大和田は面白い「歴史・文化・自然とのふれあい」

(1)大和田街道とは
 この項は八千代市歴史研究会発行の「史談八千代第25号」特集:道標からよみがえる八千代の古道に掲載された『変貌した「大和田街道」佐久間弘 文』より抜粋して紹介する。
 
 『・・・・・成田街道から南へ向う道路がある。京成大和田駅の横を通り、小板橋地区を越えて千葉市の市境に行き、更に南下し御成街道を横切って千葉市中心部へ達しているかに見える道である。どうやらこの道を「大和田街道」と言ったらしい。』

<大正期の地図に見る「大和田街道」>
 『・・・・・・やっと目的とする地図に辿り着いた発端は、・・・前こてはし台中学校長、花見川公民館長を歴任された吉井弘氏・・・の保有する大日本帝国陸地測量部の一万分の一地形図のコピーを見せて頂いたことからである。
 その地図には成田街道から分岐して御成街道にいたる道筋の2ヶ所に「大和田街道」と明確に記載されていた。したがって「大和田街道」の終点が御成街道かと思っていたが、大正7年版の地図を探っていくと御成街道のはるか南、千葉草野周辺の道にも「大和田街道」と記載されていることがわかった。
 両地図を総合すると、「大和田街道」は大和田の成田街道を起点に千葉の穴川周辺にいたる約10キロの街道ではないかと推測したが、はたして真実はどうか、調査はまだまだ不十分であり裏付けもとぼしいと言わざる得ない。』

<「大和田街道」とはどんな街道だったか>
『・・・・もう一度地図に戻ると、「大和田街道」の左右は明治時代から陸軍演習地である。・・・・・・習志野原の演習を観覧されたのち旧大和田宿の大沢小十郎宅で宿泊された明治天皇は、下志津の射撃場を見聞され、さらにその時の行幸が「大和田街道」を通ったとの説がある。
 しかし、県立図書館所蔵の「明治天皇御遺跡」に』記載されている行幸図によれば、成田街道の下市場を通って下志津射撃場にいたる道筋が図示されており、「大和田街道」を通過されたとは考えがたい。
 といいながら、地図に描かれた「大和田街道」は、直線を引いたようなまっすぐな道と直角に折れ曲がる個所があり、軍の演習に接していることを考えると「軍用道路」としての色彩を強く感ずざるをえない。事実この道は「三角原陸軍演習場」の真っ只中を通っており、下志津原・六方野原演習場や射撃場の標的地が周辺にあったらしい。
 当時の道路は、いま千葉市千種町の「千葉鉄鋼団地」と住宅地となった「こてはし台」の中に消えてしまっているが、こてはし台団地の通称「水道道路」から南に入る小径をたどると、国道16号横手交差点そばの古道とおぼしき道の三叉路に道標群を目にすることができる。白井方面への近道であった「千葉道」であろうか、この周辺も演習場であったかも知れないと思って眺めると、兵隊たちの行軍を遠謀しているような感じがよぎる。
 しかし今はその痕跡すら留めていない平和なたたずまいが目前にある。まさに当時の軍用道路らしき「大和田街道」は、大きく変貌した街のなかに溶け込んでその姿を消してしまう。』

<道標に見る「大和田街道」>
 『大きな変化の中に飲み込まれたこの街道を今に残すはっきりとした道標はもはや見当たらない。
 しかし、千葉市柏井町に残された道標(チ01〜チ04)は、1800年代初めの文化、喜永年代から万延、明治、大正に到る道標の銘文から』現在の八千代と千葉を結ぶ有力な道路であったことを窺わせてはいるが、その他にもいくつもあったであろう道標は、軍演習地の消滅とともに変貌を遂げた街のどこかに置き捨てられているにちがいない。

 この街道の始発と思われる現在の道路は、国道296号から京成大和田駅にいたる道路が県道「大和田停車場線」、千葉市に入って鷹之台カントリー周辺が市道「天戸町横戸町線」、その先を市道「02616」でつなぎ、さらに「三角町柏井町線」で国道16号に接続されているようである。』

掲載の現在の地図は八千代市内の部分のみですが、上記の穴川までの地図はここをクリックしてください。是非比較検討してください。(青木)
 

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