見掛けたとしても、私にとってそれは狐であるということ以上の意味はない。森に垣根の無い以上、狐が誰かのものである筈もなかろう。それとも、その狐の尾にでも名前が書いてあるのか?」オスカーは狐狩りがどのようなゲームであるかを承知の上で冷たく言い放つ。
「貴様も貴族のはしくれなら、狐狩りの何たるかくらい知っている筈だ。下手に獲物を庇いだてすると為にならんぞ」ビクトルと呼ばれた男が、怒りに顔を赤くして凄む。
「私は貴族といっても名ばかりでね。貴殿等門閥貴族の高尚な趣味には生憎と精通していないのだ。繰り返すが、狐など知らん。悪いがお引き取り願おう」
「誰が狐の話などしている!我らの獲物は、ダークブロンドにグレイの瞳の若い男だ」激昂して、ヘルマンが叫ぶ。
「なるほど、それは珍しい」相手がいきりたてばいきりたつほど、オスカーは醒めていく。
「私も、機会があれが見てみたいものだ、人型の狐を」
赤らさまなオスカーの揶揄に憮然とする兄弟の中、長兄のウルリッヒはそれでも感情をコントロールする術を持っているらしく、つめよる弟達を引き留め極めて静かに言った。
「くだらない平民だが少々目障りでね。その思い上がりに制裁を加えるのだ。協力してくれまいか」
「断る」オスカーは即座に断じる。「人の企てに乗るのは私の趣味ではない」もう話す事などないと言わんばかりに立ち上がり、扉に歩み寄り振り返る。
「だが、もし仮にその狐を見付けたなら、私が代わりに心臓を抜いておいてやろう」婉然と微笑んだ。
それ以上の会話を寄せ付けず、オスカーは扉を開く。
「さようなら、ヘル・ブレムシュテラー」
有無を言わせないオスカーの態度に、ブレムシュテラー三兄弟は怒りに満ちたまなざしを向け、帰って行った。
「出掛ける」
すっかり眠気の醒めたオスカーは、執事に一言そう告げ背を向ける。やがて、エントランスに車が入って来る気配がして、執事は玄関の扉を開いた。
車に乗り込む直前、オスカーは執事に声を掛けた。
「客間に寝ている男が目覚めたら、彼のしたい事を好きなようにさせてやるように。もし、記憶障害があるようなら、適当な記憶を作って話してやれ。それが嘘でも、何も無いよりは精神状態は安定する筈だ。それと、ここを出て行きたいと言うのなら止めてはならん。いいか、くれぐれも私の名前は出すんじゃないぞ」
車のドアが締まる。オスカーはステアリングを握ると呟いた。
「なまじ名前など知らない方がいい。互いに夢の中で出会ったのだから…」
昼過ぎオスカーが帰宅した時には、彼の予想していた通り既に蜂蜜色の毛並みの狐の姿は屋敷に無かった。
部屋着に着替え、執事がテラスのテーブルに午後の紅茶を用意するのを眺めながら、オスカーは静かに尋ねた。
「様子はどうだった?」
「一時的な記憶喪失のご様子でしたので、私が事故に遭われたのだと申し上げました」
「それで、…信じたのか」
「はい、そのように私は感じました。お着替えと簡単なお食事とをご用意いたしますと、大変恐縮されて…。ぜひ、お礼を述べたいと申されておりましたが、日時をお教えするとお慌てになって…それで、…」先を続けようとした執事をオスカーは手を挙げて押し止める。
「もう、結構。…送って行ったのだな」
「はい」
「私の名は?」
「お教えしませんでした」
「よろしい」
満足げに頷くと、オスカーは供された紅茶の、縁に浮ぶ黄金色の和毛のような環を少しだけ愛でて、ゆっくりと味わった。
「昨夜はいったい、何処行ってたんだ」
出航間際の戦艦の艦内で同僚に声を掛けられ、ウォルフは蜂蜜色の髪を照れたように掻き回した。
「う…ん。それがよく判らないんだ」
その言葉をいいように取り、彼より頭ひとつ大きい友人は意味有り気にニヤリとした。
「照れることはない。卿は堅すぎるくらい堅かったからな。うん、少しくらい不良してもいい。出航したら、しばらくの間は女っ気無しが続く事だし。それでこそ健全な青少年だ」
「ば、ばかっ。おれは本当に…」自分の言葉をへんに曲解されて、ウォルフは真っ赤になりながら慌てて否定する。
からからと豪快に笑われて、ウォルフはどんな弁解も無駄だと悟り一緒に苦笑した。
ウォルフとオスカー。二人の運命が再び重なり合うにはいましばらくの時間を要する。