1.レンガ工場は本当にあったのだろうか
・前述の「旧川俣駅のようす」と題した当時を知る方の証言に基づいたイラスト(許可を得てないので掲載できませんが、是非「羽生昔がたり第十九巻」をご覧ください)に描かれたレンガ工場の位置を基に、国土地理院の空中写真に落としてみたのが下にある画像です。
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↑1947(昭和22)年『USA-R465-No1-97』(国土地理院の空中写真)※記号、文字等は当会記す
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・そもそも掘越先生にお話しを聞いたのは、旧川俣駅のNゲージジオラマ製作を目指してプランを模索していた、という前提があります。「ジオラマにレンガ工場とされる建物を配置すべきかどうか」ということももちろんですが、「史実に基づいたものにするのか」または「田山花袋の再び草の野にの世界をモデル化するのか」によって表現が全く違うものになるのではないか、と思っておりました。(まだ模索中です)
・実は私がレンガ工場の敷地の規模に疑問を抱いたのには他にも理由があります。というのも、私は大学を卒業後、最初に就職した会社は煉瓦の舗装材のメーカーだったのです。その会社は平成11年に残念ながら倒産してしまいましたが、全国各地に敷設された現場があり、羽生市内でも羽生市立図書館の外構、羽生中央公園陸上競技場の国旗掲揚台、羽生水郷公園のプロムナードなどがその会社の実績でした。愛知にあった工場(工場はOEMでしたので、現在も精力的に営業されています)には何度も行っており、その製造の現場は普通の方よりは知っていると思います。但し、明治時代の煉瓦工場がどんなものだったか、そこはあまりよく分かってはいませんでした。
・掘越先生によると「(旧川俣駅近くのレンガ工場は)非常に小さなものだった」とのことでした。
・私が知っている現代の煉瓦工場は「トンネルキルン」といって、台車に載せたレンガを少なくとも数10mはあるトンネル状の窯で焼くものでしたが、明治時代は下の画像(「煉瓦要説※1より)のように、ホフマン窯か登り窯が中心で、それにしてもどちらも「非常に小さい」と言えるものではありません。明治以前の古くからあった「単窯」いわゆる“だるま窯”のようなものが“小さい工場”では考えられます。煉瓦要説※1には「我邦固有ノ瓦窯二稍異リタル焼窯(煉瓦千七八百本容ルベキ)」とあり、そのだるま窯のような窯は「瓦を焼く窯とやや異なる」、つまり瓦を焼くような窯で、1700~1800本の煉瓦を一度に焼くような規模だったことがわかります。
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↑煉瓦要説※1
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↑ホフマン窯※1
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↑登り窯※1
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・私が当時推測を巡らせたことは2つありました。1つはレンガ工場は例えば日本煉瓦製造の“サテライト”的な施設だったのではないだろうか、ということ。もう一つは少々乱暴かもしれませんが「証言された方が別の施設をレンガ工場と思い込まれていた可能性はないのだろうか」というものでした。(イラストに煙突が目立たないことが気になっていました)
・前述フカダソフトさんのHPではこの考察に非常に参考になる記事がかなり多くまとめられており、その中に”(注7)埼玉県の煉瓦工場”という記事があります。そこには川俣村のレンガ工場については記載がないようです。
・ただ、「日本瓦業総覧」(井上要編 日本瓦業総覧刊行会 1927)の附録編・全国著名瓦営業者便覧の中に「北埼玉郡川俣村小須賀」の「創業明治二十一年 年産五十萬枚 従業員二十一名 瓦製造販売業 楢原惣次郎」とあり、官報によると楢原氏は埼玉瓦工業組合の理事も務められていたようで、同じ川俣に大きな瓦工場があったことがうかがえます。(旧川俣駅から約1.7㎞と推測)
・また、これは「大利根砂利線の研究」の調査中にわかったことなのですが、「埼玉県東部地区の交通」(東部地区文化財担当者会 2015)のP128に「明治34~40年度 東武鉄道貨物発送駅別分類表」という非常に興味深い資料があり、明治36年に旧川俣駅が開業してすぐに、「砂利セメント白土」がいきなり年間3,000t以上の扱いがあったことがわかるのですが、何故か明治39年度に「煉瓦及瓦 瓦土管」という項目が4,489tという数量で記載されているのです(明治36年度・3t、明治37年度・0t、明治38年度は何故か表から抜けている、明治39年度・4,489t、明治40年度・0t)。つまり瓦か煉瓦等の出荷が少なくとも旧川俣駅からあった可能性があるようで、できれば今後一次資料を確認してみたいです。
・さて、このレンガ工場に関しては、やはり田山花袋著「再び草の野に」の影響が非常に大きく、しかしこの小説はもちろん事実に基づいた部分もありますが、かなり誇張された“ファンタジー”的な要素が非常に多い小説ではないかと思います。これは検証する必要があると思います。
・考察が長くなっていますが、「レンガ工場は本当にあったのか」について、当研究会の現時点での見解は
① 田山花袋の「再び草の野に」のイメージが強く影響し、“あった”と思い込まれているが、実際にはあったとしても違う施設だったのではないだろうか
② 瓦工場は旧川俣駅から近いところに大きなものがあり、田山花袋はそのことを知っていて、繁栄の物語のランドマーク的に“高さ”のある煙突を描きたくて煉瓦工場を据えたのではないだろうか
ということになります。
ただし!
・フカダソフトさんも東武伊勢崎線の煉瓦構造物のページに書かれているように「焼過煉瓦」はどこで作ったものか?という疑問が残り、それだけは現地の工場で作ったかも知れない、という可能性が完全に消えるものではありません。
・また、前述「羽生昔がたり第19巻」には旧川俣駅について「レンガづくりのプラットホーム」という表現が出てくるのですが、橋脚・トンネルといった重要構造物には難しいにしても、現地に「下等な煉瓦」(「再び草の野に」における表現)を作る工場があって、それが使われた部分もあったかも知れない、という可能性は完全に否定できるものではありません。
・上記により、やはり継続して資料を収集し、研究を続ける必要があると思っています。では、更に考察を進めます。
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2.旧川俣駅そばにあった工場の煉瓦が本当に使われたのだろうか
・考察1の2で書いた羽生市のホームページの中ある都市づくりフォーラム、この中の第13回に<羽生市の近代化遺産その3>として取り上げられた「おばけトンネル」の記述は下記の通りです。
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<羽生市の近代化遺産その3> 「おばけトンネル」と呼ばれているトンネルが、本川俣の東武線高架下にあります。明治39年に造られたこのトンネルは、表面に煉瓦が巻き立ててあり、小さいながらも端整な姿をしています(一部は改修されてしまいましたが)。トンネルができた当時、近くには東武線の川俣駅があり、トンネルに使用された煉瓦を製造した工場もあって、活気があふれていたようです。駅も工場もなくなってしまった今、小さなトンネルだけが当時の面影を伝えています。 ちなみにトンネル名は、ムジナがこのあたりでいろんなものに化けて遊んでいたというお話に由来しているそうです。(ムジナもんも遊んでいたのかな?) 歴史的建造物とそれにまつわる物語は文化であり貴重な財産です。いつまでも残していきたいものです。
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・上記のとおり『トンネルに使用された煉瓦を製造した工場もあって』とありますね。
・「羽生昔がたり第十九巻」では『鉄橋の橋脚などに使うレンガをつくる工場』となっています。
・つまり合わせると旧川俣駅の近くにあったレンガ工場で伊勢崎線利根川橋梁の橋脚やトンネルに旧川俣駅近くにあったとされる工場で製造された煉瓦が使用されていた、とうことになりますね。
・一方、東武鉄道が1998年(平成10年)に発行した「RAILWAY100 東武鉄道が育んだ一世紀の軌跡」P59には、利根川橋梁工事前の工事について「四〇か所、総延長四.六キロに達する橋梁工事は、(明治)三十二年七月下旬に完工した。主要橋梁のひとつ、元荒川橋梁の橋脚は(中略)橋脚はレンガ積みで、資材は日本煉瓦製造から取り寄せた」とあります。
・また同ページには「日本煉瓦製造は(中略)埼玉県上敷免村(現・深谷市)に工場があり、深谷~上敷免村工場間の専用鉄道を本間英一郎が担当するなど、当社とは少なからぬ縁があった」ともあります。
・また、『日本鉄道請負業史 明治篇』(土木工業協会1967)※2P61によると、伊勢崎線の利根川橋梁と同じく小川勝五郎氏が監督した東北本線の利根川橋梁(栗橋)には、192万本以上使用したとわかる記述があります。伊勢崎線の利根川橋梁より橋長は短いながらも、橋脚の数が多い(伊勢崎線8基に対して東北本線11基)ことを考慮したとして、およそ150万本はあったと考えられ、更にトンネル等もあったわけですから、上記の「非常に小さな工場」だけでその数の煉瓦を供給できたとはおよそ考えられるものではないと思います。(仮に前後の工程を考えず焼き上げる3日だけとして計算しても、150万本を前述の「1,800本の窯」で製造するには7年近くかかってしまいます)
・更に、東武百年史他、あらゆる資料にこの利根川橋梁工事には「小川勝五郎」氏という、橋梁工事のエキスパートが現場監督を務め、東武の資料に描かれた彼の仕事ぶりを見るにつけ、とても品質が保証されないレンガを使うはずがないと私は感じています。そうでなくても「橋脚」「トンネル」といった”重要構造物”に「ただ現場のそばにあるから」とその小さな工場の製品を使用するとは到底思えないのです。
だだし!
・前項で少し触れましたが、トンネルのアーチ部分の「焼過煉瓦」に関してはちょっと別に考察する必要がありそうです。
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↑”おばけトンネル”のアーチ部分は明らかに他と色目が違い、ここに「焼過煉瓦」(小口なので”鼻黒”とも呼ばれる)が使用されている。
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・このアーチ分のレンガの数をざっと出してみると、表面に見える小口のだいたいの数(240本)×延長約7mとしてレンガ長手で約30本=約7,200本となり、まあこの部分だけ、ということであれば小さな窯でもできないことはない数かも知れません。
もう一つ言うと、焼過煉瓦を作る「還元焼成」という焼き方は、単窯で松を原料にしてすることで可能なようです。
・度々引用させていただいているフカダソフトさんのHPの中の「焼過煉瓦」には、このトンネルが施工された時期には、日本煉瓦製造では「焼過煉瓦」が製造できなかったことをうかがわせる資料があったことが書かれています。
・また、これは参考的な資料ですが、『東京市街線』という利根川橋梁と近い時期の明治44年(1944)に竣工した現在でも残っている新橋から上野間の主に煉瓦による鉄道の高架線建設の記録が「日本鉄道請負業史 明治篇 下」(土木工業協会1944)※3─こちらは前述の1967年の同書が活字化される前のものです─にあり、P604に「煉化石(原文ママ)は埼玉縣深谷附近より納入し、鼻黒煉化石は利根川附近の製品を使用した」という非常に興味深い記述があります。ここでの「利根川付近」とは、前述フカダソフトさんの”(注7)埼玉県の煉瓦工場”の中に確認できる「古利根川流域の越谷市(増林河岸の周辺)に多かった」煉瓦工場を指しているものと思われます。
・そして前項で書いた通り、プラットフォームやその他特に重要ではない施設に、もしそこに下等な煉瓦でも作る工場があったとしたら、部分的には使用されたという可能性は全くないとは言えないでしょう。(もし工場があったとしたらです)
・以上のことから、メインの煉瓦のほとんどは日本煉瓦製造製だったであろうことは確実と思われますが、一部の焼過煉瓦の製造元はもっと調べてみる必要がありそうです。さあ、もう少し考察を進めます。
3.田山花袋著 「再び草の野に」と「古驛」「小さな廃墟」に描かれた煉瓦工場を検証してみる
・旧川俣駅のレンガ工場については、とにかく田山花袋の「再び草の野に」の影響が非常に大きいようです。
・「再び草の野に」に描かれた煉瓦工場について今一度詳しく見てみたいと思います。
・私が図書館で借りて読んだ「定本花袋全集第八巻」(臨川書店)は1993年(平成5年)のものでしたが、国会図書館デジタルコレクションでは、「大正8年版※4」「大正14年版※5」そして「大正12の花袋全集 第8巻※6」と「昭和12年の花袋全集 第8巻※7」を確認することができます。
・国会図書館デジタルコレクションでは検索等もできるので大変助かります。これら複数の「再び草の野に」で「煉瓦」をキーワードにして検索したところ、結果的には30か所見つかりました。
・各版の最初に出てくる煉瓦が含まれる文章の「下等な煉瓦を焼く大きな竈が二つまで出来た」の「煉瓦」という文字が大正8年版では「錬瓦」になっていて、全集にはどちらもルビはないのですが、大正8年も14年にも「れんぐわ」というルビがふってありまして、「煉瓦」「錬瓦」「れんぐわ」この3つで検索して確認しています。
・上記「30か所」の内訳は下記の通りです。
◎旧川俣駅の「レンガ工場」の様子を表すもの 12箇所
(主な部分)
・下等な煉瓦を焼く大きな竈が二つまで出来た
・煉瓦を見に来た髭の生えた洋服の男とKと立って話しているのを職人たちは見た。
「どうも、もっと色が出そうなもんだがな。・・・これじゃ、どうもしようがない。質もあまり緻密ではない」
・値が廉いので、地方的に相応に需要があるらしく、時には荷馬車が轍を深くその草路に印しながら、
そこに積んである煉瓦を運んで行っている
・煉瓦の竈の工場に知っているものがあるので、寄ってみる。汽車が出来て、運搬の方は好くなったけれど、
製造品は矢張不十分
・その粗末な廉価な煉瓦を積んだ貨車をトロッコで停車場の構内へと運び入れている
・煉瓦を焼く竈も、今はすっかり荒廃されて了っていた。
・煉瓦を焼いた竈─煙突は既にひとり手に崩れて了った
◎鉄橋工事に関わる煉瓦の様子を表すもの 4箇所
・そこに積み上げる為めの煉瓦を女の土工がせっせと運んで働いているさま
・霜が重ねられた木材や煉瓦や鋸屑の上へ真白に置いた
・此方の岸に近いところには赤い煉瓦が半ばほど積まれてあった
・そこに舟やら組んだ筏やら赤い煉瓦を載せた木材の堆積やら
◎情景描写等として記述されているもの 14箇所
・『煉瓦の工場なども、かれ等には新しいものとして眺められた』等
・検証してみると「赤い煉瓦」という言葉が橋梁工事だけには登場し、田山花袋は明確にそこにあった工場の煉瓦との違いを表しているようです。上記のように、旧川俣駅のレンガ工場では「もっと色が出そうなもんだ」と言われていて、その発色の劣ることと対比させていることがよくわかります。
・結局小説の中では最後まで質の良い煉瓦が製造できないまま、工場は荒廃してしまったことが描かれています。
・ここで注目したい重要な情報があります。昭和12年の花袋全集には、前田晃氏による解説が収録されています。前田氏は田山花袋と一緒に羽生駅から旧川俣駅まで歩いたことがあり、その後の様子も自分の目で見た方です。ちょっと引用してみます。(一部私が現代仮名遣いにします)
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ところで、ここに(「再び草の野に」に)取られた題材もまた実は現実にそのまま実在したことなのである。勿論、ここでは「詩」の効果を大ならしめんがために大いに誇張された傾きがないとはいえないけれども、しかも基本筋は少しも違わず、全くそのままに実在していたのである。(『花袋全集』第8巻,花袋全集刊行会,昭12,「解説 前田晃」P730)
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・やはり「誇張」があることは公然の事実のようです。掘越先生にお会いしてお話しを聞いた時にも、小説の中で田山花袋により”創作”された部分も認められることをおっしゃっていました。
・さて、同じ田山花袋の著作でも「旅すがた※8」の中の「古驛」、「小さな廃墟※9」には、誇張されていない実際の旧川俣駅付近の様子と思われるものが書かれています。
・「古驛」の方では、旧川俣駅を「これほどあわれな小さい停車場は、日本全国、何処を探してもあるまい…」と書かれていますが、煉瓦工場には一切言及されていません。で、問題は「小さな廃墟」の方です。
・私はこの本を羽生市立図書館で読み(貸出不可)、コピーもしてもらっています。
・どうやらそれは「中央公論」の「臨時増刊大正新機運號」(中央公論新社、1915年)に収録されたものだったようですが、国立国会図書館デジタルコレクションでは「百日紅 (近代名著文庫 ; 第14編)」収録分が公開されています。
・ここは大事なので長くなりますが、一部私が現代仮名遣いにして引用します。
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停車場の址の向うの方には、赤い煉瓦の堆積が雨に打たれて風に曝されてそこら一面に散らばっているのが見えた。私達は太古の址をさぐる旅客のような心持を抱いて、礎の残っている跡などを拾って歩いた。
『この赤い煉瓦は何だねぇ。矢張、鉄道の方でつかったのかね?』
『いや、それは、ここに停車場が出来る前からあるんだよ。何でも瓦か何か焼いたあとだよ。それにも面白い話があるんだよ。そちらの方へ歩きながら、『何でもこの先の在の男だがね。事業熱にうかされた奴があってね。何でもかなりの財産家だったそうだが、いろいろなことをやって失敗して、最後にここで瓦を焼き始めたんだね。始めは大分よかったっていうことだったよ。瓦の他に例の井戸端などにつかう赤太い土管なども焼き出したんだがね。ちと仕かけが大きすぎたんで、二年ほどですっかり駄目になってしまったんでね。今じゃ、それをやっていた男も死んで、あとは滅茶滅茶になってしまったということだ』
『ふむ』私は思わず立留った。『矢張、悲劇のあとだね。』
そこらに散らばっている址の中には、成ほど窯のあとだとうなずかれるようなものも残っていた。赤い煉瓦は色が褪せて、草だの蔓だのが一杯に這いかかっていた。その下の溝の水は黒く汚く淀んで、流れるともなくレールの向うの田の中に流れて行っていた。(「小さな廃墟」:『百日紅』,近代名著文庫刊行会,大正12P205~P206)
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・ここにこれまで考察してきた内容の答えが出てしまっているようですね。
・以上のことから、やはり煉瓦工場ではなく、瓦等を作っていた窯だったようです。前述の旧川俣駅から出荷したと記録されている「煉瓦及瓦 瓦土管 4,489t」の記録とも辻褄が合ってきます。
・私が推論した「他の施設」は「瓦の窯」で、その瓦の窯を田山花袋は誇張して「煉瓦工場」とし、そして小説としても事実としても、その工場で製造された煉瓦は橋脚やトンネル工事には使用されていない。こう考えて間違いないのではないでしょうか。
↑大正8年 標題※4
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↑大正8年 奥付※4
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↑大正14年 標題※5
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↑大正14年 奥付※5
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↑大正12年 全集標題※6
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↑大正12年 全集奥付※6
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↑昭和12年 全集標題※7
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↑昭和12年 全集奥付※7
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↑各版の活字
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↑大正12年全集 全集の標題の次に 「武蔵国北埼玉郡川俣村」 としてこの写真が 掲載されている。 ※6
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↑昭和12年 全集解説(前田晃氏) ※7 前田氏は田山花袋が編集主任となった自然主義文学雑誌『文章世界』が創刊された時、田山が執筆に専念するため同誌の編集に携わったとのこと(Wikipediaによる)※7
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↑旅すがた「古驛」P162~163※8
「古驛」については「東武百年史」等にも記述があり、 「再び草の野に」との比較で よく引用されている印象がある。 「小さな廃墟」にこのように詳しく旧川俣駅についての 記述があることを、図書館で読んでちょっと驚いた。
それにしても田山花袋の著作は、文学に疎く、 しかも古い字体に親しんでいない私のような者が読んでも、 そこに書かれている情景が活き活きと脳裏に映し出され、 本当に素晴らしいと思った。
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↑「小さな廃墟」P205※9
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↑「小さな廃墟」P206※9 |
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4.ネット上の情報を考える
・私たちは今、インターネット上で様々な情報を調べ、確認し、自分の知識として取り入れることができ、それはとてもありがたいことです。
・しかしその一方で、その情報が本当に正しいものなのか、または正しさではなく”イメージ”を主体に発信されているものなのかどうか、など、ただただ得た情報を鵜のみにすることは大変危険だという部分もあります。
・ここで、「ちょいのりさん」という方の「居酒屋けいば」というブログを勝手に取り上げさせていただきたいと思います。(申し訳ございません)
・この方のブログは煉瓦について、非常に楽しい記事をたくさん書かれています。
その中で第740話 川俣~羽生・煉瓦のカルバート編☆vol②~という記事には、
このお化けトンネルを訪問したことが書かれています。そして『東武鉄道だから日本煉瓦製造』『秩父鉄道は大阪窯業東京工場』という、かなり煉瓦に詳しいことが、その記述からもわかるのですが、「この時は分からなかったけど、かつてこの近辺には移設される前の川俣駅が存在したそうです。そしてなんと『煉瓦工場』もあったんだって!恐らくその工場の煉瓦がこのカルバート群に使われているようです」ということを書かれているのです。
・恐らく羽生市のHPにある、都市づくりフォーラム、第13回<羽生市の近代化遺産その3>をご覧になったのではないでしょうか。 やはり市のホームページの影響は大きいのだと思います。
・「羽生昔がたり第十九巻」については、まず「再び草の野に」を前面に出されているので、その中での話がファンタジーの部分からの表現でもそれはそれでありだとは思うのですが(だだし、考察したように「再び草の野に」の中でもレンガ工場の煉瓦は橋梁には使用されていません・・・)、
・「都市づくりフォーラム」の方は、「再び草の野に」の世界の説明がないまま、「トンネルに使用された煉瓦を製造した工場もあって」と言い切ってしまっていることに危うさを感じてしまいます。
・それだけではなく、「小さなトンネルだけが」とありますが、実は前後にももっと素晴らしい煉瓦の建造物が残されているだけでなく、羽生駅の南側にはすっかり目立たなくなりましたが、「岩瀬落」「早生田堀」「金子落」の小さな橋梁にも、明治時代の元の煉瓦は残されているのです。
・煉瓦のファンとしては、せっかくの近代遺産の紹介ですから、同じように大事に扱っていただきたかったな・・・と思っております。
5.今後の研究と当研究会の思い
・ここまで羽生市本川俣の「おばけトンネル」について、好き勝手に考察をしてきましたが、その中でも書いたように『「焼過煉瓦」はどこで製造されたものだったのか?』など、継続して調査をして行きたいと思っております。
・また本文には書いていませんが、日本煉瓦製造の製品を使ったとしてその運搬経路はどうだったか、を調べたいと思っております。利根川橋梁の建設当時、日本煉瓦製造には既に専用鉄道が敷設されており、利根川の舟運は廃止していたはずです。深谷から鉄道だったらどのようなルートだったのか、建設にあたって一時的な舟運の復活はなかったのだろうか、というのが当会の疑問点です。
・この項の最後になりますが、私は一人の”煉瓦ファン”として、「おばけトンネル」という名前のこと云々よりも、やはりこの貴重な煉瓦の建造物をとてもとても大切にしたいと心から思っております。
・明治(初代橋梁時代)、昭和(2代目橋梁時代)、平成(3代目橋梁時代)と文字通り歴史を”積み重ねて”いる素敵な存在です。これからもより一層の愛着をもって見守っていきたと思います。
・また、田山花袋の著作の素晴らしさも改めて感じました。煉瓦と田山花袋、どちらも羽生市にとって大きな財産であることを今感じています。
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※1.諸井恒平 著『煉瓦要説』,諸井恒平,明35.9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/847655
※2.土木工業協会 編『日本鉄道請負業史』明治篇,鉄道建設業協会,1967. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2518150 (※閲覧にはログインが必要です)
※3.土木工業協会 編『日本鉄道請負業史 明治篇 下』,土木工業協会,1944. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2942277
※4.田山花袋 著『再び草の野に』,春陽堂,大正8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/959431
※5.田山花袋 著『再び草の野に』,春陽堂,大正14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/959432
※6.田山花袋 著『花袋全集』第8巻,花袋全集刊行会,大正12-13. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/976886
※7.田山花袋 著『花袋全集』第8巻 (一兵卒の銃殺・再び草の野に・河ぞひの春),花袋全集刊行会,昭12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1228267
※8.田山花袋 著『旅すがた』,隆文館,明39.6. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/889158
※9.田山花袋 著『百日紅』,近代名著文庫刊行会,大正12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/962500