今までに観た狂言とその感想

約二年ぶりの更新だ!!

2004年2月15日(日)世田谷パブリックシアター 『狂言劇場』

直接このプログラムとは関係ないのですが、まずご挨拶。
前回の「感想」で書いた公演を最後に、妊娠・出産のため一年以上狂言鑑賞をお休みしていました。で、実は昨年から狂言鑑賞を少しずつ復活させたのですが、なかなかこちらにアップできる時間がなく、ここまで延びてしまいました。ごめんなさい。
裕基くんのお猿さんも観ました。なんか、他人事とは思えず、狂言として鑑賞できなかった気がします。
さて、今回の「狂言劇場」、いくら芸術監督をしているとはいえ、ホールで狂言を、それも複数回やっちゃう、という、なかなか斬新な企画です。しかも番組がすごい。というわけで、本当はこのホール、遠くてあまり好きではないのですが(^_^;)行ってきました。ある種衝撃を受けて帰ってきました。

野村若葉子さん、千恵子さんがご覧になってました。

 

十年前に病んで盲となった男(野村万作)。近所の川上地蔵が霊験あらたかと聞いて、願掛けでおこもりをしようと妻(石田幸雄)に暇乞いをして出て行く。さて、地蔵について願掛けをしていると、夢のお告げで果たして目が見えるようになる。喜び勇んで帰った男だったが、「目が見えるためには悪縁である妻と別れなくてはならない」という交換条件がついていたのだった…

 

有楽町の朝日ホールで一度観たのですが、見所が最悪で、演目に集中できなかった記憶があります(感想はこのページの下にありますので、ご覧ください。年齢経験を経て、たぶん変化があるはず)。今回は、同じホールでありながら、演者が舞台から消え去るまで拍手がないほどでした。それだけ内容・演出がすばらしかったということでもあります。

相変らず万作さんの盲はすばらしいです。つえの音の美しさ、姿の美しさ、転げよう。じっくりと彼の内面へ入ってしまうほどでした。今回は、それに、照明効果が演出として使われていたので、眼が見えるようになっていくときにはだんだん明るく、再び盲となっていくときにはだんだん暗く、と、まさにホール全体が盲の内面世界をそのまま現しているようでした。
さて、この曲でいつもいろんな論議を呼ぶ(?)妻の態度ですが、今回もやはり妻は「わわしい」ながらも、「ひどいことを言う!」とは思えませんでした。
ところで結婚生活、というのは、長く続けていると、「惰性」というのはイヤな言葉ですが、お互いが空気みたいになってしまって、「そこに居るのが当たり前」になってしまいます。その相手に欠点があったとしても、存在自体がもう「在るもの」。
ヘンな話ですが、まさに「悪縁」としか他人には見えなくても、実は相手に不満がたくさんあったとしても、それなりに毎日を送れてしまうっていうのが「夫婦」なんじゃないか、と云う気がしてきました。
そして、相手が「空気のように必要不可欠である」ことを知るのは、その相手が居なくなる、または居なくなるかもしれない時なのかもしれません。妻はまさにそういう場面に直面し、思わず「別れるのはイヤだ!!」と叫んだのではないでしょうか?(この辺、前回と感想が違うはず…恥ずかしいから読んでないけど)そして夫もまた、妻のない生活が考えられなかった…結局連れ添う道を選ぶのは、そう考えたからという気がします。
たとえお地蔵様公認の「悪縁」だろうとも、そのために夫の目が見えないままであろうとも、お互いに「添うて」(この言葉、ぴったりだと思います)いく…これが、現実の夫婦だよ、と、この曲は教えてくれている気がします。
決して美しい話ではなく、妻は一見勝手なことを言うのだし、夫は目は見えないのだし(それも一度は希望を与えられながら、光を再び奪われる、という最悪のパターン)一種「悲劇」なのかもしれませんが、その欠点を補い合い、それを「補う」というほど積極的でなく、なんとなく毎日を過ごしていく…これぞ偽らざる『人間の姿』なんだ、という気がして、そういう意味で、「人間賛歌」まさに狂言ですね。人間は美しくはない。でも、だからこそ美しい。

それにしても…どんな夫婦だろうとも、そして神様だか地蔵様だか知らないけれど、はたから「悪縁」だなんて、いう資格、ありませんよね?!

 

やっと、やっと念願の三番叟を見ることができました!
千歳…竹山悠樹
三番叟…野村萬斎
囃子方はわかりません。すみません。

 

竹山悠樹さんが一人で演じるのを観るのは初めてだったかもしれません。とても力強い舞で、彼の成長と努力の後を感じました。ものすごく入れ込んでしまったのですが、その後、萬斎さんが出てきたら空気が一変!
いえ、正確には座った姿もとても美しく「さすが」と思っていたのですが、その舞の美しさたるや、私の言葉では言い尽くせません!特に「揉の段」では、力強く若々しく、そして、『エースをねらえ!』で言うなら「首の骨がへし折れるほど」衝撃的に美しく、しかも(普段あまり彼に対して私は感じないのですが)男らしく、思わず「かっこいい!!」という言葉が頭からぽろっと出てくるほどでした(もちろん、通常の「かっこいい」なんて安い意味ではありません。いろ〜んな概念を統合したら、その言葉しか出てこなかった、というくらいの、重い「かっこいい」です)。本当に本当に美しかったです。
替わって「鈴の段」、最初の重さが彼にはまだ?と思われる部分もあったのですが、だんだんにテンポが上がっていく終盤、やはり魅せられてしまいました。終わったあと、「ほぉ…」と息をついてしまい、ああ息を呑んでいたんだな、と気がついたほどでした。

この公演、どちらもシテの二人の魅力が存分に観られる、贅沢なもので、本当に堪能してしまいました。どちらも「時分の花」、今のお二方にぴったりだったと思います。

 

 

2002年4月18日(木)宝生能楽堂 『第18回 野村狂言座』

1月の公演は体調不良で行けなかった(持っているチケットを捌く体力もなかった)ため、今年初めての「狂言座」です。当日券を求める人の列、そして終わってからの「出待ち」と思われる人の集団にまず驚きました。某一家のおかげで、こちらには目が向かなくなったかな?と思ったのは甘かったようです。
狂言座は一年半ぶりでしたが、一昨年にくらべ、明らかに見所の質が落ちているのが気になりました。演技中に鳴る携帯、「幸雄」「万之介殿」という呼びかけで起きる爆笑、揚幕が上がるや否や起きる拍手。もう、万作家の狂言会でこうしたマナー違反を気にせずに堪能できる場はなくなったということなのでしょうか。初心者は来るな!とまでは申しませんが、せめて初めての場もしくは不慣れな場であるなら、あらかじめ勉強するくらいの気合と、良識とを必要とする芸術であるとわたしは思います。
番組は、狂言をいろんな角度から堪能できる、という意味で構成がとてもよかったです。やっぱり行ってよかった!と心から思いました。

 

「男舞」の名にふさわしく、勇猛果敢な囃子でした。もっと堪能していたかったと思ったくらいです。今年観るつもりだった能会に行けなかったことを、これほど悔やんだことはありません。

 

酔っ払いいい機嫌で歌を謡いながら帰宅した夫(野村万作)。待っていた妻(野村萬斎)がとがめると、男は酔った勢いで妻を離縁してしまう。暇のしるし(離縁する際に受け取る品物。当時はこれがないと再縁の際に支障を生じたといわれる)まで受け取ってしまい、仕方なく妻は出て行く。「飲みなおすか!」と勢いよく夫も家を出ていくが、素面に戻ると後悔のあまり半狂乱になり、妻のあんなところもこんなところもよかった、と謡い舞いながら妻を捜し歩く。…

 

自分が下戸のため、酔っ払いの心境がわからず、やっぱり酔って帰った夫をとがめてしまう私としては、ヒトゴトとは思えない話です。でもって喧嘩は必ず「離婚だ出て行く」ってところまで行くんですよね。私が出て行ったら、果たして夫は「物狂いの態」で捜してくれるんでしょうか?

まず、万作さんが酔った型で謡いながら登場する、という、あまり見かけない登場をします。前半部のホームドラマっぽい場面での酔いっぷりと、後半の「これは能?」と思わせてしまうほどの美しい物狂いの態。このふたつが素晴らしい対照をなしていて、どちらもうっとりと見入ってしまうほどです。酔った場面では、「本当に気が強いのではなくて、あくまでも酔った勢いでつい言っちゃってるんだ」というのが伝わってきますし、ひたすら謡っている素面の場面では、孤独に耐えかねる哀れな中年の姿が浮かび上がってきます。美しい声、美しい姿。一瞬たりとも目をそらしたくない、と思ったほどでした。万作さんの芸が心行くまで堪能できる曲です。

萬斎さんの女は、若いゆえにいかにもシャレが通じなさそう。私の位置からちょうど彼が死角に入っていたためか、どうもわわしさもやわらかさも伝わってきませんでした。中年女を演じるには、まだ年季が足りないのかもしれません。

物狂いの夫は、実家に帰る途中の妻を見つけ、心から謝って仲直りをします。そうそう、酔った勢いだけのお話。狂言の夫婦は、いろいろありながらも、お互いを心から慕いあっているという、とても日本的な情緒が感じられて、安心できます。

 

借金がなかなか返せない男(石田幸雄)、ちょっと日延べしてもらおうと相手(野村万之介)の家を訪ねる。「再びの借金申し込みか」と思った相手は、居留守を使い一旦は男を追い返すが、男は帰る途中に庭の桜を見て、いい連歌の発句を思いつき、相手に披露に戻る。興を引かれた相手も男を迎え入れ、二人で連歌八句を詠み始めるが…

 

ちょっと「無布施経」にも似たお話ですが、これは借金をしている方も、貸している方も、シャレの通じる、頭の回転のいい人同士だというところが違います。風景を詠んだ風に見せておいて、微妙に「ごめんね」とか「(返済期日を)延ばしてね」というような意味を含ませる借金男。返して、「すぐ返せ」とか「許さん」などという語をうまく入れる貸し手。自分の要求をストレートには言わないという、非常に日本的な遣り方ですが、連歌という趣向に含ませているため、この「タヌキの腹芸」が、なんだか風流にも思えてきます。で、互いにその要求部分を「そこはちょっと耳障りですなあ」なんてツッコむんですね。微妙な掛け合いで実は真剣勝負です。

石田さんも万之介さんも、そのタヌキぶりを遺憾なく発揮していました。ちょっと他の配役は考えられないほどです。万之介さんの居留守ぶりもサイコー!

最後、八句に満足した貸し手は、「面白かったから」と借用書を返します。これもとても日本的ですが、粋でいい終わり方だと思いませんか?
個人的には、こういう「意を含ませる掛け合い」がとても好きなので、心から面白く思いながら観ました。

 

有徳人(野村万之介)が、娘(竹山悠樹)の聟募集の立て札を立てる。条件は「計算が得意な人」。我こそは、と思う聟候補が殺到する。
一人目の聟候補(深田博治)と二人目の聟候補(高野和憲)は、件の問題「500具(1000個)のサイコロの目の合計はいくつ?」が解けず、言い訳するも太郎冠者(月崎晴夫)にぶん投げられて追い出される。
三人目の聟候補(野村萬斎)は「日本一の算術者」と自称するだけあって、「こんな問題、ちょろい」と舞いながら答え、みごと正解。有徳人の財産と、美人と評判の娘とをゲットした聟は、さっそく娘に娶わせられる。恥ずかしがる娘に「これから580年も万万年も一緒に過ごそう」と口説きながら被っている衣を取ると…うわぁ!!!!!

 

「竹取物語以来の難題モノ」という割には簡単な問題(!)ですが、なかなか算数の嫌いな人には難しいかもしれません。さて、一人目と二人目の聟の言い訳がまたおかしい。「明日また解いてきます」「そろばんさえあれば」。宿題を忘れた言い訳みたいです。またそれを追い出す太郎冠者が、何しろ万作の会きっての体育会系・我らがツッキーこと月崎さんです。追い返すさまの力強いこと!特に二人目の高野さんを追い出すときには、襟元を掴むのに勢いあまって、侍烏帽子を「パチコーン!」と殴ってしまった(?)ほど。ぶん投げ動作は型なのにもかかわらず、思わず「本気で投げた?」と思ってしまうほどの力強さでした。彼はこういう、力仕事と誠実さを兼ね備えた役をやったら右に出る者はいないと思います。

さて、最後に登場の萬斎さん。ちょっと自己アピールがくどい?ところも、でもきちんと正解を出すところも、なんだかとても合っています。自作の「算術の舞」面白い!このあたりも有徳人の評価ポイントだったでしょうか?

そしてこの聟のおちゃらけパワーに負けてなかったのは、恐怖のブサイクパワー。もう爆裂、という感じです。すでに、前の聟たちが「美人だと言う娘が」と繰り返し言ってたので、オチは分かっていたのですが、やはり実際にブサイクだと衝撃です。このあたりは、毎週見ても飽きなかったドリフのコントと同じで、構成がいいといつも笑えるってことなのでしょうか。それにしても、狂言では、口説く場面でどうして顔も見てない相手に「万万年も一緒に」なんて言っちゃうんでしょうね?案の定、言質を取られて、逃げ惑う聟VS「580年、万万年も一緒に〜〜」と言いながら追う娘。竹山さんが、娘の恥じらいも、ブサイクがばれたあとの爆裂も、うまく出していました。萬斎さんに負けていなかったのは本当に驚きです。

最後、娘は逃げる聟を捕まえると、なんとおぶって拉致します。いや、恐るべきブサイクパワー。予想外のパワーに、終わりまで笑いが止まりませんでした。

 

 

2002年4月7日(日)全労済ホール スペース・ゼロ 『新宿狂言スペシャル』

私としたことが、なんてことでしょう、これが今年最初の万作一門の狂言鑑賞です。そして今年最後から二番目の狂言鑑賞でもあります。運良く最前列、ほぼ中央の座席を手に入れることができました。
さて、毎年演出に凝っている楽しい公演の「新宿狂言」、今年は、一昨年「怪しの世界」というタイトルで、国立劇場の企画にて初演された、いとうせいこう作「鏡冠者」を持ってきました。というわけで、古典も併せてテーマは「鏡」。去年の「月見座頭」と同じ、黒く光る舞台を使っていました。
最初の解説、去年は「時間きっかりまでゆるゆると」と記述していますが、今年は、どっかの誰かさん(??)から、話が長いという批判を聞いたのか、たった15分の短い解説でした。それもコンパクトすぎて時間が余ってしまい、時計を見ながら別の話題を探すありさま。こんな萬斎さんも新鮮です。
鏡を使ったコントといえば、という話で「古くはマルクス兄弟、それから『志村けんと沢田研二』というのもありました」というところで、思わず笑ったら、すかさず「今笑った人はあまり若くないですね」と突っ込まれてしまいました。…ごめんなさい、萬斎さんご同様、ドリフ全盛期世代なんです!

 

長らく都でお沙汰を待っていた大名(野村万之介)だが、このたびめでたく解決したので、帰郷することになった。そこで、太郎冠者(月崎晴夫)を連れて、なじみの女(深田博治)のところへ暇乞いにでかける。女の涙に誘われて、思わず泣いてしまう大名だが、冷静に観察していた太郎冠者はあることに気付く…

 

ちょっと前に某元外務大臣の泣き顔に関して漏らした総理の名言「涙は女の最大の武器」を地で行くお話です。女の涙にほだされて、思わずもらい泣きしてしまう素直な大名を、万之介さんがとってもよく表現していました。しかし、人が思いっきり泣いていると、見ているほうはより醒めてしまう、というのは、よくあることですね。そんな立場になってしまったのが太郎冠者。女がウソ泣きなのを気付いてしまうのですが、大名は取り合ってくれません。そこで素早くウソ泣きの証拠を見せようとするのです。

月崎さんの「しっかり者」太郎冠者は初めて見た気がします。とっても誠実で、有能そうでした。どうでもいいことかもしれませんが、肩衣の模様が「カメ」で、なんだかおかしくなってしまいました。「ツッキーの背中にカメ、カメが…」と思ったら、どうにも止まらなくなってしまって…。
深田さんの「女」は、わわしいっていうかなんていうか…いや、深田さんが「女」であること自体がびっくり!でした(最近観る機会は多かったのですが)。でも、このしたたかさは、深田さんじゃないと出せなかったかもしれませんね。
墨を装束につけないようにするのは大変なんだろうなと思いました。なんとなく、タイトルのイメージから、「羽子板で負けたヤツ」みたいにされるのかと思っていたら、そうではなくてちょっと残念です(?)。「黒い涙」から、研ナオコのことを思い出した私はやはり「あまり若くない」かもしれません。
万之介さんは、出てくるなりげっぷはするわ(最前列なので聞こえてしまったのです)鼻はすするわ(花粉症なのかもしれません)ちょっと「ジジくさい?」と思ったのですが、なんだかそれさえも芸なのでは、と思うほどの「バカ殿」ぶりでした。とりあえず決定的なこと(本国に帰ること、など)は太郎冠者に言わせようとするありさま、笑いました。

それにしても、この女は、なぜウソ泣きをしたのでしょうね?ちょっと考えてみたのですが、
1.都の女特有の、本音と建前の使いわけで、特に深い理由はない(ちょっと別れのカッコツケ)
2.とりあえず愛のあるところを態度で示し、今後の援助等を求める意図があった。

なんとなく、2かなあ、と思ったのですが、どうでしょうか。大名が「自分だと思ってくれ(といいつつ実は墨のついた己の顔を見せる目的)」と渡した鏡をなかなか見ないのもちょっと作為くさいなあ…と思ったのですが。

 

このごろ不景気(山賊用語で「痩松」)である山賊(石田幸雄)。山の中で獲物を待っていると、おあつらえ向きの若妻(高野和憲)が通りがかります。さっそく長刀で女を脅し、まんまと荷物を奪い取った山賊ですが…

 

今回の公演では、鏡板(能楽堂では後ろにある、松が書いてある板のこと。「なぜ鏡板という名前かは調べてないので分からない」(by萬斎))がカーテンになっていて、大きな松が書かれていました。この曲の直前、「シャーッ」という音と共にカーテンが動き、あれ松の絵が細くなってしまった!と思うと、その脇にタイトル「痩松」!
道理でなんだか随分太い松だと思ってたよ…という訳です。ちなみに、台詞の「肥松(山賊用語で、好景気のこと)」のに合わせて、再び松は太くなっていました。

一見可憐に見える高野さんの女が、隙を見逃さずに山賊の長刀を奪い取り、自分の荷物を取り返すどころか、山賊の衣装やら脇差まで奪っていくのがおかしかったです。やはりここでも「女を侮ったら痛い目にあう」と言ったところでしょうか。奪われた山賊が「自分で見ても怖い顔」だというのだから、人間見た目で判断できません。

高野さんの女は、賢くもあり、可憐でもあり、もとからの悪女というよりは「しっかりしたおなご」のように見えました。「墨塗」での深田さんの女、そして、「キング・オブ・わわしい女」の石田さんとも味が違っていて、興味深いです。だいぶスリムになってしまった石田さんの山賊の間抜け具合や、結構なお人よし具合は、本当にうまくて、さすがと思ってしまいました。

 

山伏から「神仏の姿をも映し出す、ありがたい鏡だから、お供えをしてお祈りするように」と鏡をもらってしまった主(石田幸雄)は、お神酒のお供えを太郎冠者(野村萬斎)に命じる。さて、鏡がなんなのかイマイチ分かっていない太郎冠者、さっそく蔵の中の鏡にお神酒を備え、祈るが、何の反応もなく、なんだか寂しい。鏡に「お神酒をどうぞ」と言っても反応がないし…そうだ!きっと鏡さんは下戸なのだ!だったら代わりに飲んであげよう!!全部飲んだところで、舞をはじめると、あれ、鏡の中の太郎冠者(鏡冠者=野村万作)も同じように舞っている!楽しい!!…

 

これは古典?と見まごうような、始まり、そして萬斎さんの一人芝居です。太郎冠者も、「酒好きで使えない」という定石を守っていて、だから一人で「あんまり上等じゃない」お神酒を飲んでしまって(しかも「樽は(鏡さんに)あげます」のおまけつき!)、さんざん上司の愚痴を言った後で「寂しいから」一人で舞をはじめてしまいます。

萬斎さんの太郎冠者は、お酒を飲むにしたがって、体のバランスがどんどん崩れていき、しっかりと顔も赤くなっていって、お酒の強いにおいが今にもしてきそうでした。間合い、飄々とした太郎冠者の味、すばらしかったです。
そして万作さんの鏡冠者とのシンメトリーの舞!とにかく万作さんの足の角度、手の出し方に見ほれてしまいました。もちろん萬斎さんとの息はぴったりです。万作さんは、鏡なので、左手で扇を持たなければならず、大変なご苦労だっただろうと思うのですが、少しもそんなことは感じませんでした。本当にいいものを見せていただきました。

万作さんの鏡冠者は、鏡の中の人なので、当然声は出しません。ところが、最後に一声だけ、声を出すのです。それも腹からの笑い声です。萬斎さんの太郎冠者と入れ替わってしまった瞬間です!この笑い声が本当に、本当に、心の底から凍り付いてしまうような恐ろしい声でした。
このとき、太郎冠者が「恐怖で身も凍る」という顔をするのです。狂言でこういう顔を、初めて見ました。型としてはどうかな、という気もしましたが、それまでの舞の暢気な表情との対比がくっきりして、舞台が暗転さえしたんじゃないかと思ったくらいです。
そして、太郎冠者がいつの間にか、鏡に閉じ込められてしまうという最後。だんだんと太郎冠者が「本気」になっていくさま、そして取り返しがつかない恐怖を、舞台装置でよく表現していました。最後、ダレもいなくなって鏡に囲まれた空間だけが残り、太郎冠者らしき人物が鏡の向こうで舞っているさまが映り、続いて鏡らしき像が浮かび上がります。太郎冠者がとうとう鏡に取り込まれてしまった!という表現でもあり、うがって見ると、「もしかして私たちこそが鏡の中に取り込まれた?」と思わせる表現でもありました。

萬斎さん曰く「今までなぜか鏡の中の人が出てくるという狂言はなくて」だそうですが、昔の鏡って、金属製だし磨くのが大変なので、大名(狂言に出てくるレベルの)では姿見なんてもてなかったのではないでしょうか?大きな鏡を持ってたのは、神社とか皇室(三種の神器?)とか…そういう点で、まず「山伏がくれた」という設定自体がしっくりしませんでした。もしかしたら「昔の話」ではないのかも?とも思いましたが、だとすると「鏡を知らない」太郎冠者ってなんだ?ってことになってしまいます。

それから、「鏡の中身が外の人間と入れ替わる」というネタ自体は、もう使い古されているので、正直にいうと、あまり面白くありませんでした。笑うことは、同じネタでも何度でもできるのですが、恐怖って、ネタを知っているとなかなか同じようには感じることができないのです。萬斎さんの演出には身も凍ったけれど、その恐怖はあまり長く楽しめず…というのが、正直なところでした。ものすごく偉そうに書いてしまうと、新作としては「余白の美」がたくさんあって、しかも芸を楽しむ場所も用意されており、よくまとまっていると思うのですが、ちょっと楽しみ切れない甘さをも感じてしまいました。

 

 

2002年2月13日(水)国立能楽堂 『茂山狂言会 特別公演 唐相撲』

体調を崩したがために、今年最初の狂言鑑賞がこんなに遅くなってしまいました。
さて、「TOPPA!」以来久しぶりの茂山千五郎家ですが、心の底から癒されてきました。温かさはプログラムの表記からも伺えて、一人一人のメンバー紹介、去年亡くなった(たまたまテレビのドキュメンタリーで見てしまったため、他人事とは思えなかった)千作・千之丞兄弟のご母堂、寿賀さんのメッセージ、その寿賀さんが手作りした衣装を初めて使った、昭和六年の「唐相撲」公演の写真、などなど、胸がじんとなったり、顔がほころんでしまうようなページばかりでした。
去年最後に見た「川上」の見所がとても悪かったので、今日はどうだろう、と恐る恐る行きましたが、見所の質が非常によく、久しぶりに橋掛かりの先まで曲を堪能することができました。(見所の質を悪くしてもなんとも思わないような、いわゆるタレント目当ての「ファン」がいない、という意味で)東京での人気がまだそれほどなくて、助かったと思いました。
ちなみに、今回の全国ツアーを逃すと、「次回は25年後」だそうです。

 

大願が成就したという果報者(茂山正邦)が、三人の部下(太郎冠者=茂山茂、次郎冠者=茂山宗彦、三郎冠者=茂山逸平)に、山に三本の柱を切り出しておいたから『三本を一人二本ずつ持って』戻って来い、という課題を出す。さて早速山へ行った三人、目当ての柱は見つかったが、どうやって持ち帰ればいいのやら…

 

よくある「マッチ棒パズル」の問題みたいな狂言です。
この曲は、以前野村万作家で観たことがあるのですが、和泉流では(たしか)柱を持つのにさほど考えないのに比べ、大蔵流では、一度柱を置いて円座になって思案するなど、ずいぶん時間をかけるなと思いました。

目を惹かれたのは、正邦さんです。今まで、正直に言うと、宗彦・逸平兄弟に目を奪われることが多く、正邦さんについては「しっかりした芸を持っているが目立たない」というイメージくらいしかもっていませんでした。ところが、この日の彼は、果報者の威厳をきちんと表現し、舞姿も美しく、本当に素晴らしかったのです。登場して最初に「これは」と言い始めた途端「すごいっ!」と思ったくらいでした。順調な成長振り(というのも失礼ですが)に、彼の自覚と努力とを感じ取りました。
一方、柱を前に思案する三人の場面では、逆に緊張感が途切れるほどの中だるみを感じてしまいました。逸平さんも普段ほどのオーラがなく、宗彦・茂さんもいつも通りの感じで、目を惹くものを感じません。柱を持ったときのあしらいも悪く、囃子の間合いもちょっとずつずれる、といった調子で、せっかくの笑いどころで笑えなかったのが残念でした。

 

主人(茂山あきら)は参加している「連歌の会」の当番に当ってしまった。連歌はまだまだ初心者の主人は、都にすむ伯父に宗匠を頼むことにして、その使いを太郎冠者(茂山千作)に頼む。さて都にきたものの、太郎冠者は伯父さんの名前も顔も聞いてこなかったことに気付く。しかたなく、「頼うだお方の伯父御さまに会いたぁ〜〜〜〜〜い!!!」と呼ばわって歩いていると、「自分がその伯父である」という男(茂山千之丞)に出会う。これはついていた!とさっそく同行して戻ると、主人曰く「アレは伯父なんかじゃない、都で有名な大すっぱの『察化』だ」と…

 

予習をしていかないわたしも悪かったのですが、今回はプログラムにあらすじの解説がなかったので、まっさらな状態で楽しみました。
狂言ではめずらしいのでは、と思うのですが、すっぱがえらい目にあってしまう、という結末です。太郎冠者の間抜けぶりもどんどんエスカレートしていくので、本当に変化に富み、しかも(これも狂言にはめずらしく)「オチ」の台詞まであって、よくまとまっている曲でした。

茂山あきらさんを観たのはどうやら初めてだったようです。声が高くて小さいのにとてもびっくりしました。ちょっと狭量で神経質な主人という感じがでていたと思います。千作さんは…もう、相変わらず「卑怯」です。出てくるだけでおかしいのだもの。「伯父さんがどんな人か」も聞いてこないで都にやってきてしまうところ、戻ってきて、主人に「あれはすっぱだけど、つかまえたりすると報復がこわいから、とりあえずここは無難にもてなせ」といわれて、そのまんま本人に伝えちゃうところなど、「この人ならさもありなん」と自然に思わせるところがさすが!です。千之丞さんの察化は、最初は結構押し出しが良くて「伯父」に見えないこともない、でも、最後は「最後まで常識を保っている唯一の人」になってしまいます。すっぱなのに。
いろいろ書きましたが、要するに「千作さんにノックダウン」という曲でした。たぶん別の人がやると、もっと太郎冠者についていらいらする部分が出たりするのだろうと思います。千作さんは、根っからの「狂言師」ですね。

 

お名前を見ても、どこの流派の方か分かりませんでしたが、普段万作家で聞いている素囃子とはまったく違っていて、びっくりしてしまいました。囃子でこんなに乗って(足でリズムまで取ってしまった!)しまったのは初めてです。迫力もとてもあって、全ての音色が澄んでいて、いつまでも聞いていたいと思うような囃子でした。

 

唐の国に滞在している日本人の相撲取り(茂山七五三)が、帰国を申し出ると、帝王(茂山千五郎)は、名残にもう一度相撲を見たい、という。そこで、通辞(茂山正邦)が行司を担当し、われこそはという唐人(たくさんの方々)と相撲をとることになるが、日本人は強くてまったく歯が立たない。ついに帝王が「自ら取る!」と言い出して…

 

先日、「万作を観る会 古稀記念」で「唐人相撲」が行われたようなのですが、残念ながら観ていません。以前、茂山千五郎家と万作家との競演で「唐相撲」を観ましたので、大蔵流のばかり二度観たことになります。
その時の「唐相撲」は、とにかく運動神経がよく、ひたすらに見所の眼を向けさせてしまう力のある萬斎さんが相撲取りだったために、「つよい日本人VS弱い唐人」という構図がとてもはっきりしてしまって、舞台が萬斎さんを中心にまとまってしまったようなところがありました。今回は、日本人が七五三さんだったので、求心的なオーラを感じるというよりも、唐人との絡みの中での技術を感じ、全体の構成の確かさやまとまりをよく感じることができました。演者によって曲の色合いが変わるというよい勉強になった気がします。

ここでも、まず目を惹いたのは通辞の正邦さんでした。あのめちゃめちゃな唐語と、日本語(狂言の言い回し)とが矛盾なくて、どちらも(唐語なんてわけわからないのに)意味が通じるような気がしました。帝王の千五郎さんは、登場シーンの気の小ささがおもしろく、さすがと思いました。この曲における「おいしいところ取り」の「髭掻き」、茂山千之丞さんもみょうに仕事が丁寧で笑わせます。相撲取りの七五三さんは、上に書いたように「強さ」を実際のワザで見せるのではなくて、あくまでも「型」で見せていたところに底力を感じました。恐らく実際はこうあるべきなのだろう、と思います。さて、唐人ですが、茂さんは前回に引き続き、運動神経を生かした「柱登り担当」でした。宗彦&逸平兄弟は、やはりここでもイマイチ。宗彦さんの怪我は知っていたのですが、逸平さんも何かあったのかな…。中でさすが!と思ったのは、アクロバティックなのにきちんと芸が安定していた、千三郎さんです。茂山家の若手(というのも失礼ですが)の中でも、もうレベルがぜんぜん違うような気がします。黙っていてもおさえるところはきちんとおさえる、もっとも頼りになる芸、そんな風に見えました。特筆すべきは、ホープの山下守之(通称モーリー、だそうです)さんでしょうか。入門一年とは思えない、素晴らしい運動神経でした。恐らくは後々、千五郎家を引っ張る一人になるのでしょうね。それから、もう一人ものすごい芸を見せた方がいて、なのに行列のときは、あからさまに猫背なのが目立っていたので「なんだ?」と思っていたら、本物の中国の方だったようです。曲芸?と歩き方のギャップがあまりにもあって、却って目立ってしまいました。

しかしなんといっても、これだけの大人数の曲の登場人物の多くを、一門のプロ狂言師で占めることができる、という事実がいちばん重要だったのかもしれません。これこそ茂山千五郎家の力であり、宝なのだと思います。

 

 

2001年12月4日(火)有楽町朝日ホール 『野村万作の世界』

久しぶりの解説つきホール狂言ですが、「川上」観たさにチケットを買ってしまいました。萬斎さんの解説は、くすぐりあり、まじめなお話あり、の、相変わらず分かりやすいものでした。ただ、今回残念だったのは、観ている方があまりにひどいところで笑っていたことです。「川上」の最後で笑えるなんて、私には理解できません。
「狂言の良し悪しの半分は見所によって決まる」ということの意味を、理解できてしまった番組でした。本当に残念です。

 

十年前に病んで盲となった男(野村万作)。近所の川上地蔵が霊験あらたかと聞いて、願掛けでおこもりをしようと妻(石田幸雄)に暇乞いをして出て行く。さて、地蔵について願掛けをしていると、夢のお告げで果たして目が見えるようになる。喜び勇んで帰った男だったが、「目が見えるためには悪縁である妻と別れなくてはならない」という交換条件がついていたのだった…

 

狂言の無限の可能性を呈示するような曲です。構成もよく、変化があって、一つの作品としてよくまとまった曲です。
そして、今年観た「月見座頭」もそうでしたが、万作師の盲人の姿、杖の音、しんとしずまり返った中に広がってゆく心象風景、本当に素晴らしかったです。
最初の杖の音と、石段に躓いたときの音、お堂の中での会話。実際に「聞こえる」音と「聞こえない音」両方が同じように心に響きます。よろよろと歩いて登場しただけで、あまりの美しさに息を呑む…万作師の盲人はそういう力があります。
さて、願いがかなって、盲人はだんだん目が見えるようになります。「得意とする」と萬斎師が解説していただけあって、暗い静かな弱い盲人の所作から、だんだん明るく、力強くなっていく様、盲人の喜びがひしひしと伝わってきました。

「私の立場は!」と怒る妻と「見えるためには別れます」と思う夫。この場面では二人とも自分のことしか考えていないように見えます。「(また見えなくなったって)元に戻るだけじゃないの」と言い放つ妻。残酷にも聞こえます。
盲から目明きへの演技もすばらしかったのですが、目明きから盲への演技も目を見張ります。「目が痛い痛い」といい、どんどん弱く、(体から出る)光を失っていく男。こちらにも痛さつらさが伝わってきました。
地蔵は厳しいです。無条件に幸せを与えるようなことはしないのです。「とはいえお地蔵様なのだから、一旦目が見えるようになった者を再び盲にするようなことはしないだろう」と思っていた妻も、そんな夫の姿を見て、嘆き悲しみます(見所で笑いが起こったのはこの場面でした。一気に現実に戻されてしまいました)。
ここで気がつきました、二人は自分のことを考えていたのではないのです。夫は「妻に面倒をかける自分」がつらく、妻は「介護で自分が必要とされるのが喜び」だったので、「盲の自分が負担なのではないか、目明きになってひとり立ちできたほうがいいのではないか」と夫が思っていたのだと思い、悲しかったのではないでしょうか。お互いを思ったがゆえのすれ違い…とても切なく思いました。

同様の「思いやりのすれ違い」をテーマにした作品では、O・ヘンリーの「賢者の贈り物」という短編がありますが、あちらが、あくまでも綺麗事として「お互いを思いやってプレゼント」をするのに対し、こちらははじめはお互いの主義主張をぶつけ合います。よりリアルにより人間らしく、だからこそ「狂言は人間賛歌の劇」と言われる所以なのでしょう。

最後、夫と妻は手を取り合って帰ってゆきます。
私事ですが、このサイトにも載せている祖母が寝たきりになって数ヶ月、祖父の献身的な介護たるや、本当に頭が下がるようです。真剣に、とても心を込めて毎日やっているようです。元気だったときは、家庭を振り返ったりしない祖父だったのに…「川上」のラストシーンは、そんな二人の姿を思い出させました。「どちらが悪い」とか「どちらに共感できる」とかいう次元ではなくて、すべて起きることを受け入れて、二人で乗り越えていく…それが夫婦なのだ、と、二人の後姿は語っているような気がしました。

 

主(高野和憲)は、祖父の長命祈願のために、太郎冠者(野村万之介)に、「かたつむり」というものを取って来い、と命じる。「かたつむり」を知らない太郎冠者が、どういうものかと尋ねると、「頭が黒くて、腰に貝をしょっている。たまに角を出すもので、大きいものは人間ほどもある。藪にいる」という。そこで太郎冠者が藪に探しに行くと、寝ている山伏(野村萬斎)を発見。「頭が黒い・腰に貝」これだ「かたつむり」だ!!と太郎冠者は山伏に声をかけ……

 

ごめんなさい、「あらすじ」は、「TOPPA!」でのものを流用しました。
すでに三度目の「蝸牛」、萬斎師はテンションが高かったようです。萬斎師の今の味からみても、蝸牛の山伏役はぴったりでした。「TOPPA!」の千三郎さんも面白かったのですが、「俺は体力使ってるぜ!」という感じだったのに対し、萬斎師のはいとも軽々と、涼しい顔で舞っていたのがまた印象的でした。
「笑っていいですよ」という萬斎さんの言葉が効き過ぎちゃったのか、見所が要らぬところで笑っていたので、興がそがれました。山伏や太郎冠者が藪に入るところで笑い、山伏が寝転がって笑い…笑えばいいというのではありません。笑うな!とは思いませんが、解説をきちんと聞いていれば、それも狂言のお約束の一つだと理解できたはず。残念でなりません。囃しが面白い、舞がおかしいといって、拍手するのは言語道断です。歌舞伎ではありません。最後は囃して終わりという、私の一番好きな終わり方だったのですが、「蝸牛」では、先頭の山伏が幕の向こうへ去っても、囃しは続いているのに、萬斎師が消えようとした瞬間から拍手が起こってしまって、最後が聞き取れませんでした。

万之介師は、ちょっとお疲れ気味だったように見えました。普段の万之介師だったら、主に叱られる場面など、本当に面白いはずなのですが…いつもの飄々とした感じが出ていなかったように感じました。そういえば、太郎冠者の不満の表明「へっ(現代語の「げっ!」に近い発音で)」でも笑いが起きていました。これからこういう時期が続くのでしょうか。

 

 

2001年11月15日(木)国立能楽堂 『万作を観る会 野村万作古稀記念』

「目玉」ばかり続く11月のもう一つの目玉、「万作を観る会」です。万作師の古稀記念ということで、能楽界の錚々たる皆さんが仕舞を、そして萬斎さんのお嬢さん彩也子ちゃんが「靱猿」で初舞台、と見所が沢山あって、おなかいっぱいになりました。
プログラムが水引のようなかたちで美しかったです。
高円宮さまがいらっしゃってました。

 

観世流能楽師で人間国宝の片山九郎右衛門師と、山本順之・観世暁夫両師による舞囃子で、「天の岩戸」のシーンです。片山師の舞は重厚で枯淡、山本・観世両師の舞は、力強いのとやわらかいのとで非常によい対照をなしていました。

 

狩が趣味の大名(野村万作)。今日も太郎冠者(石田幸雄)を連れて狩に出かける。途中、毛並みのよい猿(野村彩也子)を連れた猿曳き(野村萬斎)に出会う。猿の毛皮を靱に貼りたいと思っていた大名は、猿曳きに猿を譲れと命令するが、猿曳きに拒絶される。怒った大名は弓矢で威嚇し、しかたなく猿曳きは猿を譲ることを了承するが…

 

有名な曲ですが、今日は彩也子ちゃんの初舞台とあって、見所の目も小猿に集中していました。かわいらしさも味、とってもかわいい小猿でした。
一方萬斎さんはいっぱいいっぱい。こんなにいっぱいいっぱいな萬斎さんをはじめて見ました。彩也子ちゃんの仕種にひやひやしつつ、猿曳きの愛情を一心に表現してました。25日はもうちょっと落ち着かれるのではないかと思います。
万作さんはさすが!という感じ。前半の大名の驕慢さも、後半の猿の仕種に魅せられて真似をするかわいらしさも、矛盾しないで一つの人間として成立させているところは、芸の深さというところでしょうか。殊に、小猿の仕種に目を細めて、いちいち真似をしてみるところなど、現実がオーバーラップして見えて、とてもチャーミングでした。

 

万作さんの、もう一人の孫、高田遼太くんによる小舞です。わたしの初狂言は、遼太くんの「靱猿」でした。今の彩也子ちゃんより大きかったはずですが、小さいかわいい小猿だった彼が、大きくなり立派に型を見せる…我がことのように嬉しかったです。こういう、成長を見られるのも狂言の醍醐味の一つでしょう。
話は違いますが、地謡、萬斎さん声を出しすぎです。あんなところで自分を主張しなくても…とちょっと思いました。帰っていくときの動作も一人で大きく早かったし。

 

和泉流狂言師で万作さんの従兄弟(ついでに書くと〜書かないほうがいいのかもしれませんが〜和泉元彌さんの叔父)でもある、三宅右近師の語です。観たいと思いながらまだ観ていなかった一つだったので、とても嬉しかったです。

屋島の合戦が目に浮かぶよう。今にも潮の香りがしそうでした。三宅右近師の語は勇壮果敢、所作もぴしっとしていました。ただ、だんだん息切れがひどくなり、こちらが心配になるほどだったのは残念です。

 

観世流能楽師であり、万作さんの弟でもある、野村四郎師による仕舞です。とっても声が美しいので、うっとりしてしまいました。しみじみとした味わいのある舞だったと思います。

 

観世流能楽師の観世栄夫師による能「芦刈」の一場面です。観世栄夫さんを見るのは「子午線の祀り」の最初以来、二度目です。舞は少々おぼつかないところがありましたが、とっても雅でした。

 

観世流能楽師で梅若家当主の梅若六郎師による、能「羽衣」の天女の舞部分です。
実は上に書いた初狂言の際に同時に観たのが「羽衣」でした。当時は能のなんたるかもまったくわからず、舞の途中で飽きてしまったのですが、そんな自分の浅はかさを恥ずかしく思うくらい、すばらしい舞でした。天女の軽やかさが伝わってきました。

 

観世流九皐会当主の観世喜之師による、同曲の鞍馬天狗と牛若丸の場面。これも勇猛果敢な曲で(どうもわたしは勇猛果敢に弱いみたいです)とても美しく強く、心を打ちました。型もわりと跳んだりはねたりが多く、きりりとしまっています。「鞍馬天狗」を全部見たい!と思いました。

 

喜多流能楽師で人間国宝の粟谷菊生師による、同曲の部分。なんでも主人公は「盲目の少年」なんだそうですが、さすがに直面でしたので「少年」には見えませんでした。でも盲人の姿の美しいこと!盲人がいろんなヒトにぶつかって転んだりする哀れさ、孤独さ、悲しさがすべて詰まった、しみじみとした舞でした。

 

金春流若宗家の金春安明師による同曲の最後の部分。ちょっと庶民的な感じのする、明るい舞でした。

 

金剛流宗家の金剛永謹師による同曲の部分。長刀を使った勇壮な舞で、その強さ、迫力に圧倒され、(たんなる見所なのに)自分がやられるかと思ったほどでした。とても力強くて心惹かれます。最後に負けつつある様も美しかったです。これもとても好きな舞でした。

 

祇園の祭りが近い。夫(野村万作)は例年と同じく「警固」の役になったが、妻(石田幸雄)はそれが気に入らない。「違う役につけなければ家には入れないよっ!」と怒鳴って夫を追い出してしまう。夫はすごすごと出て行く。
さて、参詣人(井上祐一、佐藤友彦、井上靖浩、佐藤融)が集まる中、妻も心配になって見に行ってみると、行列がやってくる。太鼓負の夫、太鼓打(竹山悠樹)、神主(野村万之介)、稚児(中村修一)、舞人(野村又三郎;野村小三郎の代理)、巫女(高野和憲、深田博治)、沓持(月崎晴夫、野村良乍)、警固(破石晋照、石田淡朗)の面々である。夫は太鼓を叩かれるたびによろけたが、いざ舞が始まるとすっかり堪能し…

 

序盤の「情けない夫VSわわしい女」、中盤の「祭りのにぎやかさ」、末尾の「しみじみとした情愛」と、みごとに狂言の「おいしい所取り」をしたような構成で、狂言のあらゆる楽しさを堪能できました。

夫は家では情けなく見えるけれども、実際に働いているところを見ると、なかなかよくやっている。妻は夫の愛情を再確認。これ、家でふんぞり返っている世の奥様たちにも、ぜひ見て欲しい作品ですね。きっと、「夫がリストラ=情けない!仕事を探しておいで!!」なんて、言えなくなるのでは?

参詣人のみなさんは、狂言共同社の方々。野村万作家とはちょっと違う感じで、でもにぎやかで楽しかったです。舞人の舞いも素晴らしかった!巫女の舞は…すばらしいとかいう以前に「うっぷ」という気が…で、結婚式で巫女に舞ってもらった経験者としては「あんな舞はしねーよ」と心の中でツッコミながら見ていました。稚児の「水車の型(側転)」もすばらしかったです。できることがすごいという以上に、手足がまっすぐで美しかった!
万作さんは、やはりかわいらしい、でも誠実な男の役がもっとも似合いますね。このシテは初役とのことでしたが、万作さんならではの「単なる人のいい男ではない」滋味というか情感が出たのではないかと思います。
石田さんは「わわしい女をやらせたら世界一」だと個人的に思っているので(!)何も申し上げることはありません。

 

 

2001年11月10日(土)シアター・コクーン 『RASHOMON』

今年の「目玉」の一つでもあった、野村万作家と茂山千五郎家の競演での新作「RASHOMON」を観てきました。99年の「藪の中」に続く芥川龍之介原作の作品です。

盗賊の棟梁、沙金(茂山千三郎)。太郎(野村萬斎)、次郎(茂山逸平)兄弟と関係を持ち、二人を良いように操るほか、他の盗賊たちや、あろうことか父親である猪熊爺(茂山千作)とも関係を持つ淫乱な女だ。その沙金が、盗みに入った夜に殺された。殺したのは太郎か、次郎か?
嫁いだばかりの女、真砂(茂山千三郎)。夫・武弘(石田幸雄)との旅の途中に盗賊・多襄丸(茂山千五郎)に遭い、殺された。殺したのは武弘か、多襄丸か?
そして藪の中に残された女の死体は、沙金か、真砂か?

 

実は上の「あらすじ」を書くのに大変苦労しました。というのも、十三幕からなり、その一つ一つがジグソーパズルのように、一見は関係ない出来事のように見えて、最後に行くにしたがって、互いに組み合わさり、全体像を見せていく、という形式だったからです。
例えば、最初に、現在の羅生門(らしき場所)で雨宿りする二人組は、死体をあさる老婆を襲いますが、これは、盗賊である「太郎」「次郎」の投影、といった具合です。どの場面が次の場面の伏線になっているのか、考えながら観ると楽しいです。

普段、茂山千五郎家の狂言を観ていると、逸平さんの放つオーラに驚かされて、「先が楽しみだな」と思います。が、さすがの逸平さんも、萬斎さんと並ぶと、完全にオーラ負けしていました。どこにいても、ついそっちを見てしまう、萬斎さんはそういう力を持った人です。
同様だったのが、千作師。万作師と一緒に登場すると、いや、それ以外の「その他大勢」で登場しても、そちらばかり目が行ってしまいます。殊に、盗賊みんなで家に押し入る場面、千作師だけ、なぜか武器をやたらいっぱい背負って、一人だけワンテンポ遅れて「わ〜〜〜〜」!!
正直、反則ワザだと思います!おかげで他の盗賊がどんな風に戦っていたのか、さっぱり目に入りませんでした。さらに最後にも反則が!

同様におもしろかったのは、万作師の旅法師と七五三さんの媼の二人のシーンです。関わりたくない旅法師の足つきが、時間がたつにつれだんだん変わっていくところ、逆に媼の声がだんだん高くなるところ、など、「さすが狂言」と思わせるおかしみと味わいがありました。
石田さんの「死のうと思ったけれど死ねなかった」という所作は「鎌腹」の型、など、古典を見慣れたものへの楽しみもあります。

時空を飛び越えて登場人物が行ったりきたり、パズルのピースのような各シーンを組み合わせて全体像を見せる、という演劇の形式は、野田秀樹氏が得意とするところだと思います。今回の「RASHOMON」は、まさしく「狂言版」野田劇を見ているようでした。でも、正直にいうと、時空の飛び越え方やパズルの複雑性など、到底野田秀樹には及ばず、「現代なんてヘタに出さなくても良いのに」と思いました。

聞けば申し合わせは一度しかしていない、とのことで、そのせいか、「茂山千五郎家の人のモノローグシーン」と、「野村万作家の人のモノローグシーン」の間の取り方がまったく違っていました。中でも、千三郎さんと萬斎さんの間にそれは顕著で、(ここでも)野田的に早口でしゃべる萬斎さんと、たっぷりと間を取って独白劇を行う千三郎さんとでは、まるで違う劇を見ているようでした。幕ごとに緩急が(必要以上に)つきすぎてしまうので、その辺はもうちょっと統一して欲しかったと思います。

今回も、劇中時間における「現実」の場面は直面で、証言の中の描写(回想シーンなど)は面をつけて演じられました。また、真砂と沙金が、同じ衣を片袖ずつ通して背中あわせになり、個の混乱を表現するところも斬新でした。

そして最後のどんでん返しが「エピローグ」。時空の旅を終えて、現代に戻り、現代の太郎と次郎(なぜか老化している!)が座る羅生門(みたいなゴミ捨て場)。「真砂」という名前のヨメに逃げられた「石田さん」、白いスーツに赤いワイシャツ、ヤク中のチンピラである「多襄丸(千五郎さん)」、さまざまな人がごみを捨てにやってきて、またそこからお宝を見つける老婆(七五三さん)がいます。つまり、過去において起きた全ての事件は、現代にも起こりうる普遍的なことだ、ということを表現しているのです。
さらに最後の最後、舞台の真裏が搬入口であることを利用して、搬入口から去っていく面々。ちょっと萬斎さんの「思いつき」っぽいアイディアではありましたが、充分面食らいました。(「藪の中」でもこういう演出方法だったそうですが、私は「国立能楽堂」で観てしまったため、ビデオに収録されているバージョンを知らないのです。)
ちなみにカーテンコールでも、「にこやかに手を振る」茂山家と、「ちょっと照れくさそう」な野村家、と様子が対照的でした。いろんな意味で、こういう味の違いが出た作品だったと思います。

「一つの屍骸にふたりの女」「一人の女に二人の男」
これが今回のキーワードです。
考えてみれば、『まちがいの狂言』では
「わたしがあなたであなたがわたし。さてわたしとは何じゃいな?」
がキーワードでした。
沙金は真砂であり、真砂は沙金です。屍骸がどちらの女のものであるか、など、はたして誰がわかるでしょうか?
真砂が連れ添おうと思ったのは夫なのでしょうか、盗賊なのでしょうか?この二人を区別するものは一体何でしょうか?
沙金が愛したのは、太郎でしょうか、次郎でしょうか?この二人を区別しなくてはならない理由は一体どこにあったでしょうか?
「個の判別」という、実際は人間の感覚に全面的に頼っているもの、は、はたして「絶対」なのか?というのが、今回のテーマであり、そういう意味で、『RASHOMON』は、『まちがいの狂言』の続編または姉妹編、と言ってもいいかもしれません。

次回があるときは…「狂言」と思わずに、狂言の方法を使った新劇、と思って観るのが正しい見方かもしれません。

 

 

2001年10月11日(木)国立能楽堂 『ござる乃座』26th

さて、巷で騒然?「陰陽師」も公開中で話題になっている真っ只中ですが、半年振りの「ござる乃座」です。プログラムの中に「陰陽師ハガキ(お札つき)」が入っていたりと、サービス満点でしたが、チケットが比較的取りやすかったのもここまで、かもしれませんね。来年のチケット争奪はどうなるんでしょうか。狂言の裾野が広がることを喜びつつも不安です。
ベレー帽を被って見てました。

世に「かくれもなき」大名(野村萬斎)、めっぽう見栄っ張り。自分の雇い人が一人しかいないことを苦にして、もっとたくさんの者を使おうと考える。さっそく唯一の雇い人である太郎冠者(野村万之介)を呼んで「芸のあるヤツ」をスカウトに使わす。太郎冠者がスカウトしたのは新参者(石田幸雄)。芸達者でもあるという。大名はその話を聞いて結構気に入ったものの…

 

ものすごく楽しい曲で、一人で大笑いしていました。馬もいないような大名、そしてそれをひがむでもなく、ちょっと見栄張ってみたり。人を8000人雇いたい!というくせに、お金の当てはなかったり。とても愛らしい大名です。演じ方によっては、いやらしさがでそうな気がしますが、萬斎さんの大名は表情豊かで憎めない気がしました。
萬斎さん曰く「現代のマニュアル文化への痛烈な皮肉」とのことですが、わたしは実はそうは思いませんでした。現代はマニュアルさえろくに読まないで「すぐ人に聞く」人が増えています。つまり現代は「マニュアル以下」なんです!そういう意味では、大名さん、調べるだけましだよ、と思ってしまいました。
普段、狂言を「台詞で笑う」という機会がそれほどあるわけじゃない、というのは、しぐさでも笑うし、もっと全体的な捉え方で笑っているからなんですが、今回は本当に「台詞」で笑いました。やれ「(新参者が「馬の伏せ起こし」ができる、というのに対して)うちは馬がいないから、伏せ起こしなんかできても役に立たないなあ。猫の伏せ起こしなんかやってもねぇ…ぷぷぷ」(太郎冠者とのナイショ話。このあと「声が大きい」と太郎冠者に注意される)だとか「大名たるもの、新参者なんぞと直接しゃべらない」なんていってたくせに、相撲になれば思いっきり上半身裸(^_^;)だし、先に相手が勝って「こういう手で勝ちました」という説明を、自分が勝った時には倍以上にして返すし、もう一度やりたいという相手に対して「今度は空の向こうまで投げ飛ばしてやる。そしたら土の中に深く潜ってしまうだろうな。となると命はない。故郷の家族に何か言い残すことはないか?」だの、大きく出たいくせに、正直者でお調子者。
また太郎冠者が輪をかけてひょうきんです。「相撲はできません」というくせに、「え、行司ですか(^○^)」ってものすごく嬉しそう。
さて新参者は相撲に勝ったので「どんなもんだい!」と興奮して去っていきます。あのう、奉公するっていう目的は…?
結局誰も彼も短絡的思考のヤツばっかだったというお話…かな?
大名は最初いきなりの小技で負けるんですが、そのときに気を失う型をします。それが、体をまっすぐにしてまるで棒のように倒れる、というもので、本当にまっすぐ(コントなどで似たような動きがありますが、初めて「本当に棒になる、とはこういうのだ」と思ったくらい違います)倒れたのには驚きました。
それから、ちょっと話が変わりますが、当時の相撲って今と取り組み方が違うんですね。なんだか優雅でいいなあと思いました。

 

博打打ち三人、それぞれ負けが込んで家財道具を失い、仕方なく奉公することにします。そこに、「片輪を雇います」という有徳人(野村万作)の札を発見。それぞれ、座頭(高野和憲)、躄(いざり)(深田博治)、唖(野村萬斎)に扮して有徳人の家を訪れ、奉公のクチにありつきますが…

 

タイトルからして現代人にはちょっとショッキング。しかもニセ片輪です、「そんなのありかあ?」という気がしますよね?でも、この曲はなぜか「身体障害者をネタに」というにおいがまったくないんです。
たぶんそれは、障害があろうがなかろうが、隙がある者はだまされるし、悪い人はいる、という、ごく当たり前の、でも本当の「平等」が根底に流れているからだと思います。片輪になりきる博打うち三人、それぞれ「障害者を馬鹿にする気持ち」なんてまったくなくて、ただそこに銭のクチがあったから利用する、という感じです。ウラがまったくありません。
ところで、唖である萬斎さんは、「アウアウ」という声とともに、棒を叩いて意思表示をします。当時はこういうコミュニケーションを取っていたんですね。それにしても萬斎さん、「アウアウ」言い過ぎ!「おーまーえーはオットセイか、それともジミー大西か?」と思ってしまいました。
さて、もともと友達同士の三人、主人の留守は決まって宴会です。宴会とくれば狂言では舞や謡と決まっています。きっと遊び人だから、舞いも謡もうまいのですね。
高野さんの舞いもすばらしくて、彼がその前にちょっと手を震わせていた理由もよくわかりましたが、やはり萬斎さんの「景清」もすばらしかったです。ただ、いつもならもっと萬斎さんが大きく見えるはずなのに、今回は「普通の舞」と思えてしまいました。魂が入ってなかったというのか…。少々お疲れだったのかもしれませんが、残念です。
万作さんの有徳人は、怒ったときの型がすばらしかったです。
この曲、片輪三人が互いを(最初は名前で呼んでいたにもかかわらず)「座頭」だの「唖」だのと呼びかけるものだから、見ているほうは意味もなくひやひやしてしまうかもしれません。でも、もともと今でいう「口の不自由な人」というのを一言で表わしたのが「唖」であり、それ以上の意味はなかったはずです。こんな簡潔な言葉を言えなくしてしまった社会とその歴史。なんだかとても悲しくなりました。そして「タイトルが」なんてひやひやしている自分が、とても「不自由」な心の持ち主のように思えました。
それにしても、身障者ってわりと儲かる仕事だったんですね。
シャーロック・ホームズにも、わざわざ身障者を装って物乞いをして、実はサラリーマンよりも儲けていたという人の話があります(「唇のねじれた男」)。目端の利く人間の考えることは、洋の東西を問わないのかもしれません。

 

 

2001年8月3日(金)東京厚生年金会館大ホール 
『野村萬斎 ウルトラ狂言ツアー2001 〜電光掲示狂言 ゆかたでギャンブル!〜』

 

数年前までは、毎年年末にやっていた、このライブ版ホール狂言を、去年から夏にも全国ツアーでやるようになりました。ホールでたくさんのお客さん(見所ってこの場合も言っていいのでしょうか?)に観てもらうために、大道具などを使い、少々演出を派手に、そして現代語訳を表示するための電光掲示板に人格を持たせ、観客を煽ったり盛り上げたりする、という、斬新な形式で行われている狂言ですが、曲はまったくの古典です。演目は、98年11月に「電光掲示狂言の会」として行ったものとまったく同じで、私には二度目でした。タイトルが「ゆかたでギャンブル!」となっているのは、「博打十王」をやるせいで、98年のときは「地獄狂言の会」でした(博打十王では地獄で博打を打つため)。今回も、狂言に合わせてこちらもサイコロの目当てをする、楽しい仕掛けつきです。

弟(月崎晴夫)が山から戻ってからめっぽう具合が悪い、と心配になった兄(高野和憲)が山伏(野村万之介)を訪れ、祈祷を頼む。兄弟の自宅を訪れた山伏は弟に祈祷をするが症状はますます重くなり、なにやら手をぱたぱたさせたり、奇声を発したりする。山伏曰く「山で梟の巣を落としてしまったのが原因で、梟がとり憑いた」と、ますます祈祷の声をあげるのだが……

 

非常に短くて単純な楽しいお話です。そういえば、昨日に引き続き山伏モノですね。とり憑いた梟がなぜか兄、そして最後には山伏へと、どんどん伝染(?)していき、「ほーう。ほーーーぅ」の大合戦になってしまうのですが、始まる前にわたしたち観客は、萬斎さんに「梟」の型のレクチャーを受けていたので、よけい楽しく観ました。さて、同じ梟でも、月崎さんと高野さん、全然違うのでびっくりしました。月崎さんのは、さすがスポーツマンらしく、きびきびした軽快な動き。高野さんのは、ちょっと重々しい動き。どちらが梟らしいか、といわれれば、月崎さんなのですが、狂言らしいのは?と聞かれると高野さん、という感じです。どちらも個性がでていて面白かったです。そして相変わらずのおいしいところ取りなのが、万之介さん。ああいう、「すっげー偉そうなんだけど実はへなちょこ」の役をやらせたら天下一品です。彼ならではの、ちょっとくだけたやわらかさと、狂言で培ったしっかりした技術が両方生きるからなのでしょうね。

 

ここのところ、ちょっとお経を唱えれば極楽にいけるという仏教が巷に流行ったせいで、地獄は人材難。人を食らって生きている鬼たちはひもじくて仕方がない。来ないなら迎えに出るまで、と閻魔大王(石田幸雄)はじめ一同で六道の辻まで死者をスカウトにやってくると、やって来たのは博奕打ち(野村萬斎)。そおれ悪いやつだと閻魔大王、喜んで裁き始め、浄玻璃の鏡で生前の姿を映すと、さっそく地獄へと導き出そうとするが、そこは博奕打ち、とりあえず博奕をやってみませんか、と言葉巧みに地獄の一同を誘って……

 

これもライブ向きな楽しい曲であるのを、舞台技術を使ってさらに楽しく仕上げています。そもそも、この曲の成立が面白いですね。「このごろお経を唱えればすぐに極楽にいけるから我々鬼は飢えている」なんて、ちょっと当時のいろんな宗派を揶揄する意図もあった気がします。その上、「博奕というのはやったことがない」という地獄の面々、思いっきりはまってしまって。いつの世も、ギャンブルは人を魅了するということでしょうか。
さて、始まりは、文字通り「奈落の底から」地獄の面々があがってくるところから始まります。そして、博奕打ちがまんまとつかまり、裁きを受けるのですが、そのとき、「生前の姿を映す」という「浄玻璃の鏡」の映像が、実際にスクリーンに映し出されます。映るのはなぜか洋服を着て、麻雀スロットポーカーにサイコロ、と博奕で儲けまくる(しかも手にするはなぜかドル札)博奕う…いや野村萬斎の姿。「いったいこれはどこの国のいつの話?」と、ちょっとだけ異空間に誘う不思議な演出です。さて、博奕ですが、実際にサイコロを投げて行われます。したがって、どの目が出るかはわからない。これをみなさんも当ててみましょう、というのがこの企画の一番楽しいところです。全部当たると豪華商品がもらえるのですが、この日は残念ながら全問正解はなし、ギャンブルの道は険しいことを痛感させました。そうそう、もちろん地獄の面々は全敗。不思議なことに、彼らが予想する目は絶対に出ないんですねえ。
私が前回見たときは、閻魔大王が万作さんでした。万作さんの「普段はごくまじめに業務をこなしているのだが、今回はついつい夢中になって」という感じの閻魔さまもよかったのですが、今回の「おーれーが閻魔だよん。どれどれギャンブル?」という感じ(?)の石田幸雄さんもとても閻魔らしく、良かったです。声もよく通っていました。萬斎さんは立ち姿から美しい!声もとても通っていて、謡に聞き入ってしまいました。気になったのは、初日のせいか、新しくメンバー入りした方が、一箇所所作を忘れたこと、それから最後、石田さんと萬斎さんが連れ立って極楽へと行くところで、萬斎さんが舞っているときに、彼のもつ札が石田さんにぶつかりそうになったところです。多分次の日にはどちらも直っていることでしょう。

 

 

2001年8月2日(木)国立能楽堂 『心・技・体  教育的古典狂言推進準備研修練磨の会  TOPPA!』vol.3

とてつもなく長い名前ですが、茂山千五郎家の若手、千三郎さん・正邦さん・茂さん・宗彦さん・逸平さん・童司さんがつくった狂言の会です。茂山千五郎家の狂言を観るのは一年ぶり、TOPPA!は初体験でした。会場は、TOPPA!にとっても初めて、という国立能楽堂です。まず、会場に入ると、パンフレットを渡してくれるのが逸平・茂両氏だったことにびっくり。能楽堂なのにBGMがロックなのにもびっくり。開演の15分も前なのに、千三郎師が舞台に出てきて、お話してくれるのにもびっくりしました。やはり東京の狂言とは、見所との距離が違います。それにしても国立能楽堂をたった二日いっぱいにするのが大変とは、なんだかとても意外でした。朝ドラに出たばかりの逸平さん、新橋演舞場で舞台に出たばかりの宗彦さんはじめ、マスコミ的にも人気があると思うんですが……

主人(茂山正邦)は、太郎冠者(茂山童司)、次郎冠者(茂山宗彦)に、恋人の彼の方へ文を持っていくよう言いつけます。道中、二人はやたらと文が重いことに気づいて、文を読んでしまえ!と開けてみますが、取り合っているうちに破れてしまって……

 

ご存知、使えない部下の失敗のお話です。パンフレットには「古い台本には『彼の方』が男性であるとの記述があり」とあります。そうか二人はホモなのね……そう思ってみると、太郎冠者と次郎冠者が文を持つのを嫌がったり、中身を読んで笑ったりする理由が妙に納得できます。
途中、童司さんと宗彦さんの二人の場面が続くのですが、なんだか緊張感がなく、こちらも集中力をなくしてしまいました。なぜだろう、と考えたのですが、「舞台に緊張感がなくなったから」という答えしか見つかりませんでした。
狂言は、声や体をすべて自分の完璧なコントロール下において行われます(これは萬斎さんの受け売りですが)。そのため、美しいバレエやダンス、または体操競技を見ているときのように、舞台には、(内容はものすごくおかしいにもかかわらず)なんともいえない緊張感がただよい、見所は真剣に、息を詰めて見てしまいます。そうやって真剣にやる側と見ている側がぶつかって、初めて心からの笑いが出るのです。真剣な芸を見せてもらえないと、心からは笑えない、悲しいけれどそんなことを感じました。

 

田舎に住む、信仰の厚い人(茂山逸平)が、お堂を作ったので、そこに入れる仏像を作ってもらおうと都に上ります。しかし仏師に当てがあるわけでなし、来てはみたものの、途方にくれるばかり。そこにすっぱ(茂山茂)がやってきて、田舎モノに一泡ふかせてやろうと仏師に成りすましますが……

 

以前茂山千五郎家若手(当時は千三郎さん抜きで「花形狂言少年隊」を作っていた)がテレビ出演した際、ちょっとだけ演じてみせたもので、それ以来、「筋は知っているが生でちゃんと観たことはないもの」の一つだった曲なので、大変楽しみでした。筋はきわめて簡単で、萬斎さんなら「くだらな系」にジャンル分けする部類。でも無条件に楽しめるものです。すっぱは、確かに田舎者をだますのですが、考えてみれば、お金を損したわけではなし、一日時間を無駄にしちゃっただけ。狂言に出てくる「悪人」はこんな程度が多く、だから観ていて楽しいのです。
逸平さんは、去年よりも格段に成長が見受けられて、今後がますます楽しみになりました。やがてあの長い手足を存分に生かして、大きな動きができるようになるとさらにいいですね。

主(茂山宗彦)は、祖父の長命祈願のために、太郎冠者(茂山正邦)に、「かたつむり」というものを取って来い、と命じる。「かたつむり」を知らない太郎冠者が、どういうものかと尋ねると、「頭が黒くて、腰に貝をしょっている。たまに角を出すもので、大きいものは人間ほどもある。藪にいる」という。そこで太郎冠者が藪に探しに行くと、寝ている山伏(茂山千三郎)を発見。「頭が黒い・腰に貝」これだ「かたつむり」だ!!と太郎冠者は山伏に声をかけ……

 

1999年に、山伏:野村萬斎版で見たことのある曲なのですが、当時から大好きな曲です。まず、「山伏をかたつむりと思い込む」という奇想天外な発想がいいじゃないですか!「知らないもたいがいにせーよ」という感じ。最後が、怒ってる人も困っている人もみんな、ついつい山伏のお囃子に乗ってしまって踊ってしまう、という終わりなのも好きです。怒ってしまうのに山伏の「でんでんむしむし」踊りに乗ってしまうのは、もしかしたら山伏の魔力なのかもしれませんが、「人間楽しいほうに流れがち」という、普通の人間の持っている性質を良いほうに解釈しているようで、見ているだけで楽しい気分になります。
実はこの曲、最後の例の踊りが、茂山千五郎家では四段(四種類)しかなかったそうです。ところが野村家など十段ある家もあるというので、古い文献を調べたところ、どうも途中で減ったらしい、ということが分かり、今回はそれを復活させて十段で演じてくださいました。囃しながら舞うという、大変な作業の上、型も付け直し、体力の消耗も大変なものでしょうが、汗一つかかずに本当に楽しそうに舞う二人の姿はすばらしかったし、しつこいくらいの「ツッコミ(主または太郎冠者の怒り)」と「ボケ(山伏の囃子&舞)」の繰り返しは、本当に楽しくて、途中で拍手が起きたくらいでした(これは狂言ではとても珍しいことで、野村万作・茂山千五郎両家合同の「唐相撲」の時以来二度目の体験です)。上にも書いたように、「声と体を完全にコントロール下における人の芸は本当におもしろい」ことのよい例となった曲でした。考えてみれば、前回見た萬斎版が面白かったのも、あの運動神経のかたまりのような彼がやったからこそだったのですね。最後にすばらしい芸が見られたので、大変満足できました。

 

 

2001年5月28日(月)全労済ホール スペース・ゼロ 『新宿狂言』vol.8

毎年、萬斎さんが取り組んでいる「ホールで効果を使っての狂言の上演」の一つである、新宿狂言に行ってきました。去年はサボったので、二年ぶり、三度目の新宿狂言です。幕も舞台の床もすべて真っ黒で、今回のテーマの一つでもある「夜」が表現された舞台となっていました。
ホール公演の例にもれず、最初に萬斎さんからの解説があります。お客さんは、経験者とはじめての人とちょうど半々くらいだったようで、非常に解説がしにくいパターンだ、と苦笑しておられましたが、実際はまったくそんなことは感じさせず、例によって立て板に水のごとく、時間きっかりまでゆるゆるとお話くださいました。

自分の持つ田がよく実ったため、主(高野和憲)は太郎冠者(野村万之介)を鳥追いに遣わす。実は田がある場所は狐塚で、狐がよく出る、という噂。臆病者の太郎冠者は日が暮れたことにパニックになり、応援にやってきた次郎冠者(深田博治)を狐と思い込んで……

 

今では体験できない、月も星もネオンもない真っ暗闇でのお話。応援にやってくる人たちも「道が見えなくて」声を頼りに進むしか術がないのですから、太郎冠者はどんなに怖かったことでしょう。「くだらな系」と萬斎さんはジャンル分けしてましたが、なかなかどうして、大真面目に狐退治をしようとする太郎冠者を見ていると、そうも言い切れないような気がしたのは、私も怖がりだからでしょうか?
今は「狐に化かされる」ことはないほど明るい夜ですけれど、パターンを変えて、たとえばいじめとか、村八分みたいな目にあっている最中、親切めかして近づいた人に対して、その人が本当に善人で自分に好意を持ってくれているのか、それとも自分を陥れようとして、または利用しようとして近づいているのか、区別がつかないほど疑心暗鬼になってしまう、なんてことは誰にでも経験があると思います。狐のように、いぶされてしっぽを出してくれればいいのですが。

 

今日は十五夜。座頭(盲目の芸人・野村万作)が月見、でも見えないので、虫の音を楽しもうと野に出た。するとそこへ洛中の人(野村萬斎)がやってきて、「盲目なのになんで月見をしているのか」と問う。そんなことから意気投合し、酒宴をして盛り上がる。さて、夜もふけたのでお別れよ、と一旦二人は別れるが……

 

前の演目との休憩時間に、係員がモップで床を綺麗に拭いていたので「めずらしい」と見ていたら、あとで理由がわかりました。万作さんの座頭が月をバックに登場したときの立ち姿の美しいこと!そして、暗闇の中で鏡のように光る床を進む万作さんの姿は、一人だけぽつんと浮いて見えて、彼の孤独さ、心細さ、そして世俗から一人浮き上がってしまった様子を体現しているように見えたのです。万作さんは、息遣いが荒くてちょっと心配になりました。また体調がお悪いのでしょうか?盲人の所作や舞姿は、それはそれは美しいのですけれど。萬斎さんは……萬斎さん「らしさ」が発揮できる作品ではなかったので、イマイチかな?でも謡の声はさすが、です。

狂言は、「相互信頼性の高い笑い」だとわたしは思っています。言い方を換えれば「性善説に基づいた劇」というのでしょうか、基本的に登場人物はよい人間で、というのは、悪人がいない、ということではなくて、悪人すらもなんとなく憎めない、誰にでもあるいたずら心をもつ程度の人間で、基本的に彼らのすることを信頼しても、裏切られることがない、その上でなりたつまちがいやら失敗やらを、見ている私たちは安心して笑う、というものだと思うのです。今まで観たどの演目も、観終わったあと「あ〜おもしろかった」と心を暖かくして帰れる、そういうものでした。
ところが、今回のこの「月見座頭」だけは、そうではありませんでした。「なんで?」「なんで?」とクエスチョンが頭の中を回っているばかりで、非常に後味が悪い作品でした。洛中の人は、人間として基本的にはしてはいけないことを座頭にしてしまいます。それまで、楽しく宴会をしていたくせに、です。
ひどい目にあった座頭は、それまで宴会をしていた人と、ひどい目にあわせた人間とを「別人」と思って去っていきます。しかし実際は同じ人。観ているわたしたちには、それが同じ人だということは「見えるから」分かります。でも盲人である座頭には見えないのです。しかし、さて振り返ってみて、はたして私たちは、自分のまわりの人間を「見て」いるのでしょうか?分かっているのでしょうか?「狐塚」の太郎冠者が、次郎冠者たちを狐と見誤ったように、人を一部だけ理解して、「見えた」つもりになっているのではないでしょうか?今日の公演のテーマは、私たちの「人間観察の甘さ」「自己認識の浅さ」を目の前に突きつけたものだったのです。

でも、「月見座頭」には、別の意味もあった気がしてなりません。
洛中の人の「人格」は、確かに極端だけれども、思えば最初から「歌を詠みましょう」といいながら、超有名な百人一首をそのままパクってくるなど、ちょっと信用できない部分はあったのです。でも、「狂言の世界」は、相互信頼で成り立っていますから、座頭はそれを「冗談」のようにとらえ、自分も百人一首からパクって返します。それで二人が意気投合するのですが、宴会のあと、洛中の人は、去っていきながら「これだけではつまらないので(台本がないので大意)」と引き返すのです。ここが、相互信頼の世界から豹変する瞬間です。この「これだけではつまらない」というのは、もしかしたら、酒宴や座頭に対しての台詞なのではなくて、「こんなことでお互いに疑わず意気投合してしまう」ような、「狂言の世界」そのものへの、メタ的な台詞だったんじゃないでしょうか?狂言の中で、狂言批評をしている、それがこの曲のテーマだったんじゃないか、そんな風にも思いました。
ともあれ、いろいろと考えてしまう曲でした。大蔵流でも観てみたいと思います。

 

 

2001年4月24日(火)世田谷パブリックシアター  『まちがいの狂言』

ちょうど二ヶ月ぶりだったのですね。びっくり。
ここのところいろんな雑誌で取り上げられ、ちょっとした話題でもあった、新作「まちがいの狂言」を観てきました。これは、シェイクスピアの「まちがいの喜劇」を狂言に翻案したものです。「万作の会」ではシェイクスピアの翻案による新作は「法螺侍」に続いて二作目です。ちなみに、夏にはロンドン・グローブ座にて上演予定です。

黒草の国に、生き別れになったという兄弟を探しに、敵対している白草の国の石之介(石田幸雄)という男とその召使の太郎冠者(野村萬斎)がやってくる。宿を探しに太郎冠者をやると、戻ってきて「奥様が昼食だから戻って来い」などと訳のわからないことをいう。太郎冠者を叱って追い出すと、やがて戻ってきて「そんなことは言ってない」という。実は石之介の生き別れた兄弟とは双子の片割れで、ついでに太郎冠者も双子なので、それぞれ見間違えていたのだが・・・・

たった二人で乗り込んだ外国で、お互いを知るのはお互いでしかないのに、その二人が二人とも「双子の片割れ」だったために、取り違いが起こり、二人とも「自分が自分であること」の根拠を失ってしまいます。本来なら、これは「アイデンティティとはそもそも」というような、とても深い問題なのですが、シェイクスピアのアイディアと狂言の持ち味とで、楽しい話に仕上がりました。個人的には「取り違え」とか「勘違い」によるすれ違い、という話は好きでないので、途中でイヤになるかな、とちょっと心配していましたが、まったくそんなことはありませんでした。
理由は、動きが多いことです!特に、石之介演じる石田幸雄さんと、太郎冠者演じる萬斎さんは、二役なので出ずっぱり!かけまわることが多い役で、この二人のテンポのよい動きが、長い作品をあきさせません。
外国に乗り込んだときに感じる、周りとの齟齬を「黒い装束の面をつけた人の集団」であらわすところ、双子の違いを、面と出入りする場所で区別するところ、などなど、斬新な演出がたくさんありました。全体的には、狂言の手法を十分に生かしながらも、現代劇の要素がたっぷり入っていて、動きがあるところは吉本新喜劇か、全盛期の夢の遊民社か、といった感じもあり、結局なにでもない、誰もしたことがない、とても新しい演劇、という形になっていたように思います。ロンドン公演を念頭において作られたとのことですが、いわゆる「ジャパネスク」な感じもせず、でも、まちがいなく日本だ、という意味でも、イギリス人の予想をきっと裏切るでしょう。
コネタもたくさん仕込んであります。実は、登場人物は、全員二役を演じているのです。密かに「おいしいところ一人取り」だったのは、あやしい祈祷師兼尼さんの、万之介さんでした!それから、門と人の入れ替わり、始まるや否や観客の心をぎゅっと掴んでしまう、萬斎さんのあやしすぎる英語……。でも、ポストトークで彼が言っていた「10年後でも古くない作品」には合致しない箇所が、一箇所だけありました。それは、見た人だけのお楽しみ。でもきっと、世界中に通用する、はず。
萬斎さんの、演出家としての才能に敬服した作品でした。もっと回数を重ねて、熟してきたころ、再び観たい作品です。

 

 

2001年2月24日(土)国立能楽堂 『ござる乃座』25th

一年ぶりの「ござる乃座」でした。久しぶりに行って感じたのは、狂言初心者と思われるお客さんが多かったこと。きっと萬斎さんのファンなのでしょう。狂言を知ってほしいとは思うけれど、あまりにも場違いな場所での笑い、逆に「ここぞ」というところでは起きない笑いが気になりました。能楽堂に行く前に、解説つきの普及公演などで、せめて基礎の部分は理解しておいてほしいな、と思います。

 

 

喜多流シテ方の狩野了一さんによる舞囃子です。
普段狂言方の舞しか見ていないので、とても新鮮でした。滑っているような移動、身体の伸び・縮みで二倍にも半分にも見える身体など、本当に美しくて、息を詰めて見ていました。自分が王位についた夢を見ている場面での舞だそうなのですが、解説を読む前に「王様みたいに威厳がある!」と思ってしまったほどです。

舞を面白く思えるようになったので、そろそろ能を見たいなあと思います。

 

 

このごろ世間では「小鳥」が大ブーム。鶯を飼っている人(野村万作)が、野原で鳴かせようと籠に入れてやってくる。ところがそこに、鶯を手に入れたい「梅若」の家来(野村萬斎)がやってきて……

前半は万作さんと萬斎さんの、鶯を巡っての勝負です。運動神経が鈍くて、籠に入っている鶯さえ竿で刺せない(トリモチのついた竿でくっつける)萬斎さんは、万作さんに勝負を挑みますが、賭けた刀が取られるばかりで、結局なにも手に入らない、というところは、モノを変えれば今でも競馬場なんかでよく見られるような……
後半は、そんな萬斎さんの「ひとり反省会」。一瞬、「いきなりなぜそんな話を?」と思える故実を語りだしますが、それがみごとに「オチ」につながっていて、思わず「うまい!」と心の中で言ってしまいました。『号外!爆笑大問題』の、できのいいコラムを聞いたあとの気分です。

 

 

独身の主人(野村万之介)が、同じく独身の太郎冠者(野村萬斎)と共に、夷様に妻が授かるようお願いします。すると、夢のお告げで「西門にある釣り針で妻を釣れ」と……

「人間を釣るってあーた!」とそもそもの設定で笑ってしまうこのお話、設定のおかしさでは「蝸牛」に通じるものがある気がします。
万之介さんは還暦を過ぎているのに、妻は「カオがいいほうがいい」だの「17〜8がいい」だの、贅沢すぎ!(もちろん、そういったおかしさを出すための配役でしょう)そのくせ、自分で釣るのは恥ずかしい、なんていうし。
こんな万之介さんの代わりに、太郎冠者が釣りますが、これがよく釣れること!奥様付きの腰元まで釣れてしまいます。さて、いよいよ自分の番、とばかり、舞にも一段と気合を入れた上で釣ってみると……
待って待ってやっと順番が来て、それなりに金をつぎ込んだUFOキャッチャーで、しょぼいサブキャラが取れてしまったようなオチ。それにしても、ブサイクな女に限って、狂言ではしつこくて察しが悪いです。そして演ずるのは絶対に石田幸雄さんです(←この部分は半分嘘です(^_^;))
囃子が入っていたせいか、にぎやかさが加わって、めでたい感じに仕上がっていました。萬斎さんが、妻と二人きりになり向き合う部分、本当に初恋の場面を覗いているみたいで、こちらもきゅんとしてしまいました。

 

 

 

2000年11月16日(木)宝生能楽堂 『野村狂言座』第12回

実はこの前に「ござる乃座」を予約していたのですが、体調不良で行けず、ずいぶん間が開いてしまいました。

主(高野和憲)は出かける用事があるのだが、太郎冠者(井上祐一)と次郎冠者(佐藤友彦)は家の酒を飲み漁るのではと心配している。そこで、一計を案じ、太郎冠者の腕を長い棒に縛り、次郎冠者は後ろ手に縛り上げてしまう。主は安心して出かけるのだが……

ホールなどでも演じられる、ポピュラーな狂言の一つです。今回は狂言共同社のみなさんによるもので、味わいもすこし違いました。こういう曲はいろいろな流派のを見比べるのも面白いかもしれませんね。

で、今回。次郎冠者がすごく神経質そうで、あんまりお酒が好きそうにみえなかったのが残念です。ただ、太郎冠者が、谷啓さんみたいないい味をだしていて、すごくコントラストがよかった、というのが実は持ち味だったのかもしれません。

 

 

連歌に熱中して家に客ばかり呼ぶ夫(野村万作)にキレた妻(石田幸雄)がついに離縁すると言い出す。最初も止めていた夫も最後は了承し、離縁の印(慰謝料のようなもの?)を渡そうとするが、家の中には箕しかない。しかたなく箕を印として妻が出て行こうとすると……

「棒縛」みたいにげらげら笑えるものとちがい、最後はしみじみとなってしまう内容です。なにしろケンカの内容は(金もないのに使うことばっか考えやがって!という)今でも普遍的な夫婦喧嘩だし、離縁の印が箕一つで、妻はしかもそれを笠のように被って出て行こうとするのですから、見た目はものすごくヘンな情景なのですが、それがしみじみとココロに染み渡る情景へと変化するのも、狂言の醍醐味なのでしょう。

万作さんの舞は、途中手が震えたりしたので、もしかしたら具合が悪かったのかもしれませんが、型が決まって本当にため息が出るほどきれいでした。

  

この感想もファンクラブの会報に載りました。

 

 

町の人々(野村万之介、小川七作、高野和憲、月崎晴夫、竹山悠樹)が主(深田博治)の家に集まって祭りの出し物の企画立案と稽古をしていると、煎じ物売り(野村萬斎)がやってきてやたらと勧めてくる。稽古の邪魔なので売るなと太郎冠者(石田淡朗)に言われた煎じ物売りは、今度は囃子に合わせて売り……

大勢が楽しくやっているところに、一人ヘンなやつがやってきてその場をめちゃめちゃにする、「往年のクレイジーキャッツのコント」に通じるところがあります。萬斎さんは、こういう場をめちゃくちゃにする役をやらせると天下一品!町の人々がなにをされようとも敢えて無表情を保つのも、萬斎さんの物売りを際立たせてよいです。

この物売りは、最後にちょっと悲しい目に遭うのですが、決してめげません。狂言ですから、天性の「能天気野郎」なのかもしれませんが、わたしは逆に、実は今までもいろいろあったけど、明るく乗り切ることにしたんじゃないか、というような「庶民の知恵」が見えて、ちょっと哀しくなりました。しかし、囃子に合わせて踊っているばかりでは、煎じ物(漢方薬)は冷めてしまうし売れないし、で、彼の営業成績がちょっと気になるところです。

この感想もファンクラブの会報に載りました。よっぽど変わったことを書いているんでしょうか?だんだん不安になってきます。 

 

 

 

2000年6月29日(木)宝生能楽堂『野村狂言座』第11回

大名(野村万作)が近頃流行りだという秀句(シャレ)を覚えたいと思い、太郎冠者(野村萬斎)に命じて秀句の名人を探させる。太郎冠者はどうにか「傘に関する秀句なら言える」という人(深田博治)を探し出すのだが……

大名がまったくシャレがわからず、「傘にかんする秀句だけ」といっているその人を名人と思い込み、彼が言うことならなんでもシャレだと思ってしまうところがおもしろくもあり、哀しくもあります。「若い人の流行に無理矢理ついていこうとするおぢさんが、当時もいたのですね」とアンケートに書いたら、ファンクラブの会報に載ってしまいました(^_^;)

 

お酒を飲む相手を探してこいといわれた太郎冠者(高野和憲)が探してきたのは、酒乱で有名な人(月崎晴夫)だった。主人(竹山悠樹)はなんとかみだれさせまいと太郎冠者に命じるが……

太郎冠者がポイントはずれのため、主人の思った方向に話が進まない、といった、狂言によくあるパターンの一つ。投げ飛ばしごっこのときは、おそらく大変だったでしょう!竹山さんの主人がいかにもまじめそうで、酒乱とは気が合わなそうです。

ある男(野村万之介)から法事の説法を頼まれた僧(石田幸雄)は、自分の説法に自信がない。そこで、涙もろい尼(野村萬斎)を雇って泣かせ、盛り上げようとするのだが……

尼の泣き能力は、依頼されたときと説法の後ではものすごい発揮されるのですが、肝心の本番では発揮されません。これで驚いたのは、萬斎さんがどっからみてもおばあさんにしか見えなかったこと。歩き方、背の曲がり方…こういった、たたずまいの美しさを観ることができるだけでも、狂言を見始めてよかったなあと思います。

 

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