大和田は面白い「歴史・文化・自然とのふれあい」
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(4)ユニークな大和田宿: @大和田宿のこぼれ話 |
![]() ![]() 市役所入り口の十字路から2件目に沢田家の立派な和風の建物がある。蕎麦屋の沢田茶屋である。これは戦後最初の首相を務めた東久邇宮殿下の別邸で、昭和初期に市川市内にたてたものを、現店主の祖父が買い取り昭和39年に移築した建物とのことである。庭には「無縁法界塔」などもあるが次章に委ねる。 ![]() 一方、東総から江戸へは、香取、匝瑳方面の人々が、距離的にこの宿が泊まりの時刻となったようだ。その先は日蓮信者であれば中山法華経寺、遠くへは身延山久遠寺、常陸からはお伊勢参りが定宿としたようである。 大和田のはずれ、その名も庚塚に、馬頭観音、二十六夜路、そして三山参りの石碑がいくつも建っているのが目につくであろう。当時の三山参りは、奥州講ともいい、一家の主人が中年を過ぎ、そろそろ家督を子供に譲ろうかという人が講を作り、出羽の月山、湯殿山、羽黒山を巡拝するものである。その旅は一世一代のもので、仮の死の旅路でもあった。そのため旅立ちにはミソギ、オコモリをし、白装束に身を固めて出かけた。 七月の暑いころ出立して、約四十日、帰りはもう秋となる。当時からの順路は成田から鹿島、その先は芭蕉のたどった奥の細道である。そして、三山巡拝を終えた行人は、死を経て再生した人とみなされ、帰郷後、三山石塔を建てて、その功績を他の人々に分かち与えたのである。写真は三山信仰を伝える八千代教育委員会による碑(2002.5.25撮影)。 ![]() お七が火あぶりの刑となった三年後、井原西鶴は「好色五人女」にそれを書いて大評判となり、元禄年間、戯曲に脚色された。その後何度も改作を重ね、安永二年『伊達娘恋緋鹿子』に至って、放火の場面は、櫓に登って禁制の半鐘を打つ趣向となった。今でもそれを取り入れ、歌舞伎俳優の玉三郎がこの名場面を、人形振りで観せているそうである。 事件は少女の放火にすぎないが、純情な娘の火刑にまつわる凄惨美が観る人の胸を打ち、今日もなお上演されるのであろう。なぜ大和田に八百屋お七の墓があるのかは3章に譲りたい。写真は(株)論書房発行、森田保編者の「成田みち今昔」の黒川雅光氏撮影を拝借した。 ![]() 大和田の時平神社に入る道から3・4軒さきの民家の間に「おじん様」と言われる小さな社がある。これは昔大和田が大火で焼け野原になったとき、町割りに使用した縄を大事にお祭りしたものであるとのこと。特に説明板もなく言われないとわからない。 ここから100メートルほど行くと大和田駅入り口のバス停がある。この空き地が大和田宿陣屋跡で、宿場の取り縛りをする役所があった。その一隅の大きな石に筆太の字が刻まれた「明治天皇行在之虚」の碑がたっている。これは明治6年(1873)4月に大和田原において近衛連隊の天覧演習が行われ、この演習に感動した天皇がこの原を「習志野原」と名付けられた。以降たびたび演習に行幸され、この地で休泊されたことに由来するものとのこと。 ここの前の信号の交差点を右に入ると、京成大和田駅から千葉市の柏井町から犢橋方面に通じる道で大正初期に「大和田街道」と記されている道である。 ここでは大和田街道を最後に回し、さらに200メートルほど成田街道を東へ進むと右側に薬師寺がある。さらに先に行くと道は下り坂になり、大和田坂または宮坂という坂となる。坂の中ほど左側に萱田町の時平神社がある。 ![]() 大和橋の右手には京成電鉄の鉄橋が見える。鉄橋から400メートル位鉄道を南西に京成大和田駅があり、丁度先ほどの大和田街道と交差すつ手前である。この京成大和田駅は現八千代市では最初に開通した駅で、またこの歴史も面白い。 ![]() ![]() この記事は(株)論書房発行、森田保編者の「成田みち今昔」及び八千代市郷土歴史研究会編集の「ふるさと再発見 八千代の道しるべ」の抜粋 ![]() |
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