その日は柴望からの言伝をに伝えると再び柴望の元へと戻るべく帰途についたところだった。




麦州侯罷免、そして浩瀚逃亡。
今や浩瀚は指名手配の身、こうなるであろうことも予想はしていたし特に焦りは感じない。
だが浩瀚は、それとは別にどことなく落ち着かない己がいることに気づき始めていた。
何か心のかけらを一つ、どこかへ忘れてきてしまったような・・・

居場所を知るのは柴望のみ、には浩瀚が堯天北西の貞晋という知己の邸に潜んでいることだけ知らされていた。





数日前、の元にいた傭兵が一人行方を絶っていたこともあり、は毎回違う道、人通りの多い道を選び、不穏な気配には細心の注意を払っていた。
だが、どうやら敵の方が一枚上手だったらしい。

たまたま通った人通りの少ない細い路地で厭な気配を感じとった時には既に遅かった。
あっという間に数人の男に囲まれてしまったのだ。
相手は4人。
剣の腕には自信がある、だが今持っている短剣では苦戦を強いられそうだ。
五感を研ぎ澄ませ相手の出方を窺う。
全員を倒すのは無理だろう、ならば隙をみて逃げ切るしかないか。
自分たちの動きが明るみに出れば全てが水泡と化してしまう、騒ぎを起こす事は避けたい。
とにかく戻って柴望様に報せなくては・・・。

男達はが太刀を持っていないのを確認すると、じわりと間合いを詰めてきた。
は壁を背にし短剣を抜き、脱出口を作るため端の小柄な男に斬りつけた。
その素早い動きに男はかろうじてかわす、その横から隣にいた別の男が襲ってくる。
はそれを巧みに避けると男達は一方に纏まる形となった。
(たいしたことないな、逃げ切れる)
そう確信し、くるっと身を翻すと走り出した、がいつの間に来たのか二人の大柄な男が目の前に立ちはだかっていた。

(くっ、罠だったか)
咄嗟に剣を構えるがそのまま走り抜くことは不可能だ、立ち止まらざるを得ない。
抵抗する間もなく背後から来た4人の男に取り押さえられてしまった。
その場で目隠しをされ、後ろ手に縄で縛られると路地の出口に止めてあった馬車に押し込まれた。



馬車は暫く走りある邸の前で止まった。
は馬車から引きずり降ろされ、邸の一室へと連れてこられた。
人の気配が遠ざかり扉の閉まる音がすると房室は静寂に包まれる。
人気がないのを承知の上で敢えて「誰か居ないの?」と声を出してみる、反響の具合から察するにそれ程広い房室ではなさそうだ。



ここはどこか、敵の目的は何なのか、柴望様は私が戻らないと心配していることだろう。
私はどうなるのか、ここから出ることなく死ぬことになるのか。
もう二度とあの方にはお会いできないのだろうか。
しんと静まりかえった房室で一人、は絶望感に包まれていた。
目隠しをされたままなので房室の様子も何もわからず、逃げる術を考えようにもそれは叶わない。
精神的に追いつめられていく自分を感じながら、とにかく冷静になろうと呼吸を意識して整え気を静める。

突如、ギィーッと重く扉の開く音がした。
の全身を緊張が走る。

「お待たせして申し訳ない」
低く落ち着いた声がした。
「誰なの?何が目的?」
「貴方に質問を許してはいない。貴方は問われたことに答えればよいのだ。」
なかなか腹黒そうな男だ、おそらく私が何を聞いても容易には答えないであろう、とは思った。
「物わかりは良さそうだな。では私の質問に答えて貰おう。まずは、貴方の名を聞こうか」
「・・・」
「名を言え」
「・・・」
男はあくまでも丁寧な口調だが、その低い声は感情を感じさせず冷たい。
はギュッと口を噤んだ。

、ですよ」
少し離れた所で若い男の声がした。
「確か彼女は元州宰の元で伝令のようなことをしていたかと。時折青辛の所へ来ていましたから」
(何故それを知っている?まさか先日行方知れずとなった傭兵はこの男なのか)

「そうか、偶然とは言えなかなか良い獲物を見つけてきたようだな。よくやった」
低い声の男は言いながら、ふっと笑ったようだった。
「では単刀直入に聞こう。元麦州侯の居場所を知りたい」
(やはりそうか。この様子では単なる賞金稼ぎではなさそうだ、ならば呀峰、いや靖共に繋がる者か)
聞かれて素直に答える馬鹿がどこにいる、とは相変わらず沈黙を守る。
「私とてこれで答えが返ってくるとは思っていない。とやら、貴方が自ら喋りたくなるようにして差し上げよう」

目隠しをはずされると、窓もない薄暗い小さな房室だった、燭台の僅かな灯りに見える男達の顔にも見覚えはなかった。
薄く不気味に笑んでいる目の前の男を睨みつけると、男は静かに言った。
「綺麗な目をしている。貴方のような美しい女性をこのような目に遭わせるのは不本意だが・・・」
そう言いながらの頬をすっと撫でる。
「素直に答えれば今後私の側に置いてやっても良いのだぞ。今一度聞く、浩瀚の居場所を知っているな、どこだ」
「知らない」
は男を睨みつけたまま答える。
男は短く溜息を落とし、立ち上がると
「手荒い真似はしたくないが・・・仕方なかろう。私は忙しいのでな、後はこの者達が貴方のお相手をする。あまり逆らわぬ事だ。私の言っていることがわかるな」
そう言い残し、房室を出て行った。




夜更けになってもは戻らず、柴望は苛立っていた。
いつもならばとっくに戻ってきてらの状況報告を済ませている頃だ。
実直なが報告を怠るなどあり得ない。
やはり何者かに連れ去られたと見るのが妥当であろう。
翌日の開門を待って柴望は自らの元へと向かった。
柴望から事の次第を聞き、直ちにらは動き出した。
和州内であれば怪しい場所を既に数カ所見当をつけてある、そのうちのどこかに捕らえられたとすれば見つけるのは時間の問題だ。
(侯に報告せねばなるまい、無事救い出せれば良いのだが・・・)
柴望は深く溜息をついた。

翌日柴望が浩瀚にのことを報告すると、浩瀚の表情は僅かに厳しくなり、「そうか」とだけ言う。
浩瀚は自分の中で血の気が引いていくのを感じていた。
だが、あくまでも冷静に柴望に指示を出す。
「今は乱を控えた大事な時期だ、ここで表沙汰になっては本末転倒。くれぐれも内密に頼むぞ、最悪の場合にはのことは・・・」
諦めるしかないだろう、と言外に含み、柴望をちらと見る。
「侯・・・」
柴望は浩瀚の心中を察し、それ以上何も言えず一礼すると房室を後にした。

浩瀚は窓の外の月を見つめ人知れず溜息を漏らす。
、どこにいる。出来ることなら今すぐにでもこの手で救い出してやりたい。どうか無事でいてくれ)
自分が動けない歯痒さに固く握りしめた拳を、憤りを壁にぶつけた。




あれからは男達に殴られ蹴られ、苦痛に耐えながらも聞かれたことには悉く無言で返した。
そうして二日経ち、は体力の限界を感じていた。
疲弊しきった身体は痛みすら感じなくなってきており、意識が朦朧としてくる。

(・・・やはりこのまま死ぬのか)
ぼんやりと思っていると、あの低い声の男が房室に入ってきた。
「ああ、美しい顔が台無しだ、加減を知らぬ者達で済まぬな。なかなか忠誠心に篤いようだ、と褒めたいところだが、喋ってもらわねば私が困るのだよ」
冷たく微笑む男を、は睨みつけるのが精一杯だった。

男は手に持っていた香のようなものをの鼻先に差し出した。
やがて頭の中に霞がかかるような感覚とともに意識が徐々に遠退いていく。
「そろそろ限界のようだな、だが貴方に眠る時間を与えてやれる程余裕はないのだよ。さあ、目を覚まして貰おうか」
数回平手打ちされ無理矢理意識を引き戻される。
「答えて貰おう、浩瀚はどこにいる」
「・・・浩、瀚様」
の口は自分の意志とは裏腹に言葉を紡いでしまう。

(だめだ、喋りたくない。このままでは堕ちてしまう)
死にたい、と思った。
こんな状態では自分はいずれ喋ってしまうだろう、そうなれば浩瀚様の命が危うい。
だがもはや舌を噛み切る力さえ残っていない。
眠りたい、目を閉じると再び叩かれ覚醒する。
聞かれる度に封じていた記憶が引き出され口から漏れ出てしまう。

「侯・・・お会いしたい」
「答えてくれたら会わせてやると約束しよう。さあ私に教えてくれ」
男はわざと優しげに言う。
「・・・侯は・・・堯天に・・・」
「堯天に居るのだな、堯天のどこだ」
「・・・堯天の・・・・・」
貞晋、と呟いたの声は突然の喧騒に掻き消され男の耳には届かなかった。

一人の男がもの凄い勢いで房室へ飛び込んでくる、その後を追うように数人の男達が房室に入ってきた。
達だった。
、しっかりしろ。」
は床に転がるように倒れているを見つけ、駆け寄った。
「後はお前達に任せる、夜が明ける前に引き上げろよ」
憔悴しきっていたの声に安堵し、意識を手放していた。
を抱きかかえ、そのまま柴望の元へ急いだ。

無事救出され、丸一日眠ったままだったが漸く目を覚ますと、そこは見慣れた自分の臥室だった。
(私、生きてるの?帰ってこれたの?浩瀚様は・・・?)
自分は居場所を喋ってしまったかもしれない、ぼんやりと記憶を辿っていると柴望が入ってきた。
「柴望様、私・・・侯は、浩瀚様は御無事なのでしょうか」
柴望はが言わんとしていることを察し、うむと頷く。
「侯は御無事だ。大丈夫だ、お前は何も喋らなかった。よく耐えたな、安心して休むが良い」
それを聞いてはほっと胸を撫で下ろした。
「申し訳ありませんでした、この大事な時にご迷惑をおかけしてしまいました」
「気にするな、お前が囚われなくとも他の者が囚われていただろう。侯が心配しておいでだ、今日はゆっくりと休んでおけ」
そう言うと柴望は出て行った。


翌日、日が沈むと柴望に馬車に乗るよう言われ、言われるまま乗り込むと向かいに柴望も座る。
「あの柴望様、どちらへ?」
だが目を閉じたままの柴望から返答はなく、ただ馬車の走る音だけが響いていた。

馬車が止まり、促されるまま降り立つとそこは貞晋の邸だったが、無論訪れたことのないはここがどこなのか解していない。
まだ回復しきっていない身体を引きずるようにして歩き、最奥の部屋へと案内される。
房室の外で待つように言われ、柴望は房室の前で声をかけると中へと入っていった。
少しして柴望が出てくると房室に入るよう言われ、柴望はそのまま帰っていってしまった。
状況を掴めないまま仕方なく房室へ入ると、そこにいたのは浩瀚だった。
の窶れた姿を見ると浩瀚は胸が痛み、視線を床に落とした。
「浩瀚様、何故・・・」
が驚きに立ち竦んでいると、浩瀚がゆったりと歩み寄ってきた。
そしてを支えるようにして牀榻に座らせると自分も隣に座る。
「すまない、辛い思いをさせてしまった。お前が囚われたと知らされた時、身が引き裂かれる思いがした。お前を失いたくないと・・・お前を愛してしまっていた事に気づいたのだよ」
の肩に腕を回し、そっと胸に抱き寄せた。
「浩瀚様・・・私、ご迷惑をおかけしてしまったのに・・・」
「それは違う。私のせいでお前を巻き込んでしまった。お前を残してくるべきではなかったのだ」
「浩瀚様、お会いしたかった・・・もう二度とお会いできないかと・・・」
堰を切ったようには泣き崩れた。
「私もだ。お前と離れてから一日たりともお前のことを想わぬ日はなかった。どうせ動けぬ身だ、私がお前の傷を癒してやろう。もう二度と離さない、覚悟しておけ」
の瞳から溢れ出る涙をそっと拭うと優しく口づけた。




それから二日後、
ー 止水郷拓峰に変事あり ー
拓峰で郷城の義倉が襲われた、と青鳥が届き、らはいよいよ動き出したのだった。


さあ台輔、戻りましょう