富士30度バンク
Fuji 30°Bank
*高速バンクが生んだ事故*
-* Fuji speed way *-
(富士スピードウェー:1974年当時)
1974年6月2日、富士GCシリーズ最悪の事故が起きました。前年、11月23日GC第5戦にも一人死亡、3人が重軽傷を負う事故があったばかりでした。おりしも、時は『オイルショック』の最中で、世間のモータースポーツへの風当たりの強い時期でした。
74年富士GCシリーズ第2戦、第2ヒート、PM2時05分44秒、晴天の中、17台のマシンがスタートしました。ポールポジションからスタートした高橋国光選手を追うように、黒沢元治選手と北野元選手が並んで高橋選手の後ろにつきました。そして、第一コーナー(30度バンク)へ向かっての位置取りの争いになりました。30度バンクは世界でも屈指の高速コーナーであり、パワーのあるマシンは、アウトからバンクの最上段を周るのがもっとも早く、選手はみんな、アウト側の好位置を取ろうとします。
先頭グループは4速にシフトアップし、スピードが200Km/hに達した頃、黒沢選手は高橋のインから抜こうと高橋選手の右後方に付けていました。しかし、抜けないと見て、高橋のスリップストームに入ろうとアウト側に車線を変更します。その時の、車速が230Km/h前後でしょうか。
そして、黒沢選手と高橋選手の左後方を走っていた北野選手が接触、その後2〜3回接触し、北野選手のマシンは、カウルを破損しながら外の芝生に押し出され、何とかコースに戻ることは出来ましたが、コントロールを失い、スリップしながらコースを右に横断しました。北野選手のマシンは、風戸裕選手と鈴木誠一選手の間に入り両車に接触、大事故となってしまいました。この事故で、鈴木選手と風戸選手は、帰らぬ人となってしまいました。
鈴木選手は『東名自動車』の社長であり、日産系エンジンのチューナーとしては、日本屈指の人であり、当時、レースに参加していた日産系のレースカーは、ほとんど、彼の手がかかっていると言っても過言では無いでしょう。後輩の面倒見がいいことでも定評があり、人望の厚いことで有名な人でした。また、風戸選手はシェブロンのワークスチーム入りが決定し、F2でヨーロッパに本格参戦することが決まっていました。これからの活躍が楽しみな人材でした。
もう1つ悲しかったことは、この事故の責任は黒沢選手にあるとして、警察が書類送検したことでした。確かに、事故の原因はスリップストーム入ろうとした強引なポジション変更にあったのかもしれませんが、スポーツの世界に警察が介入したことでした。当時、黒沢選手には、ブリジストンがスポンサーに付き、テレビCM(安全運転をテーマにしたようなCM)にも出ていて、マスコミの格好の標的にされた感もありました。それまでレースは、ごく一部の人達だけのものだったのが、このCMで一般の人にも理解されかけた時期の出来事であり、『レースは危険なもの』と言う風潮が出来たような気がします。
-* Fuji speed way *-
(富士スピードウェー:1969年日本GP)
先頭を走るのは『トヨタ7』