● それすらも愛しい日々 ●




 身長184センチもある大男が足音を殺してそろりそろりと歩く様は、ある意味コメディである。
 当の本人にとってはその姿を客観的に見る機会はないのだから、それがどんなに面白おかしくても気が付く事もないのだろう。だからといってそれを気付かせてあげるような親切な忠告をする者は、残念ながら彼の知人にはいなかった。
 そう、彼はこの数ヵ月の間4人で旅をしている。にも拘わらず、彼には忠告者がいないのだ。
 理由は明白。
 彼の行動に全く感心を示さない者が1人。
 彼の行動が奇妙だと思っていても、己の食欲を優先させている為に言葉を発する余裕のない者が1人。
 但しこの両名に限っては、端から他人に忠告しようという意志がないことも付随しておくべきだろう。片方は一般的な常識を知ってはいても協調性というものが欠落していたし、もう片方は一般的な常識すら認識しているかどうかも危うい人物なのだ。
 そして、唯一このメンバーの中で一般常識と協調性を兼ね備えていると思われる人物はといえば・・・決定的なまでに目が悪かった。
 いや、その言い方も正確ではないだろう。
 確かに片目は義眼で、もう一方も視力が低下しているとは言え、人並みの認識力はある。視覚情報の伝達に関しては問題がない。ただ・・・俗に言う『フィルター』と言われるものが、その男には掛かっていた。
 この『フィルター』なるものは、時として大変恐ろしい効力を発揮する。
 敢えてその色を表現するならば『ピンク』または『桃色』。これをどちらも同じ色じゃないかと侮ってはいけない。『ピンク』よりは『桃色』の方が、どことなくまったりとした感じなのだ。率直に言ってしまえば『えっちくさい』。
 さて、そんなフィルターが掛かっている者の識覚が正常な筈もないことは明白だ。
 この時桃色フィルター自然装着男――その名も猪八戒という――の脳内はただの一言で埋め尽くされていた。
(可愛い・・・)
 よりにもよって自分よりも背の高い、22歳成人男性(しかも痩せているとは言えそこそこに筋肉も発達した、肉体派)に向かって『可愛い』。更に付け加えるなら語尾にハートマーク付き。
 世のマトモな方がその姿を見たならば、『あぁ八戒さん、アナタの目玉はきっと曇っていらっしゃるのね。さぁ取り外して、この石鹸水入りのビーカーの中でカラカラと洗って差し上げましょう』と言いたくなるくらいの惨状である。しかし幸いなことに、この場にはそんな命知らずなコトを言う輩も存在してはいなかった。存在していたら、うっかり笑顔で村ごと消し去られてしまうのは想像に難くない。あなおそろしや。
 はてさて話題が少々ずれてしまったが、そんな理由で只今の悟浄を止める者は1人としていなかった。
 しかして、その惨劇は起こってしまったのだった・・・・・・!


「さ〜んぞうさまっ、ダイスキ♪」
 ぎゅっ!
 これがうら若き乙女やミニマムなお子様なら、どれだけ微笑ましい光景だろう。普段は家庭を省みない仏頂面の父と日曜の朝っぱらから交流を深めたがる寂しんぼなお子様。父は手にした新聞から目も上げず、かといってお子様に『俺もダイスキだぞ』などと口にすることも出来ず、ただ少々俯いて『あぁ・・・』なんて照れながら仰る・・・・・・そんな光景だったらどれだけ平和だったろうか。
 だがしかし。
 現実には抱き付いたのは身長184センチの成人男性であり、抱き付かれたのは彼と全く血縁関係のない身長177センチ・齢23歳のこれまた成人男性であった。
<ビキッ!>
 一瞬。ほんの一瞬であったがその場が凍り付いた。
 冷気は残酷にも辺りを舐め尽くさんばかりの勢いで広がり、あっという間に室内は永久凍土の如き極寒の地になってしまう。もちろん冷気の発生源は2ヵ所。今更説明するまでもなかろう。
「・・・・・・悟浄」
 三蔵はゆっくりと手の中の新聞を握り潰した。
 そして掛けていた眼鏡をこれまた丁寧な動作でテーブルに置くと、じりじりと背後を振り向く。
 抱き付いていた悟浄はその気迫に押され、両手を脇に上げながら後退った。密かに三蔵の首がこのまま180度向いてしまうのではないかとも心配したが、180度に達する前に肩が動いたので三蔵も人間だったのだと安心する。根拠はないがなんとなく三蔵なら出来るのではないかと思ってしまうところが悟浄らしいところである。
 しかしそんなことに安堵している時ではなかった。
「俺は言った筈だな?そういう冗談は嫌いだと・・・」
 その言葉と共に向けられた銃口が、鈍く光る。
「いや・・・あの、さ?ちょっとしたお茶目じゃ〜ん・・・・・・なんて」
 ずりずりと下がりながらも悟浄は助けを求めて三蔵の横に目線を移す。しかしそこにいるのは相変わらず自分の食欲を満たすことにのみ捕われている悟空である。彼が三蔵に対するストッパーになりうることはまずない。
 悟浄は最後の頼みの綱である、八戒の方を見た。
 だが、頼みの八戒はといえば先程から冷気発生器となったまま・・・。
「はっ・・・」
「・・・三蔵」
 悟浄の言葉を掻き消すように、八戒が口を開く。
 いまだ冷気を放ちつつも、その顔は清々しいまでに爽やかな笑顔を浮かべている。しかしその笑顔こそが恐怖の象徴だと長くはないが短くもない付き合いの中で、悟浄は体得させられていた。
「そこのヒト、撃っちゃって下さい」
「八戒ぃぃぃぃぃぃ〜〜?!」
 あまりにも冷酷な宣言に、悟浄の叫びが重なる。
 しかし八戒は全く動じなかった。
「だってそのヒト、悟浄じゃありませんから」
「「はぁ?!」」
 悟浄を指差し、あっさりと言ってのける八戒の姿に、流石の三蔵も疑問の声を上げる。ちなみに悟浄と一緒だったので、まるでステレオ効果である。
「僕にすら『好き』なんて殆ど言ってくれないのに、三蔵に向かって『ダイスキ』なんて悟浄が言う訳ないじゃないですか。だからその悟浄は偽者です。きっと、紅孩児さんトコの刺客かなにかじゃないですか?」
 真面目な顔で告げる八戒に、悟浄は開いた口が塞がらない。
 確かに自分からは滅多にその手の言葉は言ったことがない。八戒に対してそんなことを言うのは余程上機嫌の時か、八戒に無理矢理言わせられた時。しかしそれをこんなに根に持っていたなんて・・・。
「悟浄はとてもシャイなヒトなんです。人前で自分の感情を吐露する事なんてありえません。ですから三蔵・・・」
 冷やりとした空気が、辺りを流れる。
「撃っちゃって下さい」
 口元が笑っているのに、目が全く笑っていない。
 始めは八戒の気迫に押され腕が下がりかけていた三蔵も、『そうか』とどこか遠い眼差しで頷き再び銃口を悟浄に向ける。
「あの・・・八戒さん?」
「あんっっなに素直で可愛くて美人で恥じらい深くてその上ちょっぴり床上手で僕に従順且つぞっこんな悟浄の姿を借りようなんて、万死に値しますよね」
 八戒の思い描く悟浄像こそ偽者であろうとは、その場にいた誰もが思ったが口には出せなかった。
 恐るべしフィルター男!!
「姿こそ悟浄と瓜二つとは言え、偽者に大きな顔をさせておくのは忍びないです。微力ながら僕もお手伝いします!」
 そっと涙を拭うフリまでしながら、八戒の右手には確実に気が貯められていく。
「ちょ・・・ちょっと待て、八戒!!」
「問答無用です。さ、三蔵も」
 促がされて普段よりも随分と無気力な銃声が響く。
 既に八戒のイキっぷりに、三蔵も馬鹿馬鹿しくなり始めていた。
「覚悟してください、悟浄の偽者さん!」
「っつ〜かテメェ、ワザとやってんだろ!!」
「さよなら悟浄!アナタの仇は僕が必ず!」
「だ〜〜〜もうっ!」
 気功弾が部屋を飛び交い、建物を確実に破壊していく。
 その様を、三蔵は元の椅子に座りなおして無気力に眺めた。
「猿・・・」
「ん?」
「お前よくこの状況で食えるな」
「ん〜だって、いつものことじゃん?」
「・・・それもそうか」
 三蔵は煙草を取り出し、口に咥えた。いつものこと・・・確かにそうではあったが、それに慣れてしまうのも人としてどうかと思う。いや、自分以外は人間ですらないのだが、もしやそれも関係しているのだろうか。
「・・・・・・〜〜〜〜っ!喧しいわキサマら!!」
「っぶね〜なぁ!いきなり撃つんじゃねぇ、三蔵!!」
「死んで下さい、悟浄の偽者さんっ!」
「テメェもいい加減にしやがれ!!」


 騒がしい、大変騒がしい日常が流れて行く。
 しかしてこれこそが三蔵一行の、平和な1日なのだった。


「で?悟浄はなんで三蔵に抱き付いたんだ?」
「ほぇ?・・・いや、なんとなく。デキゴコロってやつ?」
「・・・・・・やっぱ悟浄が悪いんじゃん」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
 命を掛けた冗談は、程々にした方が懸命なようである。



三蔵一行日常編。っつ〜か、珍しく4人出ましたね。
何が書きたかったのかって、三蔵に絡む悟浄と壊れた八戒だった気が・・・(遠い目)
ま、偶にはこんなものも・・・。




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