大和田は面白い「歴史・文化・自然とのふれあい」
(4)ユニークな大和田宿: @大和田宿のこぼれ話 |
大和田宿は、成田みちのおおよそ半ば位の位地になる。成田みちは江戸から成田まで十六里(六十四キロ)。その道は一般的に成田街道と言う。成田街道は、日本橋から千住・新宿・八幡・船橋・大和田・臼井・酒々井を通り成田の寺台を結ぶ街道を言う。この道の幕府が定めた呼び名は「佐倉道」である。成田山参詣が盛んになるにつれて成田道、成田街道と呼ばれる様になった。成田山参詣が盛んにな理由は、成田山自体が普及活動が熱心であった事と本尊の開帳を行った事と言われている。特に江戸への出開帳は深川永代寺で行われ、その様子は蜂が蜜に集まるようだと記録されているとのこと。また、歌舞伎の人気役者市川団十郎が成田山を信仰し、その信仰によって男子を得たことにより「成田屋」の屋号にしたことが、江戸の庶民を成田に向かわせる動機になったとのことである。今、成田みちは二九六号という味もそっ気もない三ケタの国道である。 市役所入り口の十字路で、左に入ると八千代市役所から村上・萱田方面、右は八千代台方面に通じる。街道に沿って前方(東側)が旧大和田宿である。かつての大和田宿は大和田村と萱田村にまたがっていて、幕末の本には近江屋、中村屋、若竹屋、東屋、升屋などの宿屋があり、そのほか、煙草屋、酒屋などが軒を連ね、子供等は、「平六へしって桝屋の角すっとばして、じぇ門の角にとまった」と、遊び言葉を並べるほどの町並みであったと記載されてとのことでいるが、何時ごろから宿場の形を整えたかわからないとのこと。伝承として、千葉氏の一族が小田原城の落城を機に引きこもったものを、徳川家康の命で大和田の町たてをさせたという。また、萱田町は佐倉城主tとなった土井利勝が佐倉道を整備したときに、萱田村の一部が大和田の東側に続いて移り宿駅になったと言われている。 市役所入り口の十字路から2件目に沢田家の立派な和風の建物がある。蕎麦屋の沢田茶屋である。これは戦後最初の首相を務めた東久邇宮殿下の別邸で、昭和初期に市川市内にたてたものを、現店主の祖父が買い取り昭和39年に移築した建物とのことである。庭には「無縁法界塔」などもあるが次章に委ねる。 かつての成田みちは船橋から一本松(一里塚か?)庚塚を経て大和田宿に入った。この道をたどる多くの人は江戸の人だったが、そのほか、武蔵、相模、伊豆、さらに摂津(大阪)の国からも成田詣があったという。 一方、東総から江戸へは、香取、匝瑳方面の人々が、距離的にこの宿が泊まりの時刻となったようだ。その先は日蓮信者であれば中山法華経寺、遠くへは身延山久遠寺、常陸からはお伊勢参りが定宿としたようである。 大和田のはずれ、その名も庚塚に、馬頭観音、二十六夜路、そして三山参りの石碑がいくつも建っているのが目につくであろう。当時の三山参りは、奥州講ともいい、一家の主人が中年を過ぎ、そろそろ家督を子供に譲ろうかという人が講を作り、出羽の月山、湯殿山、羽黒山を巡拝するものである。その旅は一世一代のもので、仮の死の旅路でもあった。そのため旅立ちにはミソギ、オコモリをし、白装束に身を固めて出かけた。 七月の暑いころ出立して、約四十日、帰りはもう秋となる。当時からの順路は成田から鹿島、その先は芭蕉のたどった奥の細道である。そして、三山巡拝を終えた行人は、死を経て再生した人とみなされ、帰郷後、三山石塔を建てて、その功績を他の人々に分かち与えたのである。写真は三山信仰を伝える八千代教育委員会による碑(2002.5.25撮影)。 話を元に戻す。先ほどの沢田家から200メートル程先、成田街道沿いの大和田小学校入り口に、寛永三年開基という長妙寺があり、「家が焼けたら寺へ行き、また逢うこともあろうかと・・・・」と、放火した八百屋お七の墓があるのをご存知だろうか。 お七が火あぶりの刑となった三年後、井原西鶴は「好色五人女」にそれを書いて大評判となり、元禄年間、戯曲に脚色された。その後何度も改作を重ね、安永二年『伊達娘恋緋鹿子』に至って、放火の場面は、櫓に登って禁制の半鐘を打つ趣向となった。今でもそれを取り入れ、歌舞伎俳優の玉三郎がこの名場面を、人形振りで観せているそうである。 事件は少女の放火にすぎないが、純情な娘の火刑にまつわる凄惨美が観る人の胸を打ち、今日もなお上演されるのであろう。なぜ大和田に八百屋お七の墓があるのかは3章に譲りたい。写真は(株)論書房発行、森田保編者の「成田みち今昔」の黒川雅光氏撮影を拝借した。 この長妙寺の反対側に圓光院と言うお寺がある。この圓光院の先の細い道を右に入ると、大和田の時平神社がある。この神社の祭神は藤原時平で「三山の七年際」には萱田町の時平神社と交替で「長男役」として神輿が参加する。神輿を出さない方は屋台を出すという密接な関係にある。 大和田の時平神社に入る道から3・4軒さきの民家の間に「おじん様」と言われる小さな社がある。これは昔大和田が大火で焼け野原になったとき、町割りに使用した縄を大事にお祭りしたものであるとのこと。特に説明板もなく言われないとわからない。 ここから100メートルほど行くと大和田駅入り口のバス停がある。この空き地が大和田宿陣屋跡で、宿場の取り縛りをする役所があった。その一隅の大きな石に筆太の字が刻まれた「明治天皇行在之虚」の碑がたっている。これは明治6年(1873)4月に大和田原において近衛連隊の天覧演習が行われ、この演習に感動した天皇がこの原を「習志野原」と名付けられた。以降たびたび演習に行幸され、この地で休泊されたことに由来するものとのこと。 ここの前の信号の交差点を右に入ると、京成大和田駅から千葉市の柏井町から犢橋方面に通じる道で大正初期に「大和田街道」と記されている道である。 ここでは大和田街道を最後に回し、さらに200メートルほど成田街道を東へ進むと右側に薬師寺がある。さらに先に行くと道は下り坂になり、大和田坂または宮坂という坂となる。坂の中ほど左側に萱田町の時平神社がある。 坂をおり左にカーブする道の先がて新川で、橋の名を大和橋と言い、江戸の地図には大和田橋と書かれているそうである。橋の左手に「水資源公団」の看板がある建物が見える。これが大和田排水機場である。この排水機場の完成までがまた江戸時代から続いた治水の歴史となる。この排水機場の完成は昭和43年であるから実に300年及ぶ工事である。 大和橋の右手には京成電鉄の鉄橋が見える。鉄橋から400メートル位鉄道を南西に京成大和田駅があり、丁度先ほどの大和田街道と交差すつ手前である。この京成大和田駅は現八千代市では最初に開通した駅で、またこの歴史も面白い。大和田排水機場・京成大和田駅の歴史についたはそれぞれの章に任せ、大和田街道を先ほど分かれた成田街道方面へ少々行くと、左側に大和田落語会の看板の丸花亭が目立つ。落語も数年続きユニークな大和田の新名所として歴史を造りつつある。この話題も写真で紹介しよう。 この記事は(株)論書房発行、森田保編者の「成田みち今昔」及び八千代市郷土歴史研究会編集の「ふるさと再発見 八千代の道しるべ」の抜粋等で編集しました。なお、『続や千代の昔話「佐山の獅子舞」ほか十八話」』(著者:小林千代美、監修:NPO法人「やちよ福祉の会」・八千代の昔話を学習する会、発行者:南雲克己、発行:窓映社)にも大和田宿と成田街道が取り扱っておりましたので紹介しておきます。 |