月は満ち、月は欠ける。
人類の最初の芽吹きに必要だったもの、それは太陽の光と月の影。
人は、生まれ出るその時から、いや、それより遙か以前、生命としての記憶を遺伝子の中に残すだけの頃から、月の満ち欠けに支配され長き歴史を紡いできた。
しかし、果たして月が生み出したものは、同じ記憶を持つ命儚い人類のみであったろうか。
人は夜を怖れ、月を畏れる。
何故と問う者はおらず、それは刻み込まれた本能であり、人はただ従ってきた。
我らが本能に刻み込まれるほどの恐怖は、夜の暗闇の中にひっそりと、だがけして忘れられることなく在り続け、語り継がれて行く。
どこにどんな真実があるのか、知る者はないのだけれど。
この物語は僅かに開かれた扉から覗く「彼等」の真実のほんの一部。
政治、経済から遠く離れた辺境に位置するその惑星唯一の月が、いったい幾度満月を数えただろうか。
忘れ去られた地球の遺跡のような古い城には、冷たく乾いた空気と、月の光になおも濃く沈んだ闇が満ちていた。
その深い闇に閉ざされた城の奥へ向かって、隙のない身なりをした老人が燭台を手に足音も立てずに歩を進める。
蝋燭の頼りない光が微かに揺らめき、深く刻まれた皺、真っ白いが豊かな髪や髭をいっそう陰影濃く彩った。
立ち止まり、骨張って縮緬のような皺の寄った手を翳しただけで、ぶ厚く重い樫の扉が音もなく開く。
数歩部屋の中に入り、暫しの間老人は瞑目し何事か気配を伺っていたが、やがて上げた瞼の奥で、信じがたいことにその瞳は鋭く赤く閃いた。
「月は満ちまして御座います。お館さま、お目覚めのお時間に御座います」
重苦しい闇の満ちたその部屋の中央には寝台があり、天蓋から幾重にも降りた布に覆われていて中を窺うことは出来なかったが、彼はそう声を掛けると深々とお辞儀をした。
ぶ厚い布の奥、真の闇の中にはあろうことかマットもシーツも何もない剥き出しの寝台があって、その上には男が一人横たわっていた。
光も音も、何もかもを遮断した場所に眠る男の耳に、老人の低く幽かな声は届いたのだろうか。
老人は、その痩せた身体を二つに折り曲げたまま微動だにしない。
やがて、何の前触れもなく横たわる男の瞼が静かに開くと、まるで間近で見えているかのようなタイミングで再び老人が口を開く。
「御気分は如何でいらっしゃいますか?あまりにお目覚めにならないので些か心配しておりました」
「…これは…」
男は眉を寄せ、視線をゆっくりと巡らせながら辺りを窺う。そして、胸の上で組んでいた指を解いて持ち上げ、その掌を食い入るように見つめた。
暗闇の中、まるで光の下にあるかのようにはっきり見える己の手指の形に、まるで信じられぬかのような表情を浮かべ。
「ここは何処だ?」
怒りを含んだ天鵞絨の声が闇に響く。
「貴方様はこの城の主。私どもは貴方様がお目覚めになられるのをお待ちしておりました」
「俺は…死んだのではなかったのか?」
男の問い掛けに、老人の口許が、にやりと歪んだ。
「はい。人間としての生は全うされたようです。ですが、貴方様はこうして蘇られ、ようやくお目覚めになられました」
老人の言葉に、男は衣擦れの音を立てて身を起こした。
「どういうことだ?意味が判らぬ」
「貴方様は私ども眷族の正当な血の継承者でいらっしゃいます」
「眷族?」
「はい。人間の精気を食し、永遠の生命と若さを持ち続ける一族のことで御座います」
「…永遠の生命」
「深い傷と大量の出血をきっかけとして貴方様のお力が目覚めたことは判っておりましたが、人間で言う『死んでいる』状態が長かったようなのでご心配申し上げた次第です」
男が声と気配を頼りに老人の佇む方を睨み付けた瞬間、幾重にも垂れ下がった布と共に淀んだ闇と老人の手にしていた蝋燭の灯りが吹き飛ばされた。
叩き付けられるような風圧をまともに浴びたというのに、老人に怯えた気配は見られない。
むしろその表情には安堵にも似た笑みすら浮かんでいる。
その時、初めて男は気付く。
外の光も、蝋燭の灯りも無いのに、自分には何もかもがはっきり見えるということに。
「俺は、どのくらいの間こうしていた?」
「3年ほど」
「そうか…もう、良い。下がれ。少し時間をくれ」
「御意のままに」
音もなく老執事の気配は消えた。
男は3年もの間横たわっていたとは思えないほど流暢な動作で、冷たい石の床に降り立った。身体の何処にも異常を感じる場所はない。それどころか無数の血管の在処、細胞の一つですら、彼の意思の下で動いていると感じることが出来る。
歩こうとした足は、ごく滑らかに一歩を踏み出した。
彼は、閉ざされた闇の奥から幾つもの扉を開きつつ、広大な城の中を何処までも歩き回った。
最後に外へ向かって開け放たれた窓辺へと辿り着く。
城で一番高い場所にあるそのテラスからは、遙か彼方まで続く黒々とした森の姿を眺め渡せる。
力強い満月の光を浴び、風に乗って運ばれてくる森の香りを深く吸い込むと、その身の内に沸々と湧き上がるエナジィを感じる。
「とうとうこんな化け物になったか。もともと忌むべき存在ではあったが…な」
かつて宝石のようなと謳われた金銀妖瞳を眇め、オスカー・フォン・ロイエンタールという名前だった男はそうひとりごちた。
そうは言っても彼には3年間という時間の経過がどうにも納得出来なかった。
それほど彼の脳裏に刻まれた記憶は鮮やかで色褪せていない。
やがて、人としての生を終える最後の瞬間まで会いたいと願った人の笑顔が蘇ってきた。
「人として生きた記憶を捨て去ることが出来なかったとは、やっかいなことだ。…もう二度と、ミッターマイヤー、お前に会うことは叶わぬのか…」
唐突に、永遠の生命を持つと言うことがどの様なことなのかに思い至って、ロイエンタールはその唇に冷たい笑みを浮かべ、己を嘲笑った。
「は…お前が死んで、俺が生きる?永遠にだと?…莫迦な」
月が中天から西に大きく傾くほどの長い時間、無言でその場に佇んでいたロイエンタールは、ある固い決意を持って俯いた顔を昂然と上げた。
ここに、闇の眷族は新たな継承者の目覚めを得る。
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