大和田は面白い「歴史・文化・自然とのふれあい」
(4)ユニークな大和田街道: Bなんと「八百屋お七の墓」が大和田に |
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墓石には左側に「天和二年三月二十九日」、右側には戒名の「妙栄信女」が刻まれている。今から320年以上前のこと。ちなみに長妙寺は寛永3年(1628年)に創立され、銀杏はその時に植栽されたものとのことです。 さて、天和二年十二月、江戸本郷から出た火は霊岸島まで延焼した。八百屋の市左衛門親子は駒込の正泉寺に非難し、家が建つのを待っていた。ところが、この間にお七はお寺の少年に恋心を抱き、新築の家に帰っても恋しさはつのるばかり、「火事になったら、また会える」と、放火してしまった。火事はボヤですんだが捕らえられ、翌年三月二十九日、十七歳のお七は鈴ヶ森で処刑された。母親は刑場から密かに骨を持ち帰り、郷里の長妙寺に手厚く埋葬したという。八百屋の市左衛門は四国の人で、妻を大和田からむかえたが、夫婦には子供がなかったので、大和田から妻の姪を貰い育てた。その娘が「八百屋お七」であった。 この八百屋お七の話が未だに語り伝えられているのは歌舞伎によることは既に紹介したとうりである。 |
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