『 あなうれしや旦那さま… 』
「なんですか、ソレ」
天蓬は窓枠に寄りかかったまま、眼下を埋める黒衣の人物を見下ろした。
「ん?いや、単に思い出しただけ」
咥え煙草のまま口端を上げた男をの顔は、皮肉げに笑っているようだ。
公的な立場で言えば上司に当たるこの男は、色事にばかり長けている印象を与える。無論、それは間違いようのない事実なのだけど。
あなうれしや旦那さま 吾が身に受けたるその情け
月の満ち欠け数えれば 朧になりし想ひとて 散る花よりも現ごと
なればこそあれ 忘れじや ああ忘れじや……
「戯曲…ですか?」
「さぁ?」
「さぁって貴方……」
呆れた声音を投げかけならも、それも捲簾らしいと思考の片隅で納得していた。
捲簾とて、物覚えが悪い訳ではない。寧ろ記憶力はこの自分でさえも感心するほどに、卓越している。
無駄なまでに詰め込まれた、軍部内に留まらぬ数多の人物データ。基礎から応用に至るまでの戦術。そして人界に関る、様々な事象。
天蓬が文字でしか知らないようなことも、この男は肌で知っている。その身体に刻まれた傷のように、肌で知り得た事は決して忘れることがない。
だからこの歌も、彼がその耳で聞いてきたものであろう。……恐らく、自分の預かり知らぬ下界で。
「多分どっかで聞いたんだろ。耳に馴染んでるから」
案の定、捲簾から返された言葉は、天蓬の予想の範囲内だった。
捲簾は片手で灰皿を引き寄せると、指先を焦がしそうなほどに短くなった煙草を押し付けた。そして流れるような動作で懐から新たな一本を取り出すと、再び薄い口唇に挟む。その手に、ライターはない。
「これ聞いたときにさぁ……あ、ワリ」
どうしてこの人は煙草と一緒にライターを入れておかないのだろう。そう思いながら、天蓬は己の白衣のポケットから取り出した黄色いプラスチックのライターを、その頭部へと投げ落とす。すると捲簾は一応の侘びを入れ、煙草に火を点けてからライターを元の……天蓬の白衣のポケットへと入れて返した。
奇妙、だとは思う。見てもいないのに、捲簾は正確に元の場所へとライターを入れてよこしたのだ。白衣には3つもポケットがあるのに。
(野生の勘ってヤツですか?)
ただ単に、左のポケットが捲簾から一番近い位置にあったからかもしれない。そもそも右利きの自分がライターを入れるとしたら、確率的に一番高いのが左のポケットだ。勘などではない。理論と経験に裏打ちされた、結論。
だがこの男は、勘という言葉を隠れ蓑に他人の評価を捻じ曲げている。
それが、どういう理由から為されているのか、今の自分には判らない。
まだ出会ったばかりの、自分には……。
「怖いと思ったわけ」
「はい?」
間抜けな声で聞き返してしまったことを失策だと思う間もなく、捲簾から同じ言葉が繰り返された。
「怖いだろ?たった一度相手にした女がさ、いつまで経っても自分のことを覚えているわけだよ」
「はぁ……」
彼の持つ危機感が、今一つ掴めないままに、相槌を打つ。捲簾は特に気分を害した風もなく、続けた。
「いつまで経っても俺じゃない俺がそいつの中にいるなんて、ゾッとしねぇ?」
時間と共に美化される空想劇。女の中で自己増殖を繰り返したソレは、オリジナルと同一の物である筈がない。
なのに、女にとってはそれが真実男を示すものなのだ。
縋るものすらない地獄での、蜘蛛の糸より細い光明。恐らく元はそんな、花街の女にとっての希望を示した詩なのだろうが。
「怖い…ですねぇ」
「だろ?」
怖いのは、自分が捻じ曲げられることに対してだろうか。それとも、他人の記憶に生き続ける事にだろうか。
捲簾の言葉は、どちらとも取れる。
だからこそ、天蓬は追求するのを止めた。
「そんな女性がいたら、貴方のことだから早々に無理心中を強要されそうですね。月のない夜の散歩には気を付けて下さい」
「いや、そんな女は遠慮したい……じゃなくて、お前何気に俺の女関係が汚いと思ってるだろ!」
「違うんですか?」
「少なくとも、相手は選んでるよ……」
力なく返答した捲簾の様子に、我知らず微笑が浮かぶ。
(嘘吐き。)
選んでいたら、今頃西方軍になんていなかったでしょうに。
僕に逢うこともなく、東方軍で無能な上官に適度に虐めまわされて、遠征回数が二桁行かない内に特攻かなんかで派手に散らされてたでしょうよ。
そう、甚だ相手に失礼な想像をして、天蓬は溜飲を下げた。
捲簾に対して不幸な仮定形過去を捏造するのは、ここ最近覚えた楽しみの一つだ。
凡その軍師にとって、捲簾とは扱い辛い駒でしかない。自分の立てた策を無視された挙句に、確実に勝利をもぎ取ってくる彼を煙たく思わぬ輩はそう多くないだろう。作戦の無視は、自分の無能を問われているのと同じ事だ。まぁ、天蓬にとっては彼らの無能は疑うべくもないことなのだが。天蓬が捲簾を気に入った理由の一つに、彼が作戦を確実に理解し、その上で様々な条件をシミュレートした結果一番リスクの少ない方法で実戦に望んでいるという事実があった。
彼が自分の策に素直に従うのは、それが彼にとっても最上の作戦と認めた場合だけだ。そう気付いた瞬間、ゾクゾクとした快感が天蓬の背筋を駆け上がった。
これはゲームだ。
地形に気象条件、敵の戦力。刻一刻と変化する戦場の状況を読み、策を立てる。駒が自分の思い通りに動いてくれれば、勝ち。単純過ぎるゲームは、だからこそ彼としか楽しめない。
そう思ったからこそ、天蓬は自軍を捲簾へと譲り、自分はその軍門に下ったのだ。捲簾の動かせる駒が多い方が、楽しいから。
「……ナニ?」
不意に捲簾の黒瞳と視線が合い、天蓬は初めて自分が彼を見ていた事に気が付いた。
「心配でもしてくれる?」
目を細めて笑う捲簾の横に改めて座り直しながら、天蓬は灰皿を引き寄せる。
「誰が。少なくとも、新しい大将を探すのが面倒だからせいぜい致命傷だけは避けて下さいね……くらいの感情しか持ち合わせてませんよ」
「冷てぇ……」
くしゃりと前髪を掻き回してぼやく捲簾の顔は、この位置からでは見えない。
天蓬が捲簾に抱いているこの感情は、征服欲だ。
その自覚は、ある。
「相手を選んでるんなら、そんな面倒も起こらないでしょう?」
「起こったからここにいるんじゃねぇのか?」
「……それもそうですねぇ」
否定しろよ……という捲簾の言葉を無視し、天蓬は一番近くにあった本を手に取った。
この感情の発露する先は、いずれ変わるかもしれない。その時が、終局だろうか。
「怖い……ですねぇ」
「そうそう。女は怖いってぇの」
見当違いに頷く捲簾をクスリと嗤い、天蓬は肺を紫煙で充たした。
この自分に恐れるモノが出来るなんて。