その禽は、咲き誇る菩提樹の花に埋もれるようにして、高らかに夏の歌を歌っていた。黄色の花と見紛うような小さな禽。辺りに響きわたる啼き声は、懐かしく、心を満たす。幼い頃、夏の窓辺で幾度となく聴いたものと同じ名も知らぬ小鳥。
風は梢を渡り、早朝の澄んだ大気を震わせて、囀りは蒼穹へと吸い込まれてゆく。
……あの禽を手に入れたい。
そう思った瞬間に、禽は見上げる枝から飛び立つ。黄金色の翼を優雅に広げ、ゆるりと風に乗った。それは、決して追い付けない程ではない早さだ。視界に飛ぶ禽の姿を捕えながら、追い掛ける早足はやがて駆け足になる。
交差する木々の枝に翼が隠れる度、次第に得も言われぬ不安が沸きあがる。
……行ってはいけない。
胸中の叫びは、届く筈もなく、緑深き森の奥へと、禽は逃げて行く。
……そっちへ行っては駄目だ!
一本の大きな樫の木が、不吉な程黒い影を地面に延ばして立ちはだかっている。禽はそこを目指していた。
……駄目だッ!
伸ばした指の先で、黄金色の軌跡を描いて、禽は木の影へと姿を消した。
急いで太い幹を巡ると、張り出した枝の間で、禽は空中に浮かんでいる。良く見ると、そこには羅−あみ−が張り巡らされ、翼を絡め取られた禽は力無くもがいている。もがけばもがく程、細く強靱な糸は禽の美しい翼や小さな胴を締め付け自由を奪ってゆく。死が穏やかに禽を取りまく。その苦痛はいかばかりであろうか。血の涙を流し、羽根を散らす。禽は眼に緑の上、広がる空を映して最後にいちど翼を震わせて鋭くひとこえ啼いたきり動かなくなる。くたりとぶら下がるその小さな躰を、受難の場から下ろしてやろうと近くに寄ると、突然、その間に、黒い影が割って入った。
闇色のマントを纏った男は濃い茶色の前髪を、煩げに掻き上げて、彼に視線を向けた。冷ややかで、嘲るような金銀妖瞳。そして、ゆっくりと唇が動き、音も無く言葉を形作る。
『おまえは、見ているだけか…?そうやって、何時も、見ているつもりなのか?』
憐れむような微笑みを浮かべ、胸に掻き抱いた黄金色の羽に頬を寄せて見せる。黄金色の羽は、あっと言う間に人の髪となり、禽は姿を変えた。
……そんな馬鹿な。
その腕の中で、彼の人は、その瞳に虚無を孕んだ人形のようだ。
命を持たない人形と成り果てたウォルフガング・ミッターマイヤーなど、見たくはない、とバイエルラインは思う。けれど、視線はこれっぽっちも動かず、死者に抱かれたその姿から逃れることが出来ない。
眇めた睫毛越しにも、はっきりと判る目の色をバイエルラインに当てたまま、オスカー・フォン・ロイエンタールは、これ見よがしに腕の中の白い顎に手を掛け、仰向ける。うっすらと開かれた唇の輪郭を舌でなぞって、首を傾げる。
『良いのか?…本当に』
腕の黒衣を滑らせて、その下からミッターマイヤーの肩を出して見せる。ドキリとする程白いそれは、否応も無く彼の眼を射る。
『構わぬな。…そう、所詮、同じ穴の狢のおまえに、私を咎めだてできる訳もない』
忍び笑いが静寂に溶ける。そして、嘲りの視線を彼に向けたまま、ゆっくりと美貌の死神は手の中の供物に口付ける。
(止めろ!)
『これは、贄なのだよ』
(止めろ!)
『死への贖い…死者への供物』
(止めろ!)
『誰の望みだ?…バイエルライン』
(止めろ!)
『おまえか?…私か?…』
(止めろ!)
『それとも、ミッターマイヤー…?』
「止めてくれ!」
叫び声を上げて目覚めると、ひとりミッターマイヤーの私室の控えの間のソファーの上で、壁にはめ込まれたデジタル時計は、寝入った時からあまり時間が立っていない事を示している。全身にかいた冷や汗で濡れた下着が体に張り付いている。そして、バイエルラインは気付く、理不尽にも熱を持った自分に。あんな夢で、こんな思春期の少年みたいな反応を起こす己が情なく、嫌悪すら覚える。
『誰の望みだ?』
ロイエンタールの問い掛けが、頭の中を幾重にも谺す。
「誰も、望んじゃいない…こんなこと」
バイエルラインは、堅く毛布を握り締め眼を閉じる。すると、昨日の悪夢が瞼の裏を過り、はっとして彼は耳を欹てた。細く開けておいたミッターマイヤーの寝室へと繋がる扉からは、押さえられた照明が漏れているだけで何も聞こえない。思い過ごしかと、かぶりを振りバイエルラインはまた仮の寝台へと身を横たえようとして、ぎくりと体を止めた。
床に延びた光の帯を何かが掠めた。瞬時に全身がそそけだつ。習慣のように彼はブラスターを握りそっと扉に忍び寄った。中を覗くと、ミッターマイヤーが寝台の上に体を起こしている。
どうなされましたかと声を掛けようとして、バイエルラインは、喉元まで出掛かった声を飲み込んだ。
目の前で、ミッターマイヤーの白い衣の背に赭い染みが広がった。ひとつ、ふたつ。絹が悲鳴にも似た音をたてて裂ける。飛び散った血に夜具が染まる。
それでも、ミッターマイヤーの上体は揺らぎもせず、塑像のように悲しげな横顔を夜陰に浮かびあがらせている。
思わず駆け寄り、バイエルラインは庇うようにミッターマイヤーの体を抱き締める。途端、バイエルラインは腕に鋭い痛みを感じた。右上腕部のシャツが裂け、皮膚から血が滲む。
「ツ…!」
彼のその小さな息を飲む音で、ミッターマイヤーは初めてビクリと体を震わせた。
「出て行け、バイエルライン。……卿には…関係ない…」
ぽつりと、ミッターマイヤーが告げる。まるで、独り言のように。彼の方を見向きもせずに。
投げられた視線の先には、何も無い。
「バイエルライン…出て行け」
感情もなにもかも捨ててしまったような声音で、囁く。
「バイエルライン…」
バイエルラインは、痛みも忘れ抱き締める腕に力を込めて、首を振った。
「バイエルライン…?」
「閣下は…閣下は、いつまで、そうやって御自分を御責めになるのですか?」声は掠れ、胸が張り裂けんばかりの想いに涙が滲む。
「おれが…?…責める?」寂しそうな笑みを口元に湛え、眼を伏せる。「何を?」そして、ミッターマイヤーは、彼を見遣り、鮮やかに微笑んだ。
「心配には及ばんよ。卿は、自分の部屋へ戻りたまえ」
揺るぎ無い灰色の眼に見つめられると、何も言えなくなる。
だが、今ここで、一旦この腕を緩めてしまったら、もう二度と、この人を捕まえることが出来なくなるような気がして、バイエルラインは、必死で小柄な体に縋り附いた。
「離さない…何があっても、貴方を離したりしない」
「バイエルライン」
窘める声が、頬を掠める。何者かに弾かれたようにピシンと音をたてて皮膚が破れ、血が顎へと伝った。流れた血に触発されたのか、彼の身の内で何者かが目覚める。
「出来るものなら、振り解いてごらんなさい」
流れ落ちる血もそのままに、バイエルラインは、抗う両手を掴みベッドへと倒れ込んだ。
「馬鹿……放せ」
小柄な躰に全体重を掛け伸しかかる。両手首をその頭上で押え付け、肘で小さな頭を固定して逃げ道を塞いでおいて、バイエルラインは、沈もる青の瞳を合わせる。
「駄目だ」
宣告にも似たその言葉に、ミッターマイヤーの唇がもの言いた気に開かれる。その返事も待たずに、バイエルラインは強引に唇を重ねた。
「…ん!」
驚きに堅く噛み締めようとした口唇を割って、バイエルラインは素早く舌を入り込ませる。逃げるのを追って激しく絡めるように蠢かす。声を上げることも能わず、ミッターマイヤーは躰を堅くして、息を潜める。夢中になって口唇を貪っていると、突然、その舌を噛み切られそうになり、バイエルラインは慌てて顔を離した。ぱっと鉄の匂いがして、思わず吐き出した唾は赤い色をしている。
「何をする、バイエルライン」気丈にも射抜くような灰色が彼を睨み付ける。
「判らない?…そんな筈、無い。知っている筈ですよ、私の望みなど。…欲しいんだ、貴方が」
「気でも狂ったか…」
「狂う?…そうですね、確かに狂っているのかもしれない。だが、私ひとりではないでしょう?」眼を眇めて、片微笑む。「知ってますか?狂気は、更なる狂気を呼ぶということを」右手で抗う両手を封じ、左手で着衣を引き裂く。「逃げられるのなら、…本当に…逃げられたなら…良かったのに」蒼ざめた顔を見下ろしながら、バイエルラインは呟いた。
男にしては柔らかな頬から顎、首筋へと、舌を這わせると、腕の中で一まわり以上小さな躰が竦む。その蜂蜜色の髪の乱れかかる耳朶を濡らし、吐息を吹き掛ける。ミッターマイヤーはきゅっと唇を引き結び、眉根を寄せた。
「憎んでくださっていいですよ。…憎しみで私を殺すほど、どうぞ、憎んでください。…そんな風に、これから貴方を扱うのですから…」詠うように囁いて、肩口に口付ける。「貴方に、殺されるのなら…本望です」
呆然と灰色の瞳が見開かれる。わななく唇は、言葉を失い、ミッターマイヤーの躰から、力が抜けた。
「…好きに…するがいい……」
自分を見つめる暗く沈んだ青に、犯した罪を重ねて、ミッターマイヤーはゆっくりと眼を閉じた。
潤いも何も施されていないミッターマイヤーは、かたくなにその侵入を拒む。バイエルラインの体液だけでは、どうしても受け入れない。彼は、無意識に押し開かれる苦痛から逃れようとする躰を力任せに押さえ付け、引き寄せる。
「よせ……止めろっ……」制止の声は掠れ、悲鳴にも似てほの暗い空間に消える。
一気に貫いて、手にした人の熱とその余りの狭さに息が詰まる。一旦動きを止めて蜂蜜色の髪に顔を埋め、バイエルラインは低く呻く。それからゆっくりと、抽き出し再び抉るように挿し入れる。
悲鳴を噛み殺し、食いしばった口元を血が伝った。その血を丹念に嘗取り、バイエルラインは頬を寄せる。
「愛しています、貴方を。……鬼にも、獣にもなる程に…」
ぐっと深く繋がって、声も無くのけぞる小さな頭は、昏い黄金色の髪をシーツの上で波立たせる。
自らのもたらす淫靡な音と、荒い息を頭の隅の醒めた部分で認めながら、バイエルラインは、敬愛する人を自らの手で貶めるという倒錯した喜びに溺れそうになる。
『……誰の望みだ?』
「あぁ、そうですよ、ロイエンタール元帥閣下、……私の望みです」
涙に濡れた灰色の恍惚と瞠いた様を、呆然と見遣り、バイエルラインはひとりごちる。
「悲しみで生きてゆけぬのなら、いっそ、この身を恨むことで纏わりつく死を忘れて欲しい」
乱れた髪を撫でて、顔を覗き込む。
「閣下……ミッターマイヤー閣下」
呼びかけに、濃い金色の睫毛が、二、三度瞬いて、その双眸に確かな精神が戻ってくる。
「バイエル…ライン…」喉に絡み付いた名前を吐き出し、ミッターマイヤーは瞠目したまま、涙を流す。
「辛いでしょう……苦しいでしょう」
残酷に、躰を揺すると、首を振り縋るものを求めて指先を震わす。
「それならそうと、仰っしゃればいい」
「……う、……ぁ…」
堰を切った涙は滂沱と頬を伝い、愛してやまない美しい黄金色の髪を、白いシーツを、濡らす。
「さあ、言うのです。辛いと、苦しいと…そして、悲しいと。……ロイエンタール元帥を喪って、悲しいのだと。…一体、何に遠慮しているんです?」
嗚咽に噎ぶ肩を抱き締め、優しく語り掛ける。
「貴方は、ずっと、泣いておられましたよ。その変わらない笑顔のしたで…」
澄んだ泉を思わせる瞳が、真っ直ぐにバイエルラインを捕え、耐えられない深い悲しみを綴る。溢れ、零れ落ちる涙を、拭おうともせずに。
『ロイエンタール』と、ただ『ロイエンタール』と、歔欷に混じえてその名を呼び、ミッターマイヤーは嘆悼に身を震わせた。
微かに人の動く気配を感じ、バイエルラインは傍らの温もりを捜す。気怠げに手を伸ばし、唐突に自分の置かれた状況に思い当たって、彼はベッドから跳ね起きた。
バスローブ一枚羽織っただけの姿で、ミッターマイヤーが佇んでいた。苦悩や悲しみ、優しさ、総ての感情をない混ぜにした穏やかな瞳が彼を認め、微かに緩む。
「閣下…」
「心配かけて、すまなかった」言葉に尽くせない詫びごとを口の端に乗せるより早く、ミッターマイヤーが口を開く。濡れた前髪を掻きあげ、「もう、大丈夫だから……忘れてくれ」歩み寄る。
「お許し……くださるの…ですか」
ミッターマイヤーは、緩く首を振って手を伸べる。
「卿は、おれの副官でいてくれるのだろう、これからも、ずっと…」
差し出されたしなかやかな手を握り、バイエルラインは溢れ出る涙を止められない。
「はい…」
「ひとつ、悟った事がある。最期まで自分で在り続ける為に生きたのがロイエンタールならば、おれは、在れと請われるままに生きるのが運命のようだ…ついて来てくれるな、バイエルライン」
「何処までも、お供致します」
一点の曇りも無い穏やかな冬空が、彼を包むように見つめる。そこには、昏い死の影も狂気のかけらももう無い。
ウォルフガング・ミッターマイヤーは万感の思いを伴侶として、歩き始めた。