― 優 し い 手 ―




「悟浄、髪を洗わせてくれませんか?」
 暖かな日差しに誘われるように、夢の国へと行きかけていた悟浄の意識を、そんな八戒の声が呼び戻した。
「・・・へ?」
 ぼんやりとしていて何を言われたのか全く理解できなかった悟浄に言い聞かせる(と言うよりは暗示をかける、と言った方が正しいかもしれない)様に、八戒がもう一度同じ事を言った。
「髪をね、洗わせてくださいって言ったんですよ」
「・・・・・・なんで?」
 共に暮らし始めてから数ヵ月。こんな事を言われたのは初めてだった。
 別に悟浄は風呂嫌いな訳ではない。むしろ身嗜みには気を使う方で(さもありなん。女性相手に清潔感は重要ポイントだからだ)、通常、日に2回はシャワーを浴びている。そんなことは八戒だって承知の筈なのだが・・・。
 頭の中でグルグルと、そんな事を廻らしているのが判ったのだろうか。八戒はお得意の笑顔で悟浄の顔を覗きこんだ。
「悟浄の髪って凄くサラサラで、綺麗でしょ。一度で良いから弄ってみたかったんですよ」
(・・・いっつも触ってないっけ?)
 『綺麗』と言われた事に少々複雑なものを感じながらも、日頃の八戒の行動を思い起こして、ついでに余計なことまで思い出した挙句に赤くなってりゃ世話がない。
 照れ隠しも手伝って、押し黙ったまま八戒の顔を上目遣いで睨めば、八戒の手が頬を掠めるように伸ばされた。
「それにほら、毛先が少々痛んできているんですよね」
(うわ・・・)
 髪を一房掬われそんな事を言われても、悟浄の視界には残像のように八戒の手が残っていて、言葉なんて耳に入ってきやしない。
 女性の細くしなやかなそれとは違う、紛れも無い『男の手』。
 広い掌に、関節が節立った長い指。その指先は平らでほんの少し硬そうな質感を与える。手首の内側に浮き出た筋と静脈は微妙なコントラストを作りだし、袖の中へと続いていて。
 多分、今は見えないけれど、その手の甲には・・・
「悟浄?」
「あっ!・・・・・・・・・悪ぃ・・・」
 ぼうっとしたまま、何の反応も返さない悟浄を訝しんだ八戒が掛けた声に、それこそ跳び上がりそうになる程に驚いて、何となくバツが悪くなる。消え入りそうな声で付け足すように謝れば、八戒は安心したような笑みを見せた。
「まだ、眠いんですか?」
 その言葉に頭を振る事で否定の意を示す。
 眠いわけじゃない。今、自分を夢見心地にさせたのは・・・
「え〜と、俺の頭がナンだって?」
 これ以上考えていると益々恥ずかしい事になりそうで、誤魔化すように話題を戻す。
 っても・・・顔の色ばかりは戻しようがないんだろうなぁ。
「あぁ。毛先が痛んできているから、きちんと手入れをしましょうって、言ったんですよ」
 こんなに同じ様な事を何度も言わされても根気よく繰り返す八戒には、心底脱帽する。
 それほどまでに男の髪を洗うのが楽しいのか・・・?
 ・・・いや、『俺だから』か。いかにもコイツが言いそうな言葉。何度言われても、慣れないコトバ・・・。
「あ〜、いいよ」
 言葉に詰まって、結局OK出すって事は、俺もコイツが気に入っているって事だろう。
 仕方なさそうに腰を浮かすと、妙に嬉しそうな八戒が「準備してきますね」と言って先に風呂場へと走って行った。
(ホント・・・)
 そんなに喜ばれると、なんだかくすぐったくなる。
 スキンシップ過多になりつつある八戒に苦笑を漏らしながらも、殊更ゆっくりとした歩調で風呂場に向かう俺は、やっぱりあいつの手で触られるのが・・・好きなのかもしれない。





 さてその数分後、脱衣室の戸を開けてそのまま閉めたくなるほどの後悔が悟浄を取り巻いていた。
「ここに座ってくださいね」
 と指し示された椅子は背凭れにタオルが敷いてあり、首を乗せるには丁度良くなっている。
 洗面台にはシャワーの準備も整っていて、正に準備万端。
 しかし悟浄が目を覆いたくなったのは、その横に置かれた品物の数々であった。シャンプーに始まり、リンス・トリートメントパック・ブラシ・櫛・ドライヤー・整髪剤・・・どこからこんなに持ってきたんだと言うような品数が所狭しと広げられていたのである。
「あのさ・・・」
「はい?」
「・・・・・・・・・いや。ナンでもない」
 うきうきと、それこそ鼻歌まで歌い出しそうな八戒に気勢を削がれて、悟浄は大人しく椅子へと座った。
 八戒の手が悟浄の髪を掬い、流しへと降ろす。
「お湯をかけますからね。熱かったら言って下さい」
 サア・・・という水音と共に、少し温めの湯が頭髪を湿らせていく。
 少しずつ重くなっていく髪が、時折八戒の手で梳かれて位置を変える。ゆっくりと、解きほぐされるような動作に、自然と瞼が下がった。
「シャンプー使いますから。そのまま目を閉じていてくださいね」
 湯の温かさに半分落ちかけていた意識が、その言葉で僅かに引き戻される。
「あぁ」
 目を閉じたまま応えると、悟浄は肩の力を抜いた。
 シャワーの水音が止み、カタリ、という音の後に冷たい感触が地肌に触れる。そうしてゆっくりと、八戒の指先が髪の間を滑り抜けた。
 適度な力を指先に込めて、マッサージするように項から額へと何度も往復するその動きは、目を閉じた悟浄の脳裏に薄らと浮かび上がる。見えない筈のその手を、まるでもう一人の自分が見ているように。
 先程目に焼きついた手の平。そして指先。八戒の手だけが記憶からまざまざと引き出され、それに己の赤い髪が絡みつく様が瞼に浮かぶ。
(うわぁ・・・ちょっと、サイテーかも)
 別にどうという事もない光景なのに、しかも半分以上が自分の想像なのに、八戒の手を思うだけで顔と身体が熱くなる。
 その間にも再びシャワーが当てられ、丁寧に髪が濯がれていった。湯気が顔に当たり、それがほてった頬の言い訳になることを祈りつつ、悟浄はじっと終わるのを待つ。
 そして漸く水音が止まり、八戒の手が髪から離れた。
(終わった?)
 そう思って僅かに身体を起こそうとしたら、途端に引き戻されてしまう。
「ダメですよ。まだまだ時間が掛かるんですから」
「へ?」
「もう一度シャンプーして、トリートメントをして、最後にブローするんですからね。本当は毛先も揃えたいところなんですけど、さすがにそこまでは・・・」
「勘弁してくれ・・・」
 うんざりとした調子で悟浄がぼやけば、八戒はにっこりと笑ってシャンプーのボトルに手を伸ばした。
「えぇ。そのかわり、もう暫く我慢してくださいね。寝てしまっても構いませんから」
(・・・寝れるわけ、ねぇだろ・・・)
 八戒の手が優しく自分の髪を玩ぶのに、それを感じている自分が冷静になれる筈もない。
「悟浄、湯あたりでもしましたか?顔が赤いですよ」
 気付いているのかいないのか、そんな言葉を投げてくる八戒が、時々憎らしく感じる。
 悟浄は一つ、大きな溜息をつくと、挑むような視線を八戒へと向けた。
「なるべく手短にやってくれよな」
「はいはい」
 悟浄は気付いていなかったが、その深紅の瞳がほんの少しだけ潤んでいた事を、八戒は見逃さなかった。
 だからこそぶっきらぼうに応える悟浄に、笑いが隠せない。
「悟浄」
「ん?」
 ほんの少しの意地悪も込めて、『ちゅっ』と音を立てて口付けを落としてやる。
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ」
 声にならない叫びを上げながら椅子からずり落ちそうになる悟浄に、笑いを堪えきれなくなった八戒が震える腕でその体を支えた。
「だ・・・大丈夫ですか?」
「・・・・・・・・・しらじらしいこと言ってんじゃねぇよ」
 顔どころか耳まで真赤に染めた悟浄が睨みながら文句を言うが、迫力なんてこれっぽっちもない。
「すみません・・・」
「なら、笑うなよ」
 そうは言っても、零れる笑いは隠せない。
「ったく。ほら、そんなんじゃ、いつまで経っても終わんねぇだろ」
「えぇ、すみません」
 謝る声は相変わらず震えているが、とりあえず悟浄の髪を洗面台に戻す事には成功する。
 再びシャンプーを手に取りながら、八戒は目に付いた悟浄の耳朶の赤さに目を細めた。
(やっぱり、可愛いんですよねぇ)
 悟浄に知られたら、それこそ顔を真赤にして怒りかねない事を八戒はこっそり思いながら、その身体を僅かに下げる。
「悟浄・・・これが終わったら、ちゃんと・・・・・・・・・・・・」
「〜〜〜〜〜っ!お前って、サイテー!!」


   その後、ブローまで終えた悟浄が椅子から立てないほどに消耗していた事は・・・言うまでもない。




悟浄は手フェチだったというお話(爆)
元は『八戒って、悟浄の髪の毛を洗って上げる事になったら、トリートメントどころか
ブローまできっちりやるよね』と、某チャットで盛り上がってしまったから(苦笑)
まぁ、偶には(最近いつもかも・・・)甘いお話も、ってことで。




† back †