抜け落ちた「監視と参加」−その1−

2月21日の朝日新聞の朝刊に「情報公開法、政府原案」と題した記事が載った。 昨年暮れ12月23日の「原案」に引きつづき、調整中とされていた「目的」と「不服申し立て」部分が報道されたもの。

記事によれば、政府はこの原案を17日付けで省庁に配布した、3月10日に法案を閣議決定し、国会に提出する予定という。

この「原案」に示されている要旨では、要綱案に示されていた法律の目的のうち、「国民による行政の監視・参加の充実」という表現が「国民の的確な理解と批判の下にある公正で民主的な行政の推進」に置き換えられたことになっている。

記事では、その理由として「基本的な内容は要綱案を踏襲しながら、直接民主制的な響きを避けたと見られる」と解説している(目的の他の部分はほぼ要綱案と同じ内容に)。

「国民による行政の監視・参加の充実」は、「国民の的確な理解と批判の下にある公正で民主的な行政の推進」とどう違うのか、どう同じなのか、なぜ要綱案の「監視」と「参加」という言葉を、このように置き換える必要があったのか、これが単に表現上だけの問題であるのか、考えてみたい。



この「原案」がどのようなものなのか確認した上で、内容について考える必要があると思い、情報公開法制定準備室に電話で聞いている。回答の概略は−その2−にあるが、その前にに、なぜこのようなことを疑問として感じたのか説明してみたい。

情報公開部会の審議概要(総務庁ホームページ)(概略は−その3−参考にあります)によれば、この目的の部分の「監視」と「参加」という表現を巡って、何カ所かで意見が交わされている。

これは概要なので、どのように理解するかは各自の見方によるものもあるが、一つの意見として、次のようなものがあったという。

「・・・「行政の監視」と「行政への参加」は、直接民主制的な色合いがある が、地方公共団体の場合はともかく、国の場合については、そのような考え方が果して現在の憲法構造と調和するかどうか、やや問題があるのではないか。 」

さらに驚くべきことですが、こういうものもあったようだ。

「ポリシーに国民が参加していくことは非常に大切であるが、行政情報公開法というものが、今の憲法、基本的な国家の制度、法秩序を踏みにじって、直接民主主義の極端なものを認めることになってはならないのではないか。 」

これに対して、
「参加という言葉の問題であろうが、情報公開制度の導入は日本の統治構造を変えようということではないだろう」という反論が出ているところからすると、「参加」(または「行政情報公開法」)を、ある意味で、日本の統治構造(憲法)に反するものであるかのようにとらえている人がいて、そのような意見を、この部会で主張されたようだということが推測される。

それに対して、「この制度の背景であるので、言葉はきついが、「監視」や「参加」という言葉を敢えて入れることは、大変重要なことではないか」など、 いくつもの反論が出されたようだ。

そのような議論を経て、その結果、要綱案において、「国民による行政の監視・参加の充実に視することを目的とする」と書かれたという点が重要ではないか。

このような議論を経て、あえて書き込まれた「監視」と「参加」という言葉が、特に政府原案で書き換えられているとすれば、それがなぜ書き換えられたのか、書き換えられた理由は、この審議の過程で示された意見の内容とどこがどう違うのか、やはり説明する必要があるだろうと考える。

つづく


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