【 夢の名残 】
『悟浄がね、二人いるんですよ』
バサリという音と共に、冷気が服地を通して肌に突き刺さった。
この時間、平素ならば頬を切り裂くような凍てつく空気も、家の中では僅かにぬるまる。だがそれも、ほんの僅かでしかない。
明かりどころか暖房も落とした冬の寝室は、刻一刻と冷えていく。漸く温まった布団に入っているから我慢できるようなものの、肝心の布団を剥がれたら堪ったもんじゃない。
悟浄は一斉に粟立った鳥肌を宥めながら、薄目を開けて隣を見た。
案の定、そこには半身を起こした八戒の姿がある。薄暗い上に角度が悪くて表情までは見て取れないが、八戒は暫く自分の両手を見詰め……その掌で顔を覆った。
その様子を黙って見守りながら、悟浄は「またか」と思う。
また、八戒は嫌な夢を見て、夜中に飛び起きた。
別に初めてのことじゃない。これまでにも幾度かあったことだ。
この家に来たばかりの頃も、一緒に眠るようになった後でも。
八戒は、夜中に目を覚ました。
人の気配に敏感な悟浄は、その度に起こされる。
だが、悟浄はその多くを狸寝入りでやり過ごしていた。勿論、始めの何度かは律儀に声を掛けてやっていたのだが、その度に八戒は申し訳なさそうな顔で謝った。泣きそうに歪められた顔。痛みに引き攣れた顔。そんなものを押し隠して、八戒は悟浄に謝ったのだ。
そんな顔を見たくなくて、悟浄は遂に気付かぬふりをした。無論、平素の八戒になら安易な狸寝入りなど見破られただろう。だが、幸いにして八戒の状態も普通ではなかった。悟浄が黙って寝たふりをしていれば、八戒も悟浄を起こさずに済んだことに安堵し、再び眠りについたのだ。
それから悟浄は、気付かぬふりを続けた。
八戒が悪夢から引き戻される回数は、時を経る毎に減っていく。今では忘れた頃にやってくる程度でしかない。それは八戒が、自分の傷を癒している証拠でもある。いや、たとえ癒されなくとも、八戒がそれを乗り越えていこうとしているのならば、問題はない。
だから悟浄は、寝ているふりを続けた。
いつか八戒が、安らかに眠れる日まで。
いつか自分が、彼の気配に慣れ、本当に眠り続けることが出来るようになるまで。
しかし今日は、そうも言ってられない事情があった。
何しろ起き上がった八戒は、一緒に布団まで捲くってしまったのだ。必定、悟浄の肩口も急速に熱を失っていく。
寒い。寒過ぎる。
このまま寝たふりを続ければ、明日の朝には確実に鼻を垂らす結果になるだろう。
だが、寒さに負けて布団を揺すり上げれば、悟浄が起きたことが八戒に知れてしまう。
このまま、待つか。
それとも。
しかしその逡巡も、長くは続かなかった。結局寒さに負ける形で、悟浄は八戒の方へと寝返りを打った。
「……どうした」
さも、たった今目を覚ましたとでもいうように、少しだけぼやけた声を作り出す。すると八戒の肩はぴくりと動き、恐る恐る悟浄の方を振り向いた。その、首の筋肉の動きを、冷めた目で観察する。
「………起こしちゃいました?」
「別に」
搾り出すような声が、予想通りの言葉を紡ぎ出す。返す答えも用意されたもので、悟浄は何気ない風を装って掛布を肩まで引き上げた。
「まだ起きるにゃ早いだろ。お前ももう少し寝ろよ」
幾度となく繰り返された問答だ。次の言葉も解っている。八戒は「そうですね」と言って、「すみませんでした」と謝って……。
「悟浄が」
「は?」
「悟浄が、二人いるんです」
「………なんだそりゃ?」
意外なことに、八戒の言葉は悟浄の予想を裏切っていた。だが、自分が二人いるとはどういうことか。疑問に困惑しかけた悟浄の耳に、また、八戒の言葉が触れた。
「夢、で。悟浄が二人いるんです。二人とも崖にぶら下がってて、僕はその崖の上にいて、悟浄を助けたいのにどちらかを助ければその間にもう一方が落ちて死んでしまうという状況で」
「そらまた、ベタな夢で……」
何で夢の中で心理テストなんだ。そう出かけた言葉をぐっと飲み込み、悟浄は天井を仰ぎ見た。煙草のヤニで薄汚れた天井には、羽を広げた蝶のような模様があった。それを頭の片隅で数えて、気を逸らす。悟浄流の、感情を表に出さない為の方法だ。
「で、どっちかが偽モンなわけ?助けると自分がバッサリ、とか」
八戒は、ゆっくりと首を横に振った。
どうせなら片方が八戒の姉だったら良かったのだ。それなら八戒も、迷うことなくそっちを助ける。下手に自分が二人だから性質が悪い。
悟浄はまだ蝶を数えながら、口元を僅かに歪めてみせた。しかし八戒の視線は、再び自分の手に向いたままで。
「いいえ、どちらも、間違いなく本物の悟浄なんです。だから僕は、どちらを助ければいいのか判らなくて……」
「俺は二人で崖下に落ちました、と。」
メデタシメデタシ。そう続けようとした悟浄の前で、再び八戒が首を横に振る。
「落ちませんでしたよ」
「……なんで」
「その前に、目が覚めちゃいましたから」
だったらなんで、あんな形相で飛び起きてんだ。そう出かけた言葉を、また無理矢理飲み込む。今日はよく言葉を飲み込む日だ。消化不良にならなきゃいいが。
「んじゃ、尚更OKじゃん」
「……ですよねぇ」
落ちるところを見てないなら、もしかすると二人とも助かっちまったってこともなくはない。八戒もそう思ったのだろう。少しだけ表情を緩め、苦笑していた。
「大体俺がそうそう死ぬようなタマかっての」
「それもそうなんですけど」
でも……と、八戒はまた、自分の掌を見る。
「僕はやっぱり悟浄を助けたくて。どちらかを切り捨てることなんて出来なくて。そうしたら、僕にはもう、一つの方法しか頭に浮かばなくて……」
「……どんな?」
聞きたくない。
そう思いながらも、聞かずにはいられない空気が、二人の間を満たした。
「………僕も、一緒に」
「八戒」
唐突に、悟浄は八戒の言葉を遮った。
「寝よう。手、握っててやるから」
あんな言葉、一言で十分だ。悟浄は掴んだ八戒の手ごと、布団の中に引き摺り込み、枕に頭を乗せ直した。
バランスを崩し、残った手で体を支えている八戒の顔が、思いの外近くにある。
その目を、真っ直ぐに見て。
「また同じ夢見ても、手ぇ握ってる方しか助けらんねぇだろ。覚悟しとけ。俺はどうあっても助かるから」
掌の熱は混じり合い、二人の境がなくなっていく。
いっそ本当に、溶けて混ざってしまえばいいのに。
悟浄は埒もないことを考えながら、目を閉じた。
元はラブラブだったって言ったら、誰か信じる?