ただ美しく闇を纏いて 黎明編3 

by 獅子丸



初め、ミッターマイヤーの部屋は光の差さない城の奥深くにある部屋だった。
部屋には鍵はなかったが、そこから外へ至るには迷路のような回廊を巡らなければならなかったし、ミッターマイヤーが出て行こうとする気配はなかった。
その代わり、ロイエンタールが扉を開けるたび、そこには猛烈な血臭漂う凄惨な光景が広がっていた。
「またやっているのか…」
隠しても取り上げても、どこからか鋭利な刃物を手に入れ、体中を傷付けるミッターマイヤー。
切っても、突いても、体中の血を流しきるほど出血しても死ぬことは叶わないのに。
そうして最後には己の流した血の海の真ん中で呆然としている。
ロイエンタールは黙ってミッターマイヤーの掌から皮一枚だけ残して食い込んでいるガラス片を引き抜いてやる。
新たな傷が血を吹き出し、ぼたぼたと床の血溜まりに落ちて行く音に、ミッターマイヤーは我に返る。
「どうして…どうしてだ?」
繰り返し、何時も尋ねるのは同じこと。そして、返す答えも同じ。
「何度言えば判る?不死の身体になったのだから、こんなことをしても無駄だ」
「殺せ。俺を殺せ、ロイエンタール」
「何故だ?ミッターマイヤー」
「何故だと?こんな化け物になってまで、人の生き血を啜りながら生きたいなどと、誰が思うものか!」
その度に繰り返される遣り取りを、苦々しく続ける。
「では聞こう。お前は今まで生きていたのか?家族を喪い、請われるまま人の為に生かされていたお前は、本当に生きていたと言えるのか?」
途端に目を背け、振り解こうとする腕を、ロイエンタールは強く握り締める。
「何の迷いもなく、己の信じるものの為に生きていたと、胸を張って言えるのなら、何故オーディンで俺の呼びかけに応えようとしたのだ?」
覗き込んでくる二色の宝玉を睨み返すグレイの瞳は以前のような力強さを持ち合わせてはいない。
そして、問い掛けに対する答えもない。
「見ているだけで良いと思っていた。だが、ニューススクリーンに映し出されるお前は違いすぎていた。何年ぶりかに見たお前は、俺の知っているウォルフガング・ミッターマイヤーではなかった。虚ろで、寂しげで、儚げだった。違うか?」
「…人は変わるものだ。そもそも俺をそんな風に変えてしまったのはお前の死だったのだから…」
畳みかける問いに対する、それが何時もの答え。
「俺のせいだというのならそれでもいい。だがこうなってしまった以上もう元に戻ることは出来ないのだから受け入れてはくれまいか?ミッターマイヤー」
「元に戻せないと言うのなら、…俺を殺せ、ロイエンタール」
堂々巡りの会話に、ロイエンタールは深い溜め息を付く。
ミッターマイヤーの目覚めを待ちながら、必ずや上手くいくと確信していた己の甘さに臍を噛む思いがある。
彼等を取り巻く情勢も刻々と変化していた。
ロイエンタールを迎え入れた老人を始めとして、この宇宙世界に散らばる他の一族から変化を受け入れないミッターマイヤーを処分せよとの声が上がっている。
もちろん完全に無視を決め込んではいたが、数百年数千年を経た齢の妖怪と対峙してミッターマイヤーを守りきれるかどうか、未だ自分の力すら総てを把握出来ていないロイエンタールには判らない。
それでも。
ロイエンタールは今更ミッターマイヤーを諦めるつもりは毛頭無かった。
「俺は他の誰でもない、お前と生きたいが為にこうして化け物として生きる道を選んだ。何度言われてもお前を喪うことは出来ない。受け入れてくれるまで、何時までも待っている」
ミッターマイヤーは苦悶の表情を浮かべその縋るような声に耳を塞ぎ、ロイエンタールの目を盗んではまた同じ事を繰り返した。
普通の人間なら死に至るような傷を作ると、不死の肉体とはいえ回復までに時間がかかる。
ましてや変化を終えたばかりの身体にはダメージが大きく、数日、あるいは数週間の間目覚めないこともある。
ミッターマイヤーは、その束の間眠っていることが救いであるかのように、傷付いては眠りへと逃げ込んでいった。
目覚めれば、整然とした部屋の中は何事もなかったように静まりかえり、身体には傷ひとつ残ってはいない。
そしてまた、始めから同じ事を繰り返すのだった。

ミッターマイヤーが目覚めてから、三度目の満月が近付いていた。
ここ数日、嘘のように穏やかな日が訪れている。
ミッターマイヤーが己の変化を受け入れてくれたかどうかは定かではなかったが、表面上はとても落ち着いて見えるようになった。
理由のひとつは、傷付いたミッターマイヤーを回復させる為には、大量の生体エナジィ、すなわち人の生き血が必要だということだった。
「前にも言ったろう。お前を回復させる為にいったいどのくらいの生き血が必要か判るか?バスタブに溢れる程の生き血の為に犠牲になる処女は何人くらいか数えてみろ」
堂々巡りのやり取りに業を煮やした挙げ句にロイエンタールが教えたその事実は、ミッターマイヤーにとって大きなショックだっに違いない。
その時からミッターマイヤーは自らを傷付ける行為を一切止めた。
これ以上己の為に犠牲者を増やすことは出来ない。ミッターマイヤーとはそういう人間であったのだから。
もうひとつは、その食餌行為にあった。
「俺もそのうち人に噛み付くようになるのか?」
ある夜、ミッターマイヤーはぽつりとロイエンタールに聞いた。
「……試してみるか?」
ロイエンタールが聞き返すと、ミッターマイヤーは苦しげに眉を寄せて黙り込んだ。
俯いたその小さな顔を包み込むように両手で持ち上げ、ロイエンタールはそっと唇を合わせる。
唇越しに贈られた「それ」を、ミッターマイヤーは指先で拭うが、それは色も形もなくただ香り高く甘く感じるのだった。
「ミッターマイヤー。今こうして力が満たされ餓えを感じずに済んでいる間は良い。渇けば俺がこうして力を分け与えることも出来る。だが、もしもたった一人で餓え、渇き、限界を超えた時、お前はきっと我を忘れて吸血鬼の本能のまま人を襲い血を啜ることになるだろう」
その言葉のひとつひとつに耳を傾けるミッターマイヤーは、まるで死刑宣告を受ける囚人のような顔をしている。
ロイエンタールは思わず苦笑した。
「そんなことはさせない。俺が約束する。何時もきっと傍にいる。もしもの時は…」
指さした先には湯気の立つ紅茶のカップ。
ロイエンタールは、硝子の小瓶を傾けて中からルビーのように輝く深紅の液体を数滴垂らす。
「これは薔薇のエキスで、少しの間なら渇きを止めてくれる。覚えておけ」
「俺もお前も、これだけでは駄目なのか?」
いかにもミッターマイヤーらしい問い掛けに、今度はロイエンタールが柳眉を寄せる。
「俺は一族としての血が濃いみたいだからな…多分無理だ」
「ロイエンタール……」
「そんな顔をするな。もうひとつ約束しよう。お前の前ではけして浅ましい真似はしない、と」
まだ何か言いたそうに開きかけた薔薇の香りのする唇を、ロイエンタールはそっと塞いだ。
蕩けるような優しい口付けだった。

密やかな時間の中で、流されてはいけないとミッターマイヤーは思い、もしかして総てを受け入れてくれたのではないかとロイエンタールは思う。
互いの思いは遠く離れたまま、やがて時は満ち、みたび満月は訪れようとしていた。

NEXT
BACK Novel TOP