― 紅 楼 夢 ―




 闇夜の暗さを裂くように、薄紅色の花が咲く。
 はらりはらりと舞い落ちる、その花弁は――白。
 天も地も、全てを飲み込むようなその色は、雪の白銀が見せる厳格なる神聖さとはまた、違うものを感じさせる。
 喩えるならばそう――上気した女の柔肌のように。
 白さの中に淡く紅を刷いたその花は、朧げな霞を伴い、いつもは見慣れたはずのこの森を幽玄の世界へと変えていた。
 奥へ奥へと誘い込む、その淫らがましい花煙の中を、惑わされるように進む影がひとつ。
 いや、惑わされるにはその足取りは確かであり、その眼はただ一点を捉えている。
 彼の視線の先にあるのは、淡い世界に溶け込むことはせず、その存在ばかりを知らしめる血色の人影であった。


カサリ
 一歩、また一歩と踏み出すたびに、足の下の花の骸が悲鳴をあげる。
 それがこの夢幻の世界において唯一の音であった。
 目前に迫った人影は、この森でも殊更に大きな木の根元で、その背を預けるように蹲っていた。
 時の流れの外にいるかの如く、ぴくりとも動かぬその影。
 舞い落ちる花を見やる瞳も、肩を越すほどに伸びたその髪も、血の色を湛えている。
 目に焼け付くような鮮烈な赤に、この白の世界に混ざるの緋色の源が、彼であるかのような錯覚を起こさせる。
 櫻の森に囚われ、飽くこともなく己が血の色を白い花弁に分け与える。
『薄紅色の楼閣』
 そう思った瞬間に、八戒の背を冷たいものが走り抜けた。
 彼を失うことが怖いのか、はたまた彼を何者かに奪われることが厭わしいのか。
 判らぬままに、拳を固めた。




「ここ・・・よく判ったな」
 薄い唇が手にした白磁の盃に触れる。
 ふわりと香るのは、遥か東国の酒の匂い。
 清水の様に酷く透明な酒は、この花に不思議なほど似合っていた。
「えぇ・・・」
 言葉少なに八戒は返す。
 気を読める八戒にとって、悟浄を追うのは容易い事であった。だが、それを彼に言ったことはない。干渉されることを嫌う彼がその事実を知ったとしたら、確実に不興を蒙ることだろう。だからそれは、最後の切り札でもあった。
 そしてそれとは別に、八戒には多くを語れぬ理由があった。
 悟浄の直ぐ脇、櫻の樹の根元に据えられた・・・木箱。
 酒か杯か、いずれかが入っていただろうその白木の箱の上に、悟浄が手に持っているのと同じ盃がひとつ、中に酒を満たされ置かれている。
 一目見て、手向けだと思った。
 死者か、生者か。
 何れにせよ、悟浄とこうして櫻の下で酒を酌み交わす程に親しい人物だったのだろう。
 悟浄はその人物の為に、ただ一人で酒を呷る。それは、八戒の与かり知らぬ因習。
 だからといって悟浄に問い質す事など出来る筈もなく、八戒は己が踏み入れることを許されないその領域を、苦く思うことしか出来ない。
「座れば?」
 悟浄は己の傍ら――白木の箱とは別の方――を指し示した。
 だが、その誘いに乗ることなく、八戒は依然立ち尽くしたままで悟浄を見詰める。
 その様子に悟浄はクスリと笑みを零すと、八戒の手を取った。
「ほら、座れよ」
 軽く引かれれば、八戒の体は脆くも地へと跪く。
 碧玉の瞳に視線を合わせ、悟浄は手の盃を八戒へと渡した。
「飲もうぜ」
 既に空となっていた盃に、悟浄はなみなみと注ぎ足すと、今度は傍らの盃に手を伸ばす。
パシャリ
 水音と共に幹が濡れ、辺りは一層強い芳香に包まれた。
「悟浄・・・!」
 八戒は何故、自分が声を上げたのか判っていなかった。だがそれは、制止の響きを持つものであった。
 空になったもうひとつの盃。
 それを僅かに手の中で弄び、悟浄は小さな笑いで咽喉を振るわせる。
「いいんだよ、別に」
 逆手に持った銚子を器用に傾け、悟浄はまた、盃に注ぐ。
「お前がいるから、こいつはもう要らないんだよ」
 だから俺の盃はお前にやるよ。
 それだけ言って、悟浄は再び酒を乾す。
 一杯、二杯と悟浄が美味そうに酒を乾す姿を、八戒はただ、見詰めた。




「桜の下には何があると思います?」
 口に含んだ酒が咽喉を焼くような感覚を与えても、八戒の意識は依然として朧げであった。
 冷めた感情と、暗い思いと。
 そして悟浄に対する抑制しきれぬ、どちらかといえば熱い想いが、八戒の思考を綯交ぜにする。
 だからそんな言葉が出たのだろうか。
 手の中の酒を一息で飲み干すと、八戒はクスリと笑った。
「あぁ?死体が埋まってるって話は、俺も聞いた事があるぜ」
 ニヤリと笑い、悟浄はまた、盃を乾す。
「死体・・・ね。僕もさっき、悟浄を見付けた時は死体が転がっているのかと思いましたが」
 息を吐き出せば、思いの外熱い吐息が口から零れる。
 それも、飲み慣れぬ異国の酒のせいだろう。
 ひでぇ・・・という悟浄の声を聞き流し、八戒は話を進める。
「桜の下にはね、鬼が住むんですよ」
 己の想いに囚われて、人としての生を捨てるもの。
 あぁ、正に・・・
(桜に囚われているのは、僕の方ですね)
 自分は鬼ではなく、妖怪になってしまったが。
 この桜の下には、自分こそが相応しい。
 それとも悟浄も・・・
「あ、もう無くなっちゃった」
「?」
「お酒。今日はコレでお開きかなぁ」
 くるりと手の酒瓶を振れば、僅かな水音が八戒の耳にも届いた。
「飲み過ぎじゃないんですか」
 皮肉も交えて笑ってやれば、悟浄は勢いよく瓶を呷った。
「ごじょっ・・・!」
 ぐい、と胸倉を掴まれて、引き寄せられれば唇が触れる。
 合わさったその隙間から僅かに生温くなった酒が流れこみ、八戒の咽喉を潤した。
 八戒の咽喉が鳴るのを聞き届けて、悟浄は惜しげにぺろりと唇を舐めて離れる。
「お裾分け」
 赤い瞳を悪戯げに細め、空になった酒瓶を振る悟浄は実に楽しそうだ。
 人でも鬼でも妖怪でも、『二人』ならば生きて行けるかもしれない。
 本当に彼と共にあることが出来るのなら・・・この花の牢獄も悪くはない。


 白い白い白い・・・花が降る。
 全てを薄紅色に塗り替えて、櫻は全てを覆い尽くす。
「ならば僕も、お返しをしないと」
 櫻の森には、鬼が二人。

≪アナタとなら、それも悪くは・・・ない≫




いつの間にかパートが三つに分かれてしまいました。
半分寝ながら書いていたもので、かなり支離滅裂だとは思います。
しかし櫻という時期ネタなんで、ごめんなさい!書きたかったんだよぅ・・・。
(最近そればっかりだな、私・・・)



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