地 勢
|

高原山の中腹に端を発した水流は、やがて天沼川・湯沢川となって平野の東西を走り抜けている。この川に挟まれた丘陵は、旧庄屋若目田惣左衛門の屋敷跡でプッツリと切れている。この屋敷周辺に平野焼の窯が築かれた。通称「寄居」と呼ばれている所である。標高にして280mの地 点である。ここから西側、あるいは南側に向かっての傾斜を利用して、4基の登り窯が築かれていたという。
この西方約100mの所に、平野の鎮守である箒根神社が祭られている。その棟札には、寛和元年(985年)9月改築とあるから、創建は更に遡 ることが出来よう。また、この周辺からは平安時代から戦国時代にかけてのカワラケが大量に出土しており、かなりの住居が建てられていたようである。
この脇を天沼川の支流である石田川が流れているが、水流も豊富で、ここに終戦前まで水車がゴトゴト音を立てていたそうである。
田野原からこの神社脇を通り、寺山観音寺に通じる道は古い宗教道である。この道を500m程進むと、観音寺と鉱泉へのY字路となり、右へ更に1.5km程進むと鉱泉に出る。この鉱泉の前に、白くかなり高い土の露頭があったが、これは、鉱泉の作用でこのような塊になったものと推されるという。(芳村俊一氏説)平野では、胎土としてこの土も一部利用したものであろう。
この下層にある通称「ネバ土」は、焼き物の絵付けには欠かすことが出来ないもので、ドイツ人のワグネルによって発見され、我が国の窯業 を大きく発展させたのである。また、明治も中頃になり、益子でも窯業が盛んになってくると、寺山白土は不可欠のものとして、年に250俵程運ばれるに至った。資料によれば、1俵あたりの価格は35銭で、この内の半額は地主である観音寺に支払われたという。
この前を流れる湯沢川沿いを、更に1km程北上した辺りが、古文書にある土採り場のはずであるが、その核心部はまだつかめていない。ただし、20年位の期間を賄った訳であるから、かなり凹地になっているはずと思うのであるが。
昭和58年の春に、この土採り場の西尾根(長井地区)、標高差にして約50mの所に林道平野〜県民の森線が開通した。このために、この辺一帯の地層は、今から約3〜50万年前の高原山の噴火活動によって堰き止められた湖沼の底に堆積されたものということが、確認されたのである。そして、この中に含まれているのが、珪藻土と呼ばれているもので、耐 火性があって平野焼の窯道具等に使われていた。
芳村先生によれば、陶土に最も適しているのは、約1億年前の花崗岩だそうで、現在の窯業地帯は全てここに集中しているという。この花崗岩地帯は、矢板を北端に茂木から益子まで続いている。益子はご承知のように、関東でも一大窯業地帯であるが、今では土採り場はどんどん茂木の方面へ、つまり北へ北へと進んでいる。
平野焼の廃窯が、資源の枯渇によるものではなく、まだ無尽蔵に眠っているものと思われるため、平野焼の再興を夢見ているこの頃である。
(備考) 寺山白土と言われても、「釉薬として使われるもの」と「胎土として使われるもの」の2種類がある。また、時によっては窯道具等に使われた「珪藻土」を指す場合もある。
|
| 古文書は語る |

平野焼については、幸いにして3通の古文書が残されており、これを唯一の手掛かりとして、考察を加えて見ることにしよう。
|
[1通目] 嘉永3年3月
これは、この平野でも窯業を始めたいので、許可して欲しいという願い書である。
9名の名が連ねてある。
(若目田)惣左衛門 (津久井)弥左衛門 (渡辺)源吾
(津久井)嘉兵衛 (印南)清兵衛
(関谷)金之丞
(野滝)忠太 (星野)茂右衛門
(細川)縫之助 |
右者此度當村地内湯沢山と申処より瀬戸物に至極
この粘土が出るということは、嘉永3年以前から知っていたのであろう。それが焼物に適しているかどうかは不明であった。
御他領成田村と申処に瀬戸焼渡世人啓蔵と申者
成田で窯業が行われていたことを知っていた。ということは、この当時には「成田焼」というものが出回っていた。そんな中で、湯沢山の粘土も焼物に、と話が発展して行ったものと思われる。そして、この土を成田に送って試し焼をしてもらったら、結果は上々であった。このことは、昭和58年の発掘調査の際に、成田の窯跡から「平野」と書かれた陶器がたくさん出土していることからも裏付けられる。
右啓蔵事肥前国出生に而身元も実体と相見申候者
啓蔵に関しても、この願書を提出する前に詳しく調査している。
私共此者召抱少々瀬戸窯
この召抱えとあるのが気に掛かるところである。成田でも、そう簡単に手放す筈がないし、もしこの通りだとすると、啓蔵は肥前から流れてきた陶工達の中でも、頭領格ではなかったのか。また、その後平野で一生を送ったのか。あるいは一時的なものであったのか不明である。
窯壱口に付壱ケ月に銀壱匁分之御運上
1ケ月に銀1匁の運上金(税金)を支払うとある。しかし、嘉永7年の古文書によれば、この運上金を滞納し、その額は銀83匁にも及んでいる。
瀬戸物品々宜敷出来仕候節は窯数追々築立
翌年には窯数を増やす計画を立てている。
|
さて、この願い書は直ちに許可され、諸準備にあたったものと思われる。何故なら、翌年の古文書にあるように、この5ケ月後の8月には宇都宮藩に献上しているからである。
ただ、この短期間に、という疑問が残るが、多分成田からの応援があったのであろう。あるいは、匣鉢(さや)などの窯道具は、成田で焼いたのかも知れない。
|
[2通目] 嘉永4年12月
これは、窯数を増やしたものの焼き損じが多かったり、諸物価の値上がり等で困窮したので、金子を借用したい旨の願い書である。 |
去る戌三月中瀬戸焼窯築立て
試し焼の結果は上々であったらしい。ただ、最初から「磁器」を焼いたとは思えず、他の多くの窯がそうであるように、この年は陶器も焼いていたものと思われる。また、「嘉永4年平野製」の年号入り染付け茶碗は、何のために年号を入れたものか。
尚また同年九月中頃、窯四口築立て御願奉り候処
同年=嘉永3年これまでの窯(2基)に2基を加えたものか。
同十月頃御殿様大小御皿、御茶碗注文
殿様から注文があった。みんなの喜んでいる顔が目に浮かぶようだ。そして、11月9日と12日に献上している。
此の土、彼の土と取集め調合の加減も混乱致し
焼物の命は「土」、湯沢地内を数箇所発掘し、最後は黒滝付近に落ち着いたらしい。
去戌十一月中御拝借願上奉り漸く相凌ぎ
嘉永3年11月に金額は不明であるが、借金している。
此上職人共大勢召抱え(中略)金子壱百両御拝借
二度目の借金、しかも今回は百両という大金である。ここでいう大勢とは10人位を指しているのか。その職人達に支払う賃金も大変なものであったろう。また、この古文書の下書き(木村家所蔵)には、この百両を5年で返済したいとある。
|
[3通目] 嘉永7年
これは、運上金の滞納分を猶予して欲しいという願い書である。 |
農間之稼として瀬戸焼仕候処
窯業は、あくまでも農閑期の稼ぎであった。つまり、半農半窯の生活をしていたのか。
銀八拾参匁 嘉永三戌年より瀬戸窯御運上御不納分
嘉永3年から7年までに銀83匁の運上金を滞納している。運上金すら払えなかったということは、売れ行きも思うようではなかったのか。
多分焼損じ難色仕入れ方に必至と差支払負借財等
借金はかさむ一方である。惣左衛門の胸中やいかに。確かに釜跡からは焼き損じのものが多量に出ている。啓蔵ほどの腕を持った者でも大変な苦労であったらしい。または、この時には啓蔵は他所へ行ってしまっていたのか。
この年から廃窯となるまでの十数年間の古文書が発見されず、皆目検討が付かない。このままズルズルと追い込まれていったのか。それとも一時的にでも回復したのか。
また、惣左衛門は慶応2年(1、866)72歳で波乱の一生を遂げるが、宇都宮藩への借金返済の後、寺子屋などを開いて暮らしていたという。
|
| 窯ぐれ啓蔵 |

「窯ぐれ」というのは、焼物の渡り職人達のことである。彼らは稼動条件のより良い場所を求めて、各地を転々と渡り歩いていたのである。その代わり当然、腕を買われるのであるから、高度な技術を持ち合わせていなければならなかった。
さて、この啓蔵と言う名は、嘉永3年の開窯時の古文書にたった一度出てくるだけである。肥前の国生まれで腕も良い職人としか記されておらず、その他の事については全く見当も付かない。いつ頃、何歳の時に、何人位でやって来たのか。それも何ゆえに、成田のような焼物に不適な地を選んだのであろうか。また、何年位いたのか、平野に召抱えられたのか。それとも一生を成田で過ごしたのか。そして、終焉の地はどこか、など等今後の研究を待つものばかりである。
ここで推測を加えて見よう。まず、肥前の国をいつ離れて来たか、であるが、これは、東北地方の窯同様に、文政11年(1828)8月の有田大火時として置こう。この時でもなければ、陶工の国外流失を厳禁した肥前の国では不可能な事であったのであるから。 切込焼の研究家宮城正俊氏によれば、この時東北地方だけで5〜60人の陶工達が、切込はじめ平清水、上の畑その他十数か所に移住分散したという。出来るだけ遠くに、しかもより僻地にとい うのが、逃亡者たちの心理であったろう。この中の1人(グループ)が、啓蔵であったに違いない。仮に、この時の啓蔵の年を20歳とすると、嘉永3年時には42歳で、惣左衛門より14歳年下ということになる。彼と彼の仲間たちは、一度東北に行って見たものの、落ち着き先が見つからず、関東に引き返し、そして最終的に成田の地を選んだ。
また、こういう説はどうであろうか。文政11年以前から、成田では啓蔵ゆかりの者によって窯業が行われていた。そこへ、大火によって有田を脱出した啓蔵は、そのツテを頼りに成田までやって来て、中継ぎをした。こうなれば、有田から直接成田にやって来てもおかしくない訳である。
また、気に掛かるのは、古文書に「(平野で)この者を召し抱え」とあることである。これは、召し抱えたいという希望であったのか、それとも、本当に召し抱えたのであろうか。窯ぐれの性格からすれば、成田のような小旗本領よりも、宇都宮藩のようなスポンサーを持った方が、ずっと魅力的であったはずである。
さて、もしここで召し抱えられたとすると、今度は別な疑問が生じて来る。それは、啓蔵と言う腕の良い職人がいたにも関わらず、平野では何ゆえに本郷の方から職人を招かなくてはならなかったのか。ただし、このことは記録がある訳ではなく、言い伝えに過ぎないのであるが。ここでまた推察して見るに、啓蔵は確かに平野に召し抱えられたものの、数年間でまたどこかに去って行った。困り果てた平野の人達が、新たに召し抱えたのが本郷の宗七達であった。こうしてまとめてくると、なんとなくスッキリして来た。啓蔵はあくまでも窯ぐれだったのである。 |
ここで、益子町史に興味深いことが記されているので紹介して置こう。益子焼の陶祖といわれた大塚啓三郎が、慶応元年に黒羽藩主に対して次のような意見書を提出しているのである。「いまの職人共は世渡りするので、職人にするには、と角心配があるので、御上様から世渡りをお差し留め下さるようお達し下さい。」このように、この職人達の扱いはどこの窯場でも悩みのタネであったらしい。
|
| 平野焼、その開窯と廃窯の時期を探る |

矢板市史によると、平野焼の歴史は嘉永3年に始まり、明治元年に終わったとされている。つまり、わずか18年間でその幕を閉じたことになっている。そして、その廃窯の要因となったのが、慶応4年に始まる戊辰戦争であった。当時、平野には会津本郷から陶工達が来ていて、技術指導に当たっていた。やがて戦禍が拡大して行ったために帰国することとなり、ここに廃窯を余儀なくされたという。これが、これまでの定説であった。しかし、ここでもう一度その開窯と廃窯の時期について、考えて見ることとしたい。
まず、開窯の嘉永3年というのは、裏付けとなる古文書が2通あるところから事実と見て良い。しかし、泉村誌では「弘化年中に陶器を製す」とある。弘化は4年あって、その4年が嘉永元年に当たる。ただ弘化年中というだけで、何年という特定はないが、いずれにしても開窯までは3〜9年早まることになる。
この時間のズレをどう解釈すれば良いのであろうか。古文書をもう一度読み返して見ると、平野焼を始めるにあたって、平野ではまず土を成田に送って試し焼をしてもらっている。その結果、会津・瀬戸同様のものが出来た。つまり「磁器」に成功した訳である。こんなところから、平野ではまず陶器を焼いて、その後、つまり嘉永3年の時から「磁器」も始めた。こんな解釈ではどうだろうか。当時、成田焼が平野にもどんどん出回って来ていた。すると、成田の方がずっと高価で販売されている。それでは「わが方でも」となって来るのは至極当然のことである。
次に、その廃窯の時期についてである。これが先述のとおりであるとするならば、別な疑問が生じてしまった。それは、これまで「平野焼」だとされていたものを全て否定しなければならなくなったのである。これにいち早く気付かれたのは、栃木市の近藤先生であった。先生は、平野焼と称されているものを見て、次の4点を指摘された。
@ これらの染付けには酸化コバルトが使用されていること。
A 酸化コバルトは、明治3年に初めて日本にもたらせられた。
B 明治元年に廃窯しているならば、天然のゴスしか使用されていないはず。
C もしこれが平野焼だとするならば、平野焼は明治10年頃まで続けられていたであろう。
というものであった。
平野焼を大量に所蔵している那須町の広瀬氏も、明治10年位まで焼かれていたとしている。
|
| 最後に |

ここに仮説を2題立てて見る。その一つは陶器だけで済ませて置いたら、ということと、もう一つは、その開窯の時期についてである。
前者は、敢えて磁器に挑戦したということについては、称賛に値するものであるけれども、磁器というものは陶器よりもはるかに高度な技術を要求されるし、第一だましが利かないのである。白磁の表面に、 ホンの小さな黒点でもあろうものなら、それだけでキズものであり、黄ばんだりすれば商品価値はダウンしてしまう。曜変物と呼んで珍重される陶器とは、根本的に異なるからである。それに当時の暮らしぶりから見ても、磁器を日常的に使用できるのは、豪商とか豪農、又は武士といった一握りの階級であったから、需要の面から見ても限られていたのである。
又、後者については、この3年後、つまり嘉永6年には例の黒船がやって来る訳である。「たった4杯で夜も眠れず」とうたわれたように、我が国は有史以来の大決断を迫られることになった。これは、宇都宮藩としても同じことで、開国か攘夷かという大きな歴史の渦に巻き込まれてしまっていた。こうなると、国産として大いに期待していた平野焼どころではなくなってしまったのである。やっと軌道に乗り掛かったところなのに‥‥。
悔しがる惣左衛門や嘉兵衛の顔が浮かぶようだ。もし、開窯の時期があと10年、いや5年早かったら、そして陶器を中心に焼いていたら‥‥ 、と思うと残念でならない。
何としても資料不足である。それだけに疑問だらけである。窯跡から発見された菊皿の型に記されている鯨□とは、何を意味しているのであろうか。
又、前書きにも記して置いたように、平野の住民達は古来から信仰心や恩義を感じる心が篤く、啓蔵達の恩を忘れるはずもないのに、それを残すものが何もないというのも不思議なことである。
昭和60年8月に、寺山鉱泉周辺の地質調査が、日本地質調査所の神谷教授によって実施された。これは、栃木県で進めている地すべり防止保全工事が完成すると、寺山白土が半永久的に採掘出来なくなって しまうために、新たな採掘地を探すことが目的であった。この白土がなくなることは、益子町にとっても大変な問題である。この時は、向こう何十年分は確保して行ったが、それでも組合員にしか配分していないという。この調査の結果、寺山白土とカオリンは広範囲に分布しており、しかも豊富であることが解った。この寺山白土を使って、「平野焼」を再興して見ようという陶芸家が現れんことを夢見ている。
|