巡節孤蝶 一
――浩瀚はふと、目を見張る。
思わず、手が止まり、視線がそれを追うように彷徨った。しかし、それはあまりに一瞬で、雨雲から落ちた一条の陽光の如くに、もはや追いようもない。
確かめられなかった、と思った浩瀚の後頭部にがつ、と衝撃が加わった。と、同時に声が飛ぶ。
「なに、ぼさっとしてんだ! 手ぇ、動かせ、手!!」
どうやら、山刀の柄を後頭部に突き上げられたらしい。浩瀚は痛みに顔をしかめつつ、恨めしげに後ろを振り返る。
「……そこで殴るか? 昨日の講義の内容が、三割がた消えた」
後ろ頭を撫でる浩瀚に、相手は軽く鼻を鳴らす。珍しい茶斑の髪を後ろで束ねた青年は、山刀の柄でとんとんと肩を叩いた。
「感謝しろ。復習する機会を作ってやったんだ」
なるほどね、と浩瀚は片眉を器用に上げる。
「何しろ俺は、一度聞くだけで理解し、復習なんてついぞ必要のない秀才だから」
わざとらしい憎まれ口に、相手は大笑する。
「そういう科白が周囲に敵を作ることも学べよ、豎子」
「その言葉、俺に向けてかお前に向けてか?」
「……可愛いな、お前の毒舌」
悪いな、と浩瀚はすまして言う。それから二人して声を上げて笑った。
その笑い声を聞きつけたのか、少し離れた場所で作業していた青年が顔を上げる。その背には、山のように薪を負っていた。
「どうした。……休憩か?」
汗を拭いつつ問いかける青年に、浩瀚は笑みを向ける。
「いえ、俺が珍しい物を見つけて手を止めていたところを、労に注意されたんです」
はは、と青年は笑みを零す。
「それは蕃生も同罪だな。手を止めた浩瀚を見ていたわけだろう?」
あ、と浩瀚は、自分の肩より低い位置にある顔を見た。労は悪びれずに頭をぼりぼり掻く。
「ばらすなよ、柴望。お前が言わなきゃ、こいつ気付かなかったのに」
柴望は笑い、浩瀚も苦笑しながら口を開く。
「それくらいのことにも気が付かないようじゃ、やっぱり気が散じていたんでしょうね」
憮然とした風にも見える浩瀚に、柴望は穏やかに笑った。
「――それで、いったいなにを見たんだ?」
大したものではないんですけど、と浩瀚が前置きする。
「……蝶です」
蝶、と年長組は目を見張った。
「この時期に?」
「ええ、だから珍しいなと、目で追ってしまって……」
へえ、と労が呟く。浩瀚は口元に手を当てて、考えるようだ。
「何の蝶だったのかな……」
本当に蝶だったのかどうかさえ、よく確認できなかった。
真摯に考え込む浩瀚の様子に、労と柴望は目混ぜする。
――柴望が、薪に引き摺られないよう、慎重に腰を降ろした。労も同じく腰を降ろし、さっさと薪を身体から離す。浩瀚は口元に当てていた手を外して、きょとんとした。労が、面倒臭そうに自らの隣を指し示す。
「ほら、座れよ」
でも、と首をかしげた浩瀚を、柴望も促す。
「座れ。蝶が見たいならな」
浩瀚は瞠目する。
乾燥し、冷気を含んだ風が木々を揺らす。収穫の時期を終えた田畆には、人影もない。人は廬から里へと帰る仕度をしているのだろう。大して道具もないとはいえ家中を整え、次の季節の宿りとするとき、心地よく過ごせるように、屋根を葺き直し、窓と戸とを打っておく。そして、財と農具と家畜をそっくり里に連れ帰るのだ。
集落のはずれにある林で、三人は、来年の冬のための薪を集めていた。彼らはこの国で高名な義塾、松塾の徒弟だ。松塾は支松のはずれにあり、数十人の徒弟を抱える。徒弟の中には遠方から通ってくる者とその学舎で生活している者とが居た。彼らは後者にあたり、冬の間、特に郷里に帰る気もなく、学舎で過ごす口だった。
「……もう、四年か」
柴望が、田畆を眺めつつ、呟いた。同じように田畆を見つめる二人は、特に返答しない。
――先王が崩御して、四年。蓬山に景果は生っているというが、次の王の起つまではまだかかる。黄順三五年――いったいこの元号は何年まで年を重ねるだろうか。
「三十一年か……。俺が生まれる十三年前からの朝ってことだな」
感慨深げに独白した労が、笑って空を見上げる。
「あんまり、変わりも感じねえなぁ」
崩御近くなれば国は荒れ、妖魔も姿を見せ始める。だとすれば、妖魔や天災を見なかったのはほんの数年だけだろう。政はと言えば、末端には王の治は行き届いておらず、百年来の因習のような官吏の息付くまま――。そんな麦州の田舎で生まれ育った労には、王が在ることの恩恵を感じたことなど、実際のところなかった。
労はちらりと幼馴染みの顔を見やる。柴望は王の在る時代を回想していたらしかったが、やはり彼と同質の感想しか浮かばなかったようだ。労の視線に気が付いて苦笑した。
「……王なんて、居たのかな」
――労が問いかけるより先に、落ちた言葉。
薄紅紫の眸は遠くを見つめたまま。山刀を振ることで身体に宿った熱は、冷気に晒されとうになく、言葉は痛いほどに冷たかった。
しかし、青年は、自分の言葉に首を振るようにする。
「――今度の仮王は、靖共だそうですよ」
一拍をおいて、労が首を捻った。
「あーっと、どっかで聞いたなぁ?」
「……大司寇じゃなかったか?」
柴望は首をかしげた。答を求めるように浩瀚に視線を遣れば、頷きが返る。
「先の大司寇です」
言って、少し肩をすくめた。
「でも、俺もまだそれ以上は調べてないんですけど……。老師達に聞いても、自分で調べろと言われるばかりで」
と、浩瀚は苦笑する。労が、鼻で笑った。
「今の朝を牛耳られるなら、そりゃあ、大したやつだろうよ」
「そうだけどな。……まぁ、調べてみるさ」
軽く応じて、浩瀚は腰に付けた竹筒を取り出す。喉を潤してから、首をかしげた。
「ところで、さっきのはどう言う意味だったんですか?」
柴望は、ああ、と口を開く。
「蝶を見るなら、動かないほうが良いんだ」
労が笑って、後を引き取る。
「蝶には、道があるんだよ」
そして、昔話が始まった。
「――俺と柴望とで林で遊んでたときに、すげえ大きくてきれいな蝶が通ってさ。二人で追っかけたんだ」
でもこいつ、と労は柴望を指す。
「地主んちのお坊っちゃんだから、足が遅くて……」
「お前がすばしっこすぎなんだ」
柴望が、むっとした表情で言う。くすくす笑っている浩瀚に、弁解じみた表情で補足した。
「何しろ、相手が飛ぶものだろう? 大きな岩や木の上を通るから、追いかけるのは難しくて……」
「そうでしょうね」
「そうなんだ、だからこいつを追いてっちまって」
浩瀚は笑う。柴望が労をねめつけたが、労は気にしない。
「俺も追いかけるのに必死で気が付かなくてさ」
一人で森の中に取り残されては、子供はさぞ心細いだろう、と浩瀚は思った。しかし、その子供が柴望だと言うのはおかしくて、込み上げる笑いを必死に押さえる。
……そのとき柴望は、くたびれて途方に暮れて、手近の石の上に腰を降ろした。頬杖を付いて考え込んでいたその目の前を、自分が追っていたはずの蝶が通っていって驚いたと言う。さらに、その後から、労が走って出てきたとなれば……。
労は自分を見つけて、吃驚して足を止め、
――お前、なに泣いてんだぁ?
と言ったのだ。
「泣いてない! って怒られたけどさ、絶対泣いてたって」
労が浩瀚に向かって熱心に言い募るのに、柴望は憮然とした表情を見せる。
「……別にどうでもいいだろう?」
「じゃ、泣いてたんだな」
「なぜ、そうなるんだ?」
言い合いが始まってしまった二人に笑いながら、浩瀚はなぜか振り返る。まるで、気配に導かれたように。
――蝶。
この厳しい季節に迷い出た、青い……。
灰色の大地を背景にあまりにも明らかにその身を曝して、落ちるような優雅さで、眼前を過ぎる彩――。
息を詰めて、まばたきの余裕もないままに、その蝶を見つめていた。
なぜ、この時期に、大地の上に迷い出たのか問うかの如く――。
その蝶が見えなくなってから、漸く二人に報せることを忘れていたことに気が付いた浩瀚は、だが、笑う。まぁ、いいか、と思った。
二人には、二人で見た蝶があるのだし……。
「――蝶にさえ、道がある」
その言葉に、小突き合いをしていた二人が浩瀚を見る。
労が気付いたように目を見張って、口を開こうとした。が、柴望がそれを引き留める。暫しの間、目を見交わして、労も納得したように片頬を歪めた。
柴望は薪の山を背負い直し、立ち上がる。
「――お前は、どんな道を行く?」
その言葉に、浩瀚は顔を上げる。柴望を見つめる眸が、ややあって、まろく光を含んだ。
「さぁ……」
でも、と笑う。
「蝶の道では、ないでしょうね」
あったり前だ、と息を吐いた労も、既に立ち上がっている。
「――帰るぞ。日が暮れちまう」
え、と浩瀚は首をかしげかけ、理解した。照れくささに笑いを噛むようにして、自身も立ち上がる。
既に背中を向けている二人に、軽く頭を下げた。
――灰褐色に映える青を、まざまざと胸に見ながら……。