【 まだ見ない朝焼け 】
悟浄は、歩いていた。
足元は先日から降り続いた雨でぬかるんでいたが、体重移動と足の置き方に気を付ければ、どうということもない。だがそれも、気を付けれていれば、という前提で。
「お疲れ様でした」
「………」
八戒の声に無言で返すと、悟浄は差し出されたカップを受け取り、一息に飲み干した。僅かなステンレスの臭いが、口の中いっぱいに広がるようで、悟浄は更に眉を顰める。悟浄の愛用のマグカップなら、こんな味はしない。口に含んだコーヒーは、淹れ立ての美味さなんて欠片もない。
ここはまだ屋外で、手渡されたのはステンレス製携帯ポットのカップ兼フタで、辛うじて雨は止んでいるものの夜明けとは程遠い時間帯なのだ。
「俺さ、」
「はい?」
「今、本気でお前のこと殴りたくなったわ」
いっそ投げ捨ててやろうかと思ったカップをぐっと握り締め、どうにかその衝動を堪えた。実行したら、後二十年はねちねちと「無くしたステンレスポットのフタ」について語られ続けるに違いない。それだけは避けたい。しかし、このやるせない感情は如何ともしがたいのもまた事実で。
どうしてですか、という風に首を傾げた八戒の顔と思しきあたりを、悟浄はぐっと睨み付けた。
「雨降ったばっかりでぐっちゃぐちゃの山道登らされて、瓦礫の山ン中火事場泥棒みたいに掘り返して、やーっと目当てのモン見付けたら野犬に襲われて、どうにかこうにか帰ってきたら『お疲れ様でした』だぁ?」
「あぁ、それで…」
八戒は、夜目にも黒く濡れた悟浄の服を一瞥すると、気の毒そうな顔で呟いた。
「帰ったらお風呂と洗濯ですねぇ」
「違ぇーだろっ!」
ガン、と音がして銀色のカップが転がって行く。しまった、と思った時にはもう遅く、カップは八戒の靴先に当たって止まった。
「じゃぁ……『ご苦労様でした』?」
「なんで俺が格下にならなきゃなんねーんだよっ!」
瞬発的に怒鳴り返した悟浄の顔を、八戒は指先をカップへ伸ばしたままの姿勢で見上げた。
「……よく違いがわかりましたね」
「馬鹿にしてんのか」
「滅相も無い。純粋に感心してるんです」
「………尚悪いわ」
悟浄は肺の空気全部を搾り出すような溜息を吐くと、その場にしゃがみ込んだ。
そうすると、間近に迫った膝頭に付いた泥のシミが、嫌でも目に入る。その僅かに湿った感触が、余計悟浄を惨めにさせる。
「いいよ、いいよ。どーせ俺一人が悪いんだよ。気が進まないのに三蔵の依頼を受けたのも俺。こんな夜中に山登りしなきゃならんような時間に出たのも俺。お前を置いて一人で寺まで行くって言ったのも俺。腹空かした野犬に襲われたのも避けた拍子にコケて泥だらけになったのもぜーんーぶ、俺のせいー」
三蔵の依頼を受けるのは二人で決めたことだし、時間の目測を誤ったのは、悟浄のせいだけとは言えない。「ちょっと見てくるから」と暗い山道を一人で行ったのは確かに悟浄だし、それが右目の視力が殆どない筈の八戒を気遣ってのことだというのは、当の八戒にも薄々バレていた。流石に、野犬の出現までは予測していなかったが……。
「悟浄……」
「もー、ヤダ。三蔵の依頼なんぞ、金輪際絶対に受けねぇ。あんな生臭坊主に睨まれようが撃たれようが知ったこっちゃねぇ。ぜーったい、受けねぇったら受ーけーねーえー」
実は、三蔵からの依頼はこれが初めてではない。数度に渡る面倒な雑事は、結構な金額の報酬を悟浄の家にもたらしていた。それが人間社会に適応しきれない二人への、せめてもの心積もりだということに気付かぬ程愚鈍ではない。だがそれを、素直に受け入れてしまうには、自尊心というものが邪魔をする。これまでどうにか一人で生きてきた身には、他人に飼われるようなこの状況に甘んじることが出来ないのだ。
「もーさぁ、どっか行っちゃおうかなぁ。このまま」
仰ぎ見れば、雲の隙間に星が見える。
「財布にゃ小銭っきゃ入ってないけど、身一つあればどうにかなるし。ってか、どうにでもできるし。適当に歩いて、適当なトコに部屋借りて、前みたいに適当に生きて」
「僕は?」
「……お前も一緒で。」
返答が一瞬遅れたのは、二人でいるリスクを考えたのではない。ただ単に、八戒がそんな生活に着いてくる筈もなく、そんな自分を止めるものと思い込んでいたせいだ。
「それもいいかもしれませんねぇ」
「なに、ホントに着いて来るの?」
「いけませんか?」
「いけないってことはないけど……」
泳ぐ目の先には、相変わらず星しか見えない。こんな相手の顔さえ満足に見えない真っ暗な山奥で、夜逃げ同然の話をしているという時なのに、星だけは静かに瞬いている。
静かな煌きは、あれだけ騒いでいた心さえ静めるようで、知らず悟浄は己の懐を探った。
その指先に触れる、確かな感触。
「いいじゃありませんか。僕ら二人いれば、大概のことはどうにかなりますよ?きっと」
「……違ェーねぇ」
笑えばパラリと、乾いた土が零れ落ちる。
体温のせいか、濡れた感触は幾分マシになっていた。時間が経てば、嫌でも変化する。それは良いことも、そうでないこともある。それを決めるのは、あくまでも自分でしかない。
そう思った時に、不意に八戒の顔が目に入った。目が慣れたせいかと思ったら、その後ろにある空の色が紫を帯びていることに気が付いた。
太陽が昇ろうとしているのだ。
悟浄は小さく笑うと、反動をつけて膝を伸ばした。
「じゃ、資金作りの為にも三蔵のトコ行って、これ渡してこようぜ」
懐中から覗かせたのは、木製の小さな仏像だ。三蔵からの依頼は、先日の山津波で埋もれかけた廃寺からこの仏像を取ってくることだった。これにどれだけの価値があるのかは、悟浄には解からない。それでも、態々金を使ってまで人を雇うには、それなりの理由があるのだろう。地盤の緩みや山河の獣を考慮に入れたのだとしても、「人間である」僧たちではなく「妖怪である」悟浄と八戒に頼むのだから。
「では、帰りますか」
八戒は立ち上がり、保温ポットの蓋を閉めた。悟浄は元通り、仏像を懐に仕舞う。
頼りない木片にどれだけの救いがあるのかは知らないが、掘り起こした位置から考えても、これはあの寺の本尊だったはずだ。こんな木切れが、多くの人々の祈りを集め、静かに見守ってきた。
それはあの、星々にも似て。
「風呂にも入らなきゃだしな」
差し出される手はなくとも、共に歩くことは出来る。
そして。
暁の星が輝く方へと、悟浄と八戒は二人、歩き始めた。