空を見るもの・外伝
― 箱庭の楽園 ―




 戒少年は困惑していた。
 理由はただ一つ。目の前にいる悟浄が、やけに上機嫌だからである。
 一緒に暮らし始めてからまだ数日しか経っていないが、悟浄が感情の起伏の激しい人だということは理解できていた。同居人である八戒との口論は日常茶飯事だし、機嫌がいいときは優しく話し掛けてくれた。人の悪い笑みを浮かべることもあれば、痛みに耐える顔も見た。
 ただ、基本的には楽天家な悟浄である。彼が機嫌を良くしているのは然程珍しくもないのだが、如何せん状況がいつもと違っていた。
 悟浄は鼻歌を歌いながら片手にクッション、もう片方の手には厚手のソファーカバーを持っていたのである。
「悟浄?」
 戒は訝しげな表情を隠せないままに、悟浄の名を呼んだ。
「ん?あぁ、戒か」
 悟浄は戒の姿に気が付くと、にっこりと微笑んでみせる。
「あの・・・何をするつもりなんですか?」
 クッションはともかく、滅多に使わない筈のソファーカバーまで引っ張り出して。
 そう問えば、悟浄は笑ったまま手の中のクッションを一つ、戒へと放り投げた。
「っ!?」
 危うく両手でそれを受ければ、悟浄は居間のソファーから新たにもう一つクッションを拾い、ソファーカバーと一緒に持つ。
「知りたい?」
 戒の方を見ずに、今度はテーブルの上に載せられていた文庫本を手にとる。
「知りたいなら、着いて来いよ」
 悟浄はそれだけ言うと、玄関の扉を開けた。


 それから二人は、家の裏手にある獣道を通り、無言のままに15分ほど歩いた。
 その距離は、幼い戒の足に合わせたものだったから、それほどあの家から離れているというわけでもない。
 ただ黙々と、悟浄の鼻歌を聞きながら鬱蒼とした森を抜ければ、そこには清涼な空気を充たした、新緑の丘があった。
「どう?イイ場所だろ?」
 悟浄は足を止めた戒の手を取り、どことなく嬉しそうな口調で訊いた。
「えぇ・・・」
 深緑の瞳は風に揺れる草原を映したまま、見開かれていた。
(言葉が、出ない)
 抜けるような青い空と、若葉の緑。そしてそれらと対極を成す、緋色の人。
 全てが現実から切り離された絵のように、戒の心を支配する。
「本当に・・・綺麗な・・・」
 言葉に詰まりながらも悟浄に応えようとする戒の姿に苦笑し、悟浄は握ったままだったその手を軽く引く。
「本当の目的地は、もう少し先なんだ」
 おいで。
 悟浄は戒を連れ、再び歩き始めた。
 その足取りはゆっくりと、丘の中心にある大樹の元へと向かっていた。


「ここはな、俺の一番のお気に入りの場所なんだ」
 悟浄はそう言うと、手に持っていたソファーカバーを広げ、その上に座り込む。
「ほら、お前も座れよ」
 手を引かれれば、戒は素直に悟浄の横に座った。
 自分が持ってきたクッションと、戒に運ばせたクッション。その2つを悟浄は適当に、背後に放り投げる。
「あの家に住んで、半年くらいした頃に見付けたんだ。それから何度もこの木の下に来た」
 悩んだり、嫌な事があったり―――独りになりたい時に。そんな時に悟浄はこの木の下に座る。
「・・・大事な場所なんですね」
 戒は膝を抱え、呟くように言った。
「そんな場所に、僕を連れてきても良かったんですか?」
 独りになりたい場所なら、他人を入れるべきではない。幼いながらも冷めた心で、戒は思った。
 他人を信用するな。戒の本能はそう告げる。
 だからこそ、自分に向けられた悟浄の言葉が信じられなかった。
「お前だからこそ、知っていて欲しかったんだよ」
「ご・・・」
「大事な場所だからこそ、知っていて欲しかったんだ」
 その真摯な瞳に気圧されるように、戒は言葉を飲む。
 すると悟浄は一度表情を和らげ、次いで視線を空へと向けた。
「どんなに近くにいても俺たちは別個の人間だし、本質は独りだ。だから解かり合えない時もあると思う。それでも解かり合おうと努力はできるし、しなくちゃならないとも思ってる。その為に考えなくちゃならない時に、俺はここに来るよ」
 その言葉を受け、戒はただ頷く。
「お前も悩んだのなら、ここに来ればいい。でも、俺が独りでここに来たら・・・答えを見付ける為だから、少しだけ待っててくれよ」
 離れないために、一緒に居られる為に、考えるから。
 沁みるよう悟浄の声に、戒は瞳を閉じて、また頷く。
 悟浄は優しい。
 心も身体も。どれだけ傷つけられても尚、相手を思うその優しさが、時には悲しくなるけれど。
 だから僕も、悟浄と一緒にいるために、悟浄の哀しさがなくなるように、精一杯考えるから。
 戒は声にならない言葉の代わりに、悟浄の袖を強く握り締めた。




 緑の丘に風が渡り、悟浄の赤い髪を揺らす。
 その傍らには、身体を丸めた少年が、深い眠りの中にいた。
「やっぱりここにいたんですね」
「お迎えご苦労さん」
 気配を殺して近付いて来た八戒に、悟浄はくすりと笑う。
 八戒は、戒を起こさないように慎重に手にしていたバスケットを降ろすと、悟浄の隣に腰を降ろした。
「結局、教えてしまったんですね」
 拗ねた声音の八戒に苦笑を漏らしながらも、悟浄は頷いた。
「だって、こいつだけが知らないのはフェアじゃないだろ?」
「フェア・・・ねぇ」
 フェアと言うよりは、僕の方が不利でしょ。
 八戒はそう嘆きながら、魔法瓶に容れてきたコーヒーを悟浄に手渡す。
「折角、二人だけの秘密の場所だと思っていたのに・・・」
 心底残念そうにぼやく八戒に、悟浄は思わず吹き出した。
「お前、それ本気で言ってるだろ」
 笑いながらコーヒーを一口、口に含めば
「僕はいつだって本気ですよ」
 と返される。
「ま、いいですけどね」
 八戒は着ていた上着を脱ぐと、戒の身体に掛けた。
 麗らかな日差しとはいえ、屋外で寝ていたのでは風邪を引きかねない。
 八戒のそんな細かな心遣いが、悟浄は嬉しく思う。例え今はすれ違っていても、きっと自分たちは巧くやっていける筈だから。
「戒にも、この場所のルールを教えてあげないといけませんね」
 戒とよく似た、それでいて尚穏やかな深緑の瞳が、悟浄を映す。
「独りで考えてる時は、待っててくれって言っておいたぜ?」
 悟浄の瞳が眩しそうに細められるのは、木漏れ日ばかりのせいではない。
 二人は互いの瞳の色しか見えなくなる距離で、囁くように言葉を交わす。
「晴れた日のこの場所での考え事は、1時間がリミットだってことですよ」
「あ・・・」
 そう、悟浄が晴れた日にこの場所に来るのは、何も考え事をするためだけではない。
 居間のクッションがなくなっていれば、ただ単に昼寝のために訪れているだけだ。そんな時八戒は、軽い食事と飲み物を持ってこの場所まで探しに来る。
「でもさ、お前は解かっていて、そうするだけだろ?」
 本当に考えたい時は、放っておいてくれるじゃん。
 顎を引き、上目遣いで言う悟浄に、当然ですと八戒は断言する。
「僕は貴方のことは全て知っていたいんです。だからいつでも、貴方の望むようにしてあげたい」
 甘やかな、それでいて誓うような力強い声音に、悟浄の頬に朱が走る。
「あんまりそういうこと言ってると、いつか後悔するぞ」
「しませんよ」
 『八戒』として生き始めたあの日から、僕は悟浄と共にある事を誓いましたから。
 微笑む八戒の眼に、迷いはない。
 それが悟浄の胸に、小さな棘を落とすけど。
「馬鹿ばっかり言ってんじゃねぇよ」
 軽く口唇を合わせ、痛みに気付かないフリをして、悟浄は笑う。
「そろそろ、昼食にしましょうか」
 悟浄の痛みに気付かないフリをして、八戒も笑う。
「こんなトコで弁当広げるなんて、ピクニックみてぇだよな」
「僕はそのつもりでしたよ?普通の親子みたいで、ちょっとイヤですけどね」
「あはは・・・弁当作ってくれるって事は、お前がオカアサンか?」
「いえ、オカアサンは貴方の方ですよ。父と子で、麗しき人を奪い合うんです」
「エディプスかよ。サ〜イテ〜」

 笑って、笑って、笑って。いつまで笑えるか判らないけど。
 願わくば、箱庭の幸せの終焉は、今少し先へ・・・。



今となっては何人が覚えていて下さっているのだろう、『空を見るもの』の外伝です。こちらは本編と併せて2001年8月に冊子として発行させて頂きました。
本当はこれも降ろすつもりだったのですが…思い入れもある作品ですので、少しでも興味を持ってもらえたらと残すことにしました(苦笑)

>初めてこの物語を読む方へ
基本的な設定としては、原作の最遊記から5年後。桃源郷の異変は阻止したものの、妖怪は人間の迫害により普通には暮らせなくなります。桃源郷を救った英雄である筈の八戒と悟浄も例外ではなく、元の家に結界を張られ、ひっそりと隠れ住んでいました。たった二人の生活は、いつしか誤解と擦れ違いに寄る距離を作りだします。そんなある雨の日、悟浄は一人の少年を拾います。傷だらけで倒れていた少年は、八戒に良く似た面立ちと深緑の瞳を持ち、人間の外見をしていながら妖怪の気を持つ不思議な存在でした。そして目を覚ました少年は、己の名を『猪八戒』と名乗るのでした・・・。(以上、第1話あらすじ/苦笑)
 外伝中で『戒』と呼ばれているのは、悟浄が便宜上付けた少年の名前です。体格的には10歳児の、八戒です(笑)




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