大和田は面白い「歴史・文化・自然とのふれあい」

(1)大和田街道とは   (2)新川ウォーキング   (3)花見川自然歩道   (4)ユニークな大和田宿
(4)ユニークな大和田宿:
D新川開削の歴史、大和田排水機場
 かつての利根川は「坂東太郎」と呼ばれる暴れ川で東京湾に注ぐ河でした。利根川が現在の形になっていくきっかけになったのは、徳川家康が江戸に入府したことに始まります。
 1590年(天正18年)江戸に入府した徳川家康は、当時江戸に流れ込んでいる利根川を香取の海に結びつける工事を開始しました。文禄3年(1594)のことです。
 それは、関宿町のところで台地を切り開いて赤堀川を掘り、利根川上流の水を鬼怒川に結んで銚子に流し出すものでした。
これを「東遷事業」と呼んでいます。この工事がほぼ完成したのが、1654年(承応3年)です。今では利根川の支流となっている渡良瀬川や鬼怒川は独立した河川でした。それは江戸を洪水から守り、農業の安定と江戸に物資を運ぶ航路を作るためのものでした。
 
多くの人の努力によって、江戸の人口密集地帯を避けるように流れを変えていった利根川は、日本最大の流域面積をもつ川になりました。流量の減った利根川は今、江戸川といわれています。群馬県から流れる利根川の水と、栃木から流れる鬼怒川の水が全部銚子の方向に流れ込んむ事になったわけです。 
 この工事で、江戸は水害から守られるようになりましたが、一方ではひとたび大雨が降ると、いつも流れ込んでいる川の水(これを内水と言います)と利根川から逆流してくる水(これを外水と言います。)が合わさり、印旛沼は「暴れ沼」と化し、その周辺の低地や田んぼは水害に見舞われました。
 こうなると、昔から一生懸命干拓をして作ってきた水田が洪水で、どうしようもない状態になってしまいます。印旛沼の歴史は洪水の歴史というのはこのことなのです。
 そのため印旛沼の周りでは洪水から逃れようとして、ものすごい努力を重ねることになります。江戸時代には3度の工事を試み、3度とも失敗に終っています。
 第1度目の工事は享保9年(1724)、今から約280年前に、現在の八千代市平戸の名主、染谷源右衛門が代表になって、現在の花見川を切削して印旛沼の水を東京湾に流すことを願い出ます。この事業は、幕府からの借入金6千両と私財その他をあわせて30万両にもなる大事業でしたが、やはり名主の力では資金不足となり途中で挫折してしまいました。
 江戸では水田や交通路の開発を中心とした経済基盤の整備が進み、関東の発展の土台を築いたのです。
 その後、2度目の工事は約60年の年月を経て、天明年間(1781〜89)に行われた。幕府が惣深新田(現印西町)の名主次郎兵衛門に命じて調査させ、島田村(現八千代市)の二人が 印旛沼開削の目録書を提出、江戸浅草の商人と大阪商人の二人が工事完成時には8割の新田を得、残り2割の新田は地元で分けることで資金を提供、天命3年(1783)に享保9年と同じ事業を開始したが、天明6年(1786)の大洪水で印旛沼の掘り割り工事は破滅的打撃を受け失敗に至っています。さらに60年後の天保年間(1830〜44)に第3度目の工事が老中水野忠邦による天保改革の政策の一環として享保9年と同じ事業で進められたが、花島村下(現千葉市)のケトウと呼ばれる泥土層の箇所が特に水を汲むようなもので、掘り割りをつくる難儀な箇所で、このままでは工事の完成は無理との報告が勘定奉行に出されていた中、水野忠邦が老住職を罷免となり工事は中断、結局失敗に終っています。この3度目の工事には割り堀り工事の手伝いを命じられた庄内藩(現山形県鶴岡市)の人足を連れてきての工事であり、確かな記録もまとめています。それによれば人夫さえ多くいれば工事は出来るとの見通し記しているとの事です。
 明治になっても洪水は続きます。明治なって本埜村に吉植庄一郎、庄亮の親子が現れて、利根川の水が印旛沼に流れ込まないように印旛水門を造ろうとします。
 この水門ができたのは大正11年、逆算すると水門を造るため50年かかったことになります。
 印旛沼の洪水は、利根川から流れ込む外水と、490km2を持つ印旛沼流域から流れ込む内水の2種類があります。大正時代に印旛水門を造って外水を防いだけれど、内水は利根に排水できませんから、洪水はその後も続きます。現在でもJR物井駅付近の農家では、洪水のときに使う小さな船が蔵の中にあるとのです。物井といえば印旛沼から鹿島川の相当上流ですが、その辺まで洪水が押し寄せてきたことになります。
 昭和38年から印旛沼総合開発事業が始まり、江戸時代から3度も失敗した歴史的な花見川ルートを通して、東京湾に排水する事業を始め、昭和44年に完成しました。
 これにより印旛沼の洪水は、東京湾方向には大和田排水機場、利根川方向には印旛排水機場の2つを使って排水できるようになりました。大和田排水機場のポンプ能力は、最大毎秒120t、2日あれば印旛沼の水を全て汲み上げることができるそうです。そのおかげで昭和40年以降印旛沼には1度も洪水は発生していません。新川の洪水の様子の写真をお持ちの方は是非提供願いたいものです。
 利根川は国土の約5%という全国一の流域面積を有しています。
  また、同じ利根川水系の水田でも下流部は広大な低平地水田、中流部は都市部に囲まれた水田、上流部は棚田が多いといったように、地域ごとに異なる特徴を有しています。農業用排水路や田んぼなどは、農業生産の場であると同時に、多くの生きものの生息場所となっています。こうした水田周辺の豊かな生態系は、米づくりが営まれることによって成り立っています。
  参考図書: 千葉県の歴史 発行者:清水勝 発行所:河出書房新社、

 

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