前年と違ってこの年は新入部員が2人と非常に少なく、また1個上の代が卒業したこともあって、部員数が大幅に減ってしまった。卓球台は相変わらず5台しか使えない状況であったため、台が空くのを待つ部員が多数いるような状況も減ったが、やはり部員はもう少し多い方が良かったなと感じた。
<東京都中学生卓球大会(城南ブロック)>(5月)
あまり良く覚えていないが、前年K谷さん・A野さんが活躍したおかげで、個人戦・ダブルスとも1回戦はシードだった気がする。唯一といって良い対外戦でのまともな結果だったと思うが、I田と私とのダブルス、私個人の両方で一応城南ブロック予選を勝ち抜き、都大会2回戦まで進めたように記憶している。
<ケガ>
卓球とは全然関係ないが、この年6月に小学校の同窓会に参加した。バスケットボールをやることになったのだが、不注意で左足首を捻挫してしまった。たかだか捻挫と思う人もいるかもしれないが、この時の捻挫は全治2ヶ月とかなり重症であり、卓球部の活動にも大きく支障をきたしてしまった。キャプテンという皆を引っ張る立場にありながら、練習に参加できず、コーチに徹したこともあった。スポーツにケガはつきものだが、生まれて初めてケガの怖さを味わった。
<夏合宿> 於 大洋スポーツセンター(大網)
前年の合宿では、宿舎と体育館がかなり離れていて、夜練習ができないなどのデメリットがあったため、一昨年と同じ大洋スポーツセンターで行われることとなった。また地獄のような合宿になるのかなと思っていたが、一昨年とはコーチ陣が大幅に入れ替わったこともあり、地獄の田んぼ道ランニングといった練習は行われなかった。
この夏合宿に私はキャプテンとして声を出して引っ張ることを意識して臨んだ。日頃の練習から意識していることではあったが、夏合宿はいつも以上の緊張感を保って練習に取り組めるよう、全体に目を配るようにしていた。自分がケガしていたこともあってか、体調が悪そうな人はすぐに分かるようになった。逆に体調が悪くないのにサボっている人には厳しく注意したりしたこともあって、煙たがられていたことも少なくなかったと思うが、ケガを通じてまた1つ成長したのかもしれない。
しかしケガが完治していなかったこともあって、プレーは精彩を欠いたように思う。毎年恒例のトーナメント戦では、下級生有利のHDCPが設定されるが、次期キャプテンとなるT川との準決勝ではHDCPがなくても負けていたような内容だった。HDCPがある以上、3年生の自分が優勝してしまうようなことはあってはならないと思っていたが、「HDCPがなくても負け」みたいな試合はキャプテンとしてやってはならないことだったように思う。
そんなこんなで色々至らないところもあったが、合宿の最終日の夜に行われる表彰式ではコーチからMVP賞をいただいた。1年、2年の頃はトーナメント優勝の賞品をもらってそれなりに嬉しかったが、今振り返ればこのときもらったMVPはそれ以上に嬉しかった。特に結果を出したわけではないし、MVP賞は毎年合宿で部員をとりまとめた人間に贈られるものであったから、キャプテンの自分がもらえたのはごく自然なことだったのだろうが、部員を引っ張ることの難しさを痛感していた自分にとってはこのMVP賞は素直に嬉しかったし、ちょっとは報われた気がした。
<私学戦>(8月)
1年の時は1回戦負け、2年のときは2回戦負けと冴えなかった。この年は3年生として、キャプテンとして最低でも5回戦か6回戦くらいまでは勝ちたかったが・・・。結果は3回戦負け。冷静に考えて実力が足りなかったのだろう。この大会をもって公式戦を引退することとなり、9月からはT川新キャプテンによる新体制の下で練習が行われた。
<全塾戦>(3月20日)
気がつけばあっという間の3年間だった。卒業式が終わって翌日か翌々日に全塾戦が行われた。引退して半年も経過しており、卓球そのものから離れていたので全く自信はなかったが、最後の記念にと思って参加した。「後輩達は自分のいない間にうまくなったんだろうな、勝てなくてもとにかく最後だから卓球を楽しもう」と気楽に考えていた。
この年はライバル校である普通部が不参加だったが、その代わりに幼稚舎の卓球部が参加していた。幼稚舎の卓球部顧問のO谷先生には何度か中等部に来ていただき、卓球を教えていただき、大変感謝している。だが、幼稚舎はさすがに小学生なので中等部生の中には油断している人もいたし、21点中8点HDCPがあるとはいえ「幼稚舎生に負けたら恥」と思っている人も少なくなかった。自分もその一人だった。しかししかし。2回戦で同期O崎が幼稚舎生に討ち取られたのを最初に、次々と中等部生が幼稚舎キャプテンのT野君に討ち取られていく。気がつけば彼は準決勝にまで駒を進めてきた。一方の自分は後輩相手に全然自信がなかったはずだったが、後輩のプレーの癖はまだ覚えていたらしく、弱点をひたすら攻めまくって何とか準決勝まで残ることができた。準決勝のカードはT島(3年)VST川(2年、キャプテン)、T野君(幼稚舎キャプテン)VS私となった。
1セット目は私のサーブにT野君が戸惑っていたこともあって、8点のHDCPがあった割にはかなり余裕で取ることができた。しかししかし。彼は非常に学習能力が高く、段々と私のインチキサーブ(見せ掛けだけで実は回転が弱い)に慣れてきたこともあり、自分のサーブの時に5点または4点取ることができなくなった。それだけなら良いが、彼の放つサーブで1つだけうまく返球できないサーブがあり、それを見抜かれたらしく、途中から徹底してそのサーブで攻められてしまい、彼のサーブ権の時に5点全部取られたりするなど、2セット目は明らかに相手ペースだった。途中何度か負けを覚悟した場面もあったが、何とか意地を見せて2セット目は21対19で辛勝。一応セットを落とさず勝つことができたが、内容的には全然勝った気がしなかった。そのせいか、決勝進出を喜ぶ、というよりも、小学生相手に危ない試合をしてしまい、何とか1セットも落とさずに済んでほっとした、というのが率直な気持ちであった。
もう一方の準決勝T島ーT川戦は自分の準決勝が終わってから行われた。私としてはT島と決勝戦をしたかった。サーブのバリエーションの少なさをはじめ、T島の弱点は知り尽くしていたし、引退した私にとって現役バリバリのT川キャプテンに勝つ自信がなかったこともあるが、とにかく同級生のT島に決勝まで勝ち上がってきてほしかった。そこでこの準決勝はT島を応援することにした。
個人的に一つ残念だったのは、現役のみんながT川を応援していなかったことである。T川キャプテンがみんなから信頼されていなかったという意味では決してないが、途中で負けてしまったみんなは、後の試合は興味なし、みたいな人が多かった気がする。私が1年の時の夏合宿のトーナメントでは「自分が負けてしまったら、自分に勝った人を応援しなさい。そしてその人が負けてしまったら、今度はそこで勝った人を応援しなさい」と教えられたものであり、それは自分がキャプテンの時にも合宿等で教えてきたはず・・・。それなのに2年生以下の人にはそういう応援精神がないのかと思うと、非常に残念だった。T川にしてみれば自分への応援の声がなくてやりづらい試合だったことだろう。
ひたすらT島を応援した甲斐があってか、T島はT川を破って決勝に進出してきた。前年T島が準決勝で負けてしまって実現しなかったT島との決勝戦をすることができた。とにかく楽しむつもりだった。
しかし決勝の内容は非常にお粗末だった。お互い引退した身だったということもあるが、とにかくスマッシュの精度が低く、「打てばはずす」を繰り返し、挙句の果てには「打てばはずす」ことが分かっているから、わざと挑発的にチャンスボールを相手に返球したりしていた。ギャラリーには見苦しい試合だったことだろうが、お互いチャンスボールを返球し合う流れの中で先に我慢できずに暴走したのはT島の方だった。そんなこんなでT島にも1セットも落とさず2−0で勝ち。
試合前は全然勝てる気がしなかったのだが、気がつけば何と2年連続で1セットも落とすことなく優勝してしまった。高校入学前の良い記念になって非常に嬉しかったが、後輩達にはもっと活躍してほしい気もした。
<3年間の卓球部生活を振り返って>
3年間の卓球部は長かったようであっという間だった。キャプテンとしては色々と至らないことも多かったが、非常に多くのものを学ぶことができたように思う。純粋に卓球を楽しむ気持ち・キャプテンとしての部のとりまとめ、効率的な練習方法など、書けばキリがないが、肉体的にも精神的にも成長できた点は多かったように思う。
高校・大学時代には卓球部こそ入らなかったものの、体育の授業をはじめ、友人と卓球をする機会が結構あったりして、卓球部時代の経験が活きることも少なくなかった。
<コーチとして>
大学2年・3年の頃には中等部卓球部にコーチとして卓球を教えに行ったりもして、すごく楽しかった。スポーツは基本的にみな共通して言えることかもしれないが、ちょこっとフォームやコツを教えるだけで、みるみるうちにみんな上達していくのが分かる。コーチとして、すくすくと後輩達が目に見えて上達していく姿を見るのは非常に気持ちがいい。たかだか5泊6日の合宿でも、合宿参加前と参加後では全然実力が違う。今にして思えば、現役の頃よりもコーチをしていた頃の方がやりがいを感じていたかもしれない。
総じて振り返るとやはり卓球部に入って良かったなと思っている。社会人になった今となっては普段はあまり卓球をする機会がないのだが、機会があればまた是非卓球をしてみたいと思う。
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