バスルームから愛を込めて

 

といっても、色っぽい話題ではない。

先日車に乗っていたら「バスルームから愛を込めて」というタイトルの曲が流れた。おそらく60〜70年代くらいのものであろう。女性歌手だったが、多分知らない人だ。

で、その曲(言い忘れたが日本の歌である)のコーラスが、「From the bathroom」と言っていたのだ。

それで、運転していた同居人に「これは(文法的に)おかしいのではないか」と問うてみた。いろいろと議論をしたが、彼からすると「バスルームから愛をこめて」だけでは省略してある情報が多すぎて、どの前置詞が適当であるか判別できない、という。そして、彼にとってこういった議論は「思考経済の浪費(つまり頭と時間の無駄ということ)」だというのだ。

わたしはというと、まったく逆のことを考えていた。

同じような言い回しに「ロシアより愛を込めて」という映画があるが、あれはスパイがロシアにいくんだかロシアのスパイとどうにかするんだか、そんな内容だったと思う(007シリーズだし)。だから、同じように「愛を込めて」あっても、おそらく省略してある部分は能動的で、多分身体的移動を伴う動詞だろう、と。ならば、「ロシアより」の「より」が「from」でもおかしくない(原題を知らないが)。

それに引き換え、この「バスルームから愛を込めて」は曲の内容が「やっぱりあなたとは別れることに決めたわ」とかそんなようなことである。おそらく、風呂から恋人を撃ったりはしないだろうし、内容から考えても、「決心した」とか「思う」とかそういった類の動詞が省略されているのだろう。だとすると、「from」より「in」でいいのではないか。それに、60〜70年代の曲だとすれば(あくまでも推定)、英語が得意だった作詞家も少なかっただろうから、コーラスの一節くらい、「から」をそのまんま英訳してしまった可能性も高いのではないか。

私は、大学で、国語学〜日本語に関する学問〜を専攻した。古典から現在に至るまで、「省略」は、ほぼ単一民族であった日本人が、同じ土壌の上に立っていたことを示す典型的な特徴の一つである。試験問題でも「ここに省略されていることは何か」という問題が成立するくらい、あらゆる文章には省略が用いられている。そして、なにが省略されていようとも、文の前後を読めば、省略した内容などすぐに読み取れるというのが当然の認識であった。

おそらく、「バスルームより愛を込めて」の時代の人も、そうだったのであろう。しかし、今はどうだろうか。すべての人が省略の内容をきちんと把握してくれるのだろうか。もしかしたら、省略したい内容まできっちり説明しないと、わかってもらえない時代が来たのではないだろうか。

こんなつまらない議論から始まったことであったが、現代日本人の「共通の土台」の崩壊を目の当たりにしたような気がして、わたしは背筋が凍る思いがした。

 

 

って、ちっともコネタじゃないですね。ごめんなさい〜

back