北村六郎左衛門

弓河内北村富蔵家系図によれば、第一代を岡中務という。
越前国榊田に於いて知行三千町歩を領し、元弘建武の兵乱には新田の麾下となり
ついに滅亡した。この時流浪して因州八上郡北村に来て住みこれより
農業に従事し当郷の長となる。しかしいつか成するところがあろうと
時代の推移をうかがっていたが老衰して入道した。
近郷の人は北村入道といっていた。姓を岡村とかえたが、現に村人は
この屋敷を岡村屋敷といっている。長男を岡掃部といい、
次男もまた同名であった。次男の嫡子を岡弥四郎という。前には中務といい、
のち六郎左衛門という。これが代三世である。大正のころ、秀吉当国攻略の時、
郷民大半、毛利家へ志を通じていたが六郎左衛門は信ずる所あって当郷の
百姓を秀吉へ一味せしめ、釜口に迎えて先駆をなし、一揆を追って
通過の道を開いた。そののち、鹿奴城に亀井新十郎、鳥取に宮部法印がおり、
大阪城より毎年鹿奴へ城代が来る。ある時城代の交替があった。
前城代は帰路用瀬に至る路すがら、郷民が蜂起して道をさえぎった。
若桜の荒木氏が出てはじめて一揆は退散した。この事を聞いた
北村六郎左衛門は直ちに手勢百四十五人を連れ、たい松をたくさんともさせ、
鹿鎗、そぎ竹数十本を持たせ、一揆を追い退け、城代を自宅へ一拍させた。
百方意をこめて歓待したので、ことのほか満足され、引出物をもらった。
それから国境まで送った。
その後、六郎左衛門は大阪まで召し出された。数度の働き神妙のゆえをもって、
秀吉の家来に召し抱えるということであったが、近辺にならびない
富豪であったので辞退した。これによって永代国役を命ぜられ、
宅地は免地となり、永代安堵の品及び感状をもらった。
河原町史より
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