―疵―


水音は嫌いだ。
全てを無くした夜を、思い出させるから。
流沙河の畔で、凍える体を抱きしめて眠ったあの日を、
疼く傷跡が―――忘れさせないから。





<SIDE A>

 瞼を押し上げると、ほの暗い薄闇しか見えない。
 いつものように立ち寄った村の、宿屋。いつもと違ったのは、その裏手に位置する川のせいか。辺りは静寂に包まれているというのに、耳から離れないその音が、悟浄を現世に留めさせていた。
「眠れませんか・・・?」
「ん?・・・あぁ・・・」
 薄暗いながらも、八戒がこちらを向いていることが判る。
 その声は明瞭で、彼がまだ一度も眠りに落ちていないことが伺い知れた。二人が床に入ってから数時間が経つというのに。
「わりぃ、起こしたか」
「いいえ。僕も、眠れませんでしたから」」
「そう、か」
 彼が眠れない理由は、おそらく自分だ。この部屋に案内されたときから感じ始めた、奇妙な不安定さを彼も気付いたのだろう。
 躰の内側に爪を立てられるような、感覚。
 胸の奥がざわつき、全てを吐き出したくなるこの、衝動。
 しかし、それを他人に見せることも、ましてや暴かれることも自分は許さない。
 他人の前では虚勢を張ってでも生きてきた。
 弱い自分は、あの時捨て去ったはずだから。
 胸の内は、悟らせない。
 全ては水底へ。
 嘘で固めて、顔は笑って。
 決して、誰にも踏み込ませない。
 そうやって自分を支えてきた。生きてきた。
 それはそう、短い時間ではない筈だ。なのに今夜は・・・
「なぁ」
 沈黙が息苦しくて、これ以上考えたくなくて、壁と向き合うように寝返りを打ちながら静寂を破る。
「こっち・・・こねぇ?」
(我ながら下手な誘い方)
 そうは思っても、このまま気が狂いそうな夜を過ごしたくなくて、八戒がノってくるのを待つ。
「誘って、くれているんですか?」
「そう、聞こえねぇ?」
「いいえ」
 僅かに笑いを含んだ声の後、ベッドの軋む音がする。
(あぁ、やっぱり・・・)
 こいつは解っている。
 解っていて、何も言わない。
 狡いくらい、優しい男。
 傷は、等しくこの男をも苛んだのに。
「八戒」
 覆い被さってくる男の背に手を回し、目を閉じたままで、囁く。
「今夜はもう、眠りたくねぇ」
 えぇ、そう応えながら八戒の口付けは次第に深くなってゆく。
「大丈夫。何も・・・僕のことしか、考えられないようにしてあげますよ」
「頼むわ」
 只もう、快楽だけが見えない不安を流し去ってくれることを願って、躰の力を抜いた。





<SIDE B>

 いつになく、あの人の様子が不安定で、気に障った。
 弱いくせに強がって、それを本当の自分だと思いこもうとしているあの人は、僕から見れば滑稽で、だけど何だか悲しかった。
 悟浄は気が付いていない。
 水の音を聞く度に、自分の躰が一瞬竦んでいることを。
 川の側で眠るときは、決まって誰かと過ごしていることを。
 一人でいることが、何故そんなに不安を駆り立てるのか、あの人は応えてくれないだろう。
 だから、僕も訊くのを止めた。
 悟浄の体が竦む度に、逃げ場を探すように人肌を求める度に、沸き上がる感情。
(そんなに苦しいなら、全てを吐き出してしまえばいいのに)
 でも、僕に受け止めることが出来るとは思わない。
 悟浄も、一度吐き出してしまったらきっと、元には戻れない。
 多分今の彼では壊れるのが関の山だろう。
(いっそのこと、僕が壊してあげましょうか?)
 何度出かかったか知れない、その言葉。
 お互いに染みついたのは、肉親の血の色だ。
 目に見える傷は大したことがない。ただ、精神の傷はいつまで経っても、多分一生、癒えることはないのだろう。
 ――僕も、彼も。
「眠れませんか・・・?」
 欺瞞だ。
 そう思いつつも、声を掛けずにいられない。
 いや、放って置いても悟浄の方から口火を切るだろうから、このきっかけは僕が望んでいるものなのかも知れない。
「わりぃ、起こしたか?」
「いいえ。僕も眠れませんでしたから」
 嘘だ。彼は僕が眠ってないことを知っている。
 でも、そう言わずにいられないのが、彼の弱さだ。
 暫しの沈黙。
 真綿に包まれたような静寂は、息苦しいほどで。
 我ながら意地が悪いと思いつつも、彼の言葉を待つ。
「なぁ・・・」
 ほら、来た。
「こっち、こねぇ?」
 相変わらずの誘い方。
 水音が聞こえる場所で、彼は本来の自分に戻ってしまう。
 話の拙さが、それを示している。いつもからは、考えられない、誘い方。
「誘って、くれているんですか?」
 軽い皮肉だ。
 悟浄も、自分の誘い方の不自然さに気が付いているようだ。だから、態と言葉にする。
「そう、聞こえねぇ?」
「いいえ」
 不意に零れたのは嘲笑か。
(僕は、彼を支えてなんかやらない)
 キズを舐め合うくらいなら、してやってもイイ。
 利用するなら、すればいい。
 それはお互い様だから。
「八戒」
 悟浄の上に乗り上げ頤を掴めば、目を閉じたまま告げる。
「今夜はもう、眠りたくねぇ」
 悟浄の口腔を嬲りながら、心にもないことを言う。
「えぇ、大丈夫。何も・・・僕のことしか考えられないようにしてあげますよ」
「頼むわ」
(本当にそうだったら、どれだけ救われたことでしょうね)

 背中に回された悟浄の腕が、躰の内側に見えないキズを残した。




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