― CLEAR ―
ぺたり。
額に手をやれば、水気を帯びたタオルが触れる。
体温を吸収したタオルは、生温くて気持ちが悪い。
ベッドの横のサイドテーブルには水を張った洗面器が置いてあったが、自分でタオルを絞りなおすのも面倒で、そのままタオルを放り込んで体を起こした。
熱を出したのは随分と久し振りだ。
八戒の見立てでは、風邪。
日頃の不摂生が原因じゃないでしょうか、なんて尤らしい事を言いながら厚手の寝巻きを手渡し、ベッドに押し込む手並みは流石としか言いようがない。
ぼ〜としている間に額にタオルが、サイドテーブルには水差しと体温計が乗せられていた。
八戒は薬箱を覗いた様だが、風邪薬は発見できなかったらしい。
氷嚢もないんですね、この家は・・・
そう文句を言いながら、出来るだけの処置をしてあいつが家を出たのが15分前。
ここから麓の街まで歩いて30分。買い出しに10分として、俺の執行猶予はあと1時間弱ってトコか。
そんな目測を付けながら無意識にサイドテーブルに手を伸ばし、我に返って苦笑を漏らす。
いつもそこに置いてある筈の煙草と灰皿は、当然のように片付けられていた。
風邪が治るまでは、煙草は禁止ですからね。
そう言って枕の下のも没収して行ったけか。
本当は立つのも億劫だったが、こうなると何が何でも喫いたくなるのがヒトってもんだろ?
素足に触れる床は冷たいけど、朝ほどの浮遊感はない。2歩でクローゼットの前に立ち、扉を開ける。
いつもならここに買い置きの煙草が2カートンは常駐しているんだけど・・・影も形もない。
やっぱりね。
予想はしていたから、たいした落胆も見せず、俺はそのままサイドテーブルの引出しを開けた。流石に煙草は無くなっていたが、携帯用の灰皿だけは残っている。
とりあえずそれを手に取り、再びベッドの上に戻る。
あいつもまだまだ甘いよな〜。
鼻歌交じりに手を突っ込んだのは、壁と密接したベッドマットの下。
その小さな隙間から、安っぽいアルミの缶を引き摺り出す。
丁度煙草が1箱入る程度の大きさの缶。ライターを入れる余裕は無いから、何処かの店で貰った紙マッチが挟むように入れてある。
八戒との何度かの攻防の末にこんな隠し場所まで考え出した自分に、半分は呆れている。
ナンだってここまでやるんだか。
そうは思ってもコイツを止める事なんて考えられない。『チェーンスモーカー』なんて、俺にとっちゃ賛辞みたいなもんだ。
取り出した一本を咥え、紙マッチを引き千切って火を着ける。ライターとは違う、火薬の匂いが鼻腔を擽る。なんだか、懐かしくなる匂い・・・。
ゆっくりと、肺の奥まで煙を吸いこみ、目を閉じる。
舌を刺すような辛味が、旨いと感じるようになったのはいつからだろう。
ひとつ、ふたつ・・・
深呼吸をするように、肺の中を煙で満たす。
肺の中から血管に入り、脳へと流れる紫煙を夢見る。
煙草ってのは覚醒作用があるんだっけか。だんだんと、頭の中がクリアになる気がする。
・・・気だけかもしれねぇな、ホントは。
瞼を押し上げれば、立ち昇る紫煙が部屋を白く煙らせている。
手元からずっと上がって、次第に細くなって。いつの間にか消えている煙。だけど、さっきまでの透明さを欠く空気が、煙が決してゼロにならないことを示している。
ナンカに似てんだよなぁ。
それが何なのか掴めずに、ただ薄汚れた天井を睨みつけた。
煙草のヤニで、黄ばんだ壁紙。その下に・・・窓。
洗い晒しのカーテンがかかった窓は、陽光を僅かに漏らし、部屋の中を明るく染める。
・・・カーテン?
あぁ、そっか。このカーテンはあいつが来てから付けたもんだったっけ。
淡い生成りの――あいつが良く好む優しい色合いの――カーテン。
もう少しヒトが住んでいる所っぽくしましょうね、なんて言いながら、家の窓全部に取りつけられたカーテン。
あいつが来てから、そういった細々した物が増えて、確かにこの家は変わった。
俺にとっちゃ寝に帰るだけの物置みたいな『住処』が、ヒトの住んでいる匂いのする『家』になった。そして俺は、この家に『帰る』ことが苦痛じゃなくなった。
そう。正直なトコロ、俺はこの家が嫌いだった。正確には、この家に『帰る』コトが。
誰も居ない筈のこの家の扉を開ける度に、その向こうに血塗れの女の姿がありそうで。1人で居れば、いつしか涙に濡れた女が俺の前に立ちそうで。
ありもなしない幻覚に怯えていた。
それでも、誰かをこの家に入れることは出来なくて。
一夜限りのぬくもりを求めて、さまよった。
女の肌は柔らかくて、その胸の中は暖かくて、快楽に溺れれば何もかも忘れられた。例えそれが数時間にしか満たない安らぎでも、あの時の俺には充分だった。
そして時折、逃げるようにこの家に戻る。誰も入れないこの家に・・・。
コン・・・
いつの間にか灰が落ちそうになっているのに気が付いて、そのまま灰皿に押し込む。
時計を見れば、そろそろあいつが帰ってくる時間だ。
俺は洗面器の中のタオルを軽く絞ると、端を結ぶ。
そうして頭上でくるくると振り回せば、白濁した空気が次第に透明さを取り戻して行った。
こうするとね、匂いも消えるのよ?
笑いながら言ったのは、もう顔も思い出せない女だけど、まさか自分がやる事になるとは思ってもなかった。
変わったなぁ、俺も。
そう思った途端に、口端に笑いが浮かぶ。自嘲なんかじゃない、笑いが。
な〜にやってんだか。
回る、まわる。タオルが回る度に、部屋の空気が清浄になる。
女共にゃ、見せらんねぇ姿だな。
顔も判らねぇ女が笑う。
―――やだ、悟浄ってば。アンタがそんなに他人に気を使うとこなんて、初めて見たわ。
あぁ、そうだな。俺も驚いてるよ。
だがそれも、不快じゃない。
あいつはいつの間にか俺の中に浸透していって、でもそれを許している俺がいる。
ホント、なんだかなぁ。
小さかった笑いは、水面に広がる波紋の様に大きくなって。何がおかしいのかも判らないほどに、笑えてきた。
笑いながら手に落ちたタオルを解き、畳んで額に乗せる。
アルミの缶は元通りにベッドマットの下に、灰皿はサイドテーブルの引き出しに。
コレで元通り。
何食わぬ顔であいつを迎えて、今日くらいは大人しくしていてやろうか。
その前に、この笑いをどうにか止めねぇと。
そう思っても、後から後から湧いてくる笑いが、どうにも止められねぇ。
ズルリと額のタオルを瞼の上まで引き摺り下ろして、シーツに埋もれる。
頬に当たるシーツからは、石鹸と太陽の匂い。
こんな寝床で眠るのも、あいつが来てからだよなぁ。
変わって、変えられて、流されて。
どこまで行っても、俺は俺で。
あぁ、ホントに・・・・・・
「・・・手、ヤニ臭ぇ。バレるわ、こりゃ」
ワケ解かりませんね。申し訳ない。またもや自己満足駄文です。
書きたかったのは『濡れタオルを振り回す悟浄』。
何故にこんなに長くなってしまったのか、私にも不明(爆)
機会があれば悟浄の心理面をもうすこし突き詰めて書いてみたいものですが・・・
ちなみに帰ってきた八戒には当然のようにバレて、お仕置きされる予定でした(笑)
(↑そこまで書いたら確実に地下行きだしね・・・)