こごえたしずくが
頬をつたって落ちる
私は知らなかったのか、
自分が泣いていたことを?
宇宙空間が虚無であるということは無い。無数に輝く星は、その恒星としての命が尽きるまで変わらぬ光を投げ掛けてくれる。だが一体誰が知るだろう、その輝かしい星々の最期を。それを目撃する者は僅かであり、大抵は、有るべき場所にその光を見失い、ただ茫漠と広がる暗黒の宇宙を認め初めて知るのだ。その輝きがもはや誰の眼にも映ることが無いという事を。
星々の光がこれほど儚く孤独で、宇宙が冷たくよそよそしく彼の双眸に映った事などいまだかつて無かった。
静まり返った艦橋は、その静寂さえもがその場を見慣れない場所へと変えている。今、宇宙は真に冷たかった。その冷たさに抱かれて独り、それでも、彼は前を見据えなければならない。
ウォルフガング・ミッターマイヤーは弁明しない。
ウォルフガング・ミッターマイヤーは立ち止まらない。
ウォルフガング・ミッターマイヤーは、もう涙を流さない。
それが、どんなに苛酷な試練だとしても、彼の自ら選びとった道だったので…。
「お休みになられないのですか?」
唐突に掛けられた肩越しの声に振り返るミッターマイヤーの、彼をそれと認める一瞬前の凍れるような瞳の色をバイエルラインは見逃さなかった。それは、春先の雪のようにすぐにいつもの穏やかな視線の中に溶けてしまいはしたが、たしかに、それは見る者さえも凍らせる程冷たく表情の無い瞳だった。
「あぁ、バイエルライン、卿か…」
「差し出た事とは存じますが、そろそろ深夜の交代時間となります」
バイエルラインは、なぜか自らの仕える若き元帥の少年のような容貌を直視する事が憚られるような気がして、首を垂れた。
「おれは、ここからの眺めが好きなんだ。星々を見ながらずっと考えていたよ。いったい、星の光は、過去なのか?それとも、未来なのか?時間と言うものは何処から来て何処へ行くのだろうな…卿はどう思う?」
自問にも似たその問い掛けに、バイエルラインは思わず顔を上げる。ミッターマイヤーはつかの間、微笑みに眇た視線を宇宙にはせ、そして、足許に眼を落とした。
「時間の川は、永遠の未来であるその源泉から流れ…と、その昔詠った詩人がいたそうだ。…あの星の光が未来から投げ掛けられたものならば、あの星にはもう過去すら無いのかも知れない…。あの光がもはや存在しない星の最後の光ではないと誰が言い切れるだろう」
その言葉の中に希求にも似た響きを感じとり、バイエルラインは声をかけずにいられない。
「閣下」
ふと戻るミッターマイヤーの視線は、バイエルラインを捕え変わらぬ微笑にゆるりと揺れる。
「悪かった、つまらない事を言って。そうだな、おれが常にこの席に留まっていては、皆の気も休まらないだろう。卿の言う事を素直に聞こうか」
ミッターマイヤーが、席を立つ。ちいさな、「おやすみ」という声を残して。私室へと戻り行くその後ろ姿が、何故かとてもちいさく見えて、バイエルラインは後を追った。
「閣下。お部屋まで御一緒させて頂いてもよろしいでしょうか?」
ミッターマイヤーが足を止め、そして、頷く。
バイエルラインは、くすんだ黄金色の頭髪が自分の頬の先で揺れるのを感じながら永遠に続くかと思われるような廊下を少し遅れながら歩いた。『ずっとこうやって、貴方の姿を目に留めていたい』と心に念じながら。
「卿…は?」
「は?」
突然、ミッターマイヤーが振り向く。その顔が余りに近くにあったので、バイエルラインはうろたえた。
「卿は、この後どのような予定なんだ?」
「この後…と、おっしゃいますと?」自分でも、呆れる程間抜けな問いを返してしまって、バイエルラインは臍を噛む。
「おれが、ちゃんと私室へ戻るのを見届けるつもりなのだろう?その後何か仕事が残っているのかと聞いているんだ」
「いいえ」
「では、本当におやすみ。おれの部屋はもうそこだ」
ミッターマイヤーの微笑みに潜むひとりでは背負い切れない苦悩を知りながら、何一つ出来ない自分が、バイエルラインは歯がゆい。
「閣下…」けれど、口をついて出る言葉は、それだけ。
さっと身を翻したミッターマイヤーが、半身だけ振り返り不審そうに見つめる。
「なんだ?」
そして、それに対する自分の立場はいつも同じ。
「…おやすみなさいませ」
耐えられない様に、バイエルラインは身を屈め、ミッターマイヤーが遠ざかる足音を私室の扉が開閉して飲み込み、沈黙が周囲を満たすまで動かなかった。
「貴方は変わらないふりを装っている。そして、おそらくはそれを自覚すらしていないのでしょう…」
パシン、と耳元で空気が裂ける。ミッターマイヤーは、絶え間ない嘔吐感に襲われていた。全身が冷や汗で濡れている。もう、胃の中には何も出す物が無いのに、痙攣を起こしたように躯が震えた。鏡の中の己の顔は、見た事無い他人のように映っている。彼は憎しみを込めてその表に拳を振り下ろす。しかし、強化硝子の鏡は、皹ひとつはいらない。鏡の中で灰色の瞳が嘲笑っていた。
バイエルラインが、深夜勤務の引き継ぎを終えて自室へ戻ろうと席をたった時、一人の少年兵が見慣れたファイルボックスを手に艦橋から出て行こうとしているのに気付いた。
「君、それは…?」
ヨハン・ヴァルファーレンという元帥付きの少年兵は、バイエルラインの問いに対して、それが航海記録のファイルである事とそれをミッターマイヤー元帥に私室へ持って来るよう申し付けられたと答えた。
バイエルラインは、顔を曇らせる。
(何の為にお部屋にお戻り頂いたか、わからないではないか…。これでは、単に仕事の場所を変えただけだ)
「私がお持ちしよう。君は、部屋へ戻りなさい」
ヴァルファーレンは、敬礼をしてバイエルラインにファイルボックスを手渡した。
なぜ自分が代わりにファイルを届けに来たのかという理由を、あれこれ思い悩みながらバイエルラインは、ままよとばかりにインターコムを押した。しかし、いつまでたっても返事は無い。
(お休みになられたのだろうか?…しかし、…)
胸騒ぎがして思わず扉の開閉ボタンに触れると、それは施錠もされてなく開いた。
室内には皓々と明りが点され、そして、ミッターマイヤーの姿は何処にも無い。無礼を承知で覗いた寝室のベッドは人の眠った形跡も無く、バイエルラインは思い付いた様にバスルームに足を向けた。
バスルームの扉に附いた曇りガラスの小窓からは、光が漏れていた。バイエルラインはしばらくの逡巡の後に、声を掛けた。一度、二度。呼び掛けはいたずらに空に消え、返って来るのは沈黙ばかり。どうしてここまでこだわってしまうのかと、自分で自分に呆れながら、バイエルラインはバスルームの扉を開いた。
充満した熱気と湿気の底で、ミッターマイヤーが蹲るようにして倒れていた。助け起こそうと走り寄り、バイエルラインは、ぎくりと足を留める。ミッターマイヤーの白い背に、とぐろを巻く赭い蛇がいた。
「…なんということだ」シャワーを止めて、バイエルラインはまるで正視に耐えないとばかり顔を背けた。
ミッターマイヤーの背中の蛇は、鋭い爪のような物で皮膚を抉られた跡だった。それは未だ血を滲ませてすらいる。そして、そればかりでなく、ミッターマイヤーの体には、様々な傷跡が刻まれていた。
(何故。どうして。)バスローブに包む様にしてミッターマイヤーを寝台へと運びながら、バイエルラインの胸では、様々な疑問と想像とが鬩ぎあう。ミッターマイヤーの肩、それも、到底自分でつける事のできない場所に、明かに歯形と判る跡があった。その事を考えただけで、頭に血が上り、体が怒りに震えてくる。意識の無いミッターマイヤーを寝台の上にそっと下ろすと、皺ひとつない純白のシーツは、水滴を吸って薄紅に染まった。まるで、春先の森を彩る霞の如く儚い花のように。
救急医療用のキットを取り出して、時には爆発しそうになる感情を圧し殺しながらバイエルラインはミッターマイヤーの傷を消毒した。
ひときわ色を暗くした、蜂蜜色の頭髪を拭いて、バイエルラインは呟く。
「お気付きですか?こんなに故郷を離れた、季節のない宇宙の果てでさえ、貴方の髪は季節を刻むということを…。夏ならば、明るく溶けるような飴色なのに、ほら、今はこんなに、暗い冬の色です」ミッターマイヤーの青白い頬を撫でる。
微笑もうとしてバイエルラインは泣きそうになる。彼は涙を歯を食いしばって堪えた。
「何故…何がいったい、貴方をこんな…」
ミッターマイヤーの瞳が開いて、不思議そうにバイエルラインを認め、そして再び閉じられた。
「どうして卿はここにいる」ミッターマイヤーの口調は、先刻まで気を失っていた人物とは思えない程、はっきりとしたものだった。
「ファイルをお届けに…」
「それは、何処に?」依然瞳を閉じたまま、ミッターマイヤーは質問する。
「デスクの上です」
「ありがとう。では、ゆっくり休みたまえ」
それだけ聞けば十分とばかりに、ミッターマイヤーが告げる。
バイエルラインは動かない。
(声ばかり普段のままで、貴方は、今、自分がどんな顔をしているのか判っていない)
「嫌です」掠れる言葉。
「どうした?」
「嫌です!」振り絞るように吐き出して、バイエルラインは初めて、上官に逆らった。
「お倒れになった閣下をひとり置いてそういう訳にはまいりません。今宵は、お側に控えさせて戴きます」
「駄目だ」
「処分は覚悟の上です」
ミッターマイヤーは、溜め息をひとつついて、ゆっくりと瞼を開けた。
「では、勝手にするがいい」彼は、天井に視線を投げたまま、バイエルラインを見ようともしない。「だが、良く覚えておくんだ、後悔というものは、何時だって後からやってくるものだと言うことを…。その時になって悔やんでも、もう遅い…」
「後悔などいたしません」
その時、微かにミッターマイヤーの瞳を嘲りにも似た光がよぎり、彼はうっすらと微笑んだ。
「いいだろう…おれはもう寝る、明りを消してくれ」
「はい」
バイエルラインが照明をおとす。次に彼を見た時、ミッターマイヤーは既に背を向けて眠っていた。
折り畳み式の椅子に腰を下ろし、腕組したままバイエルラインはいつのまにか眠っていた。
エアーコンディショナーが規則的に空気を循環し、まるで、小さな昆虫の羽音のような音をたてて室内の静寂を掻き回している。
バイエルラインは、眠りの底で、その空調の奏でるハミングにも似た歌声を聞いていた。聞き慣れた子守歌、あるいは、最早生活の一部となっている基本的な雑音。だからこそ、それに異質なものが混じった時、バイエルラインは過剰な迄の反応を示した。
その音を耳にして、バイエルラインは、深い眠りから一足飛びに覚醒し、思わず携帯していた銃を構えた。そして、彼が目にしたものは、悪夢以外の何物でも無い。その音の正体は、ミッターマイヤーの口から漏れる悲鳴とも呼吸ともつかない喘ぎだった。
パシン。空気が裂ける。途端、バイエルラインは指一本動かすことすらままならない。体は椅子に張り付いたようで彼は自由を失った。最早、ミッターマイヤーを助ける事も、眼を瞑る事も逸らす事もできずに、バイエルラインは、その光景を見せられる。
ダウンライトのほの明りの中、ミッターマイヤーが、ベッドの上で、苦し気に身を捩った。灰色の瞳は、じっと何かをみつめているかのように、虚空に向けられたまま動かない。開いた唇は、見えざるなにかに犯されて、閉じることも能わずただきれ切れに獣じみた唸り声と、圧し殺したような悲鳴を引きつる呼吸の毎に吐き出している。
ミッターマイヤーの体を被うシーツがまるで何者かの手によって剥ぎ取られるようにして、絹ずれの音をたてながら床に落ちた。両の手首を頭上で縫い止められ、ミッターマイヤーはその身をより深くベッドに沈ませた。ビクリと肩が震え、ミッターマイヤーの喉元に赭い線が浮かびあがる。それは、血を滴らせながら左胸まで一気に皮膚を裂いていく。脇腹を飾るのは、赤黒い歯形。爪跡は滲んだ血で、赤い花を描く。肌に傷を刻むたび、ミッターマイヤーは身を竦ませ、くぐもった呻き声を上げた。
黒い影に絡めとられるようにして、ミッターマイヤーは暴行の海に沈んで行く。
永遠とも思える時が過ぎ、溢れる涙を拭って、バイエルラインはようやく残酷な芝居−グランギニョール−に幕の下りたことを知った。目前で、彼にとっては神にも等しい人が、見えざるものによって傷付けられ汚されるのをだまって見ていた自分が、悔しくて、情ない。そしてなにより、彼を打ちのめしたのは、それに畏怖だけではなく、己れの中の禁じられた昏い欲望を見つけてしまった事だった。
最早意識を手放してしまったミッターマイヤーの白い肌に咲く赭い花から、バイエルラインは眼を離せない。今にも叫び出しそうな心を捩伏せて、彼は、寝台に横たわるミッターマイヤーに近付き、緩慢な動作で床から拾い上げたシーツで蔽った。
決裁を仰ぐために訪れた部屋に一歩足を踏み入れた途端、その場の光景に、バイエルラインは息を飲んだ。
青く明滅する光点の集まりが、誘うように逃げて行く。
ひとり見つめる灰色の双眸は、総ての感情を封じ込めて機械的に動きを追う。部屋一杯に広がったランテマリオ星域の三次元映像は、いままさに、先の戦闘のクライマックスとも言える最後の展開に差し掛かっている。青い輝点は、今にもその行く先を変え、反撃が始まる…筈だった。
その一瞬の後、ひときわ大きな青く輝く点は、白い光の濁流に飲み込まれる。
こんな事が許される筈は無い。
たかだかひとりの薄汚い裏切りによって、双璧と呼ばれたふたりがその雌雄を決する場面に、かくも醜い戦闘が繰り広げられようとは。
同士撃ちを始め、白く発光する空間に、濃い黄金色の睫毛が少しだけ震え、頬に仮初めの涙の影を落とす。少しも泣けないミッターマイヤーのそれが真実なのだと、バイエルラインは己が身を切られるような痛みを感じる。息を殺して戦闘記録を見入るミッターマイヤーの横顔を、バイエルラインは、声を掛けるのも躊躇われ、扉を背にただ立ち尽くす。
幾度となく繰り返される同じシーンを、自虐的に眺める己れの上官を、バイエルラインは止める事が出来ない。
逃げて行く青い輝点。微妙な動きが反撃に転ずる。白い光の束。
繰り返し。
逃げて行く青い輝点。
暗がりで、ふわりと蜂蜜色の髪が動いた。誘われるように立ち上がり、次第に白く輝き始める空間に歩み寄って、ミッターマイヤーは、その青い輝きを抱き留めた。ここで貫かれるのは自分だと言わんばかりに。
「閣下!」
思わず上げた声に、ミッターマイヤーは、初めてそこにバイエルラインがいたのかと頭を巡らす。
「閣下…」
駆け寄り、手を掛けた肩が思っていたよりずっと小さくて、そのまま抱き寄せてしまいたくなる。
灰色の瞳は、つかの間、彼を認め、それからゆるりと宙を彷徨う。緊張に耐えかねた体が、崩れるようにその場で力を失い、バイエルラインの腕の中へと倒れ込んだ。
彼の人の左眼の如き青き光が、バイエルラインの目前で瞬いていた。