【 学園天国 】
「そう言われましても……」
珍しく、八戒が困惑した声を出している。
「ぜったいズ・ル・イー!」
「そーそー。いいじゃん、たまには」
「だから……」
その正面にはお子様二人――もとい、悟空と悟浄。
「さぁんぞぉー」
聞き分けのない子供たちのダブルアタックに対抗しきれなくなった時の切り札である一家の大黒柱の名を呼べば、予想通りに沈黙でもって返される。
八戒は、近年稀に見ない程に、困りきっていた。
事の起こりは出立時。いつものように一夜の宿に別れを告げて、旅を続ける為にジープへと乗り込もうとした時だ。
旅に出てからというもの、いつの間にか定位置と化していた座席順。運転手である八戒は兎も角、助手席に三蔵が後部座席に悟空と悟浄が座っているという状況に、突如悟空が異を唱え始めたのが発端だった。
「俺もたまには前に行きたい!」
ジープの助手席側の扉にしがみついた悟空が、声高に叫ぶ。その様子は、デパートのおもちゃ売り場でよく見かけるお子様のようだ。彼らは時として巨大雑巾と化して床掃除をしているが、八戒はあの様子を見るにつけ、僕もあんな風に我侭を言える子供だったら人生違っていたかもしれませんねぇと感慨深く思っていた。……というのは余談として。
扉をしっかりと抱え込んだ悟空を引き剥がすのは、いくら八戒と言えども骨が折れる。純粋な力勝負では適わない上に、下手をするとジープの扉の方を壊しかねない。助けを求めるように視線を泳がせた先にいた悟浄は、助けになるどころか咥え煙草の口端を上げて「いーじゃん」と言った。
「俺もサンセー。助手席の方が一人分のスペース確保されてるから、楽だし。ってことで、俺も前に行きたーい」
右手を肩の位置まで挙げて、助手席立候補の意を示した悟浄は、然もおかしそうに目を細める。
完全に、遊んでいる。
半分は悟空へのあてつけだろうが。
「えー?悟浄もかよ!」
「そ。小猿ちゃんのお隣りさんも飽きたしー。でも三蔵さまと肩を並べるのも、ちょーっとねー」
勝手に騒ぐ二人を前に、八戒は頭を抱えた。
「あのですねぇ、三蔵が助手席に座っているのは、ナビゲーターをしてくれるためなんですよ?」
そう。滅多に指示はしてくれないが、一応旅の行程は三蔵と八戒とで決めている。つまり、三蔵はこれから行く道を、地図上とはいえ頭に叩き込んではあるのだ。
ちなみに、直ぐに宿から抜け出してしまう悟浄と、食欲と睡眠欲を満たす事に集中してしまう悟空は、旅の序盤でその作戦会議からは外されていた。
「貴方たち、ちゃんとナビしてくれるんですか?」
言外に「地図が読めるのか」ということを臭わせながらも八戒が言えば、悟空は自信満々に胸を叩いた。
「あったり前じゃん!……で、ナビってなに?」
「…………」
愛らしく小首を傾げた悟空の頭に、八戒と、何故か悟浄の重い溜息が二つ、落ちた。
そして。
陽の昇る方角に走り始めたジープの助手席には、今は悟空が陣取っていた。
両手で広げた大判の地図は、景気良く風をはらんではためいた。ともすれば手の中から飛び立ちそうなそれを、悟空は必死になって捕まえる。
「うわっ…」
「ごくー、地図、畳んで必要なトコ表にしとけよ。後ろから見てて怖いから」
「あっ、そっか」
慌てて地図を畳み始める悟空の手元を、見るともなしに見ていた悟浄が眉を顰めた。
「お前……表を中にしてどうやって見るつもりだよ」
「え?ちょ…待って!どっちだって?!」
走り始めて十分ほどしか経っていないと言うのに、万事が万事この調子だ。
横にいる三蔵の額に浮いた青筋がくっきりはっきり大きくなるのを感じ、悟浄の背中には冷たい汗が伝う。
三蔵がキレるのが先か、悟空が諦めるのが先か。いや、どう考えても前者の方が早い。
「だーかーらー」
「あの…」
指し示してやろうと悟浄が後部座席から伸び上がったその時、間に割り入るように八戒が声を掛けた。
「へ?あ!なに?!」
「今、どの辺まで来たのか教えて欲しいんですけど。予定通りなら、そろそろ横道に入らなければならない筈なので」
「え?!ウソっ!ちょっと待ってっ!っってぇ!!」
八戒の言葉に慌てた悟空がまた地図を広げようとして、案の定風にあおられる。一瞬だけ空に浮いた地図を、何故か四つの手が……捕まえた。
一つ目と二つ目は、悟空の右手と左手。三つ目は、後ろから伸びた悟浄の左手だ。そして、残った最後の手は……。
「あぁもう、気を付けて下さいね。この地図が一番高いんですから。で、僕らは大体この辺にいるわけで……あぁ、後十分は掛かりませんね。ここを曲がったら、次の街までは二時間ですからね」
悟空に注意をし、片手で支えた地図を目で追いながら、正確に時間を割り出していく……八戒。しかもジープは絶好調で疾走中だ。
「「だっ……!!」」
完全に脇見運転をしている八戒の姿に、悟空と悟浄が揃って酸欠の金魚の真似をする。
「っぶねーな!前向け、前!」
辛うじて、先に復活できたのは悟浄の方だった。これはもう、付き合いの長さとしか言いようがない。
悟浄は怒鳴りながら空いた右手で八戒の頭を鷲掴み、無理矢理前を向かせようとする。……が、八戒が素直に前を向く筈もなく。
「大丈夫ですよー。慣れてますから」
と、爽やか笑顔で返された。
「違うだろ……それは……」
脱力感に苛まされた悟浄はがっくりと肩を落とし、そのまま座席に埋もれるように腰をおろした。
そして、足を振り上げると器用に助手席の背凭れを蹴り付ける。
「なっに、すんだよ!」
「コータイ」
「あぁ?!」
「八戒、一度ジープ止めて。悟空はナビ失格ってことで、俺が代わるから」
「なんだよ!勝手に決めんなよ!」
憤りも顕わに怒鳴る悟空を鼻先で笑うと、悟浄は横目で三蔵の方を見た。
「……悟空」
「なに!?」
「死にたくなかったら、大人しく移動しろ」
「…………………ハイ」
流石の悟空も、保護者のこめかみにくっきりと浮き出た青筋には、勝てる筈もなかった…。
後、二時間。
そう言われたから、きっかり二時間経てば次の町へは着くのだろう。
悟浄はぼんやりと流れ行く景色を見ながら、ジープの振動に身を任せていた。
穏やかな日差しと、心地良い風。悟空と交代してから三十分も経っただろうか。後ろの二人はすっかり寝息を立てている。
(そういや…)
ともすれば拡散しそうになる意識を根性だけで繋ぎ止めた悟浄は、過去の自分に思いを馳せる。
そういえば、前はこうして八戒と二人、ジープに揺られて買い物なんかにも行ったっけ。
あの頃はまだ、八戒がこんな性格だとは知らない頃で……いや、薄々とは思っていたけれど、信じきれない部分もあったころで。
こいつがハンドルを握ると人格が変わるような人種だったことに、何度後悔させられた事か。
何せ悟浄の家は、森の中の一軒家である。そこまでは結構険しい道が続いているわけなのだが、八戒ときたら四十五度の坂道もなんのその。笑いながら「ジープでもウィリーなんてできるんですねぇ」なんて実践してくれるサービス精神には、涙すら出た。
その点、後ろのお荷物…もとい、悟空と三蔵が乗っている時は安心だ。単に機会がなかっただけかもしれないが、今のところ無茶な運転も然程せずに済んでいる。
大体、八戒と一緒に乗っている時なんて……。
「あ……」
「どうしました?」
「い…いや……なんでもねぇ」
そう、悟浄は不意にとんでもない事実に気が付いてしまった。
今まで悟浄は、八戒の運転する車に乗っている時にナビなんてしたことがなかったのだ。
どこか遠出をする時には、八戒は必ず事前に地図を眺めている。「たまにはナビしてやるよ」と、悟浄も地図を覗き込むのだが、それが役に立った試しがない。いつだって八戒は、目的地までの地図を完璧に頭の中に叩き込んでいるのだ。
なら、あの「三蔵はナビを云々」という話は、悟空と自分を助手席に座らせない為の嘘だったのだろうか。
それならそれで、なんとなく腹も立つ。
「まー、別にいいんだけどさー」
ぼそりと呟き、景色を眺めるふりでそっぽを向く。自分でも呆れる程に、子供っぽい感情だ。
それをどうにか誤魔化したくて、半分無意識にポケットの中の煙草を探る。これを吸ったら、また後ろから文句がきそうだけど…。
「悟浄」
「うぇ?!」
一本くらいなら誤魔化されてくれないだろうかと、煙草の箱を握り締めた瞬間、名前を呼ばれた。
「こうして並んで走るのも、久し振りですねぇ」
「あ……あぁ、そうだな……」
丁度そのことを考えていただけに、声の力が抜けていく。だが、八戒は気にした風もなく前だけを見ている。
「前はよく、こうしてジープで出掛けましたよね。なんだか……旅に出る前に戻ったような気になってしまって……」
その、旅に出る前の事を思い出しついでに余計な事まで思い付いて、うっかり沈みかけてる男が横にいるんですけど。とは言えず、悟浄は黙って頷いた。
「僕も初めの頃は安全運転を心掛けていたんですけど、あんまり静かだと悟浄ってば直ぐに寝ちゃうんですよね。助手席で寝られるのって、結構ムカツクんですけど」
「……へ?」
「それで僕も、ついむきになって無茶な運転をしてみたりして。思えばジープにも悪い事をしたなぁ……なんて、反省した頃もあったんですよね」
(じゃ、あの無謀運転の数々は、八戒の趣味じゃなかったのか?)
死を覚悟するような運転に付き合わされたあの日々は、単に俺が寝ていたのが悪かったってだけなのか?
あまりの事実に悟浄の思考がフリーズしかかる。
だが。
更なる爆弾という物は、常に用意されているらしい。
「大体、悟浄の寝顔なんて『イタズラして』って言ってるようにしか見えないんですもん」
「……はい?!」
「一々ジープを止めるわけにもいきませんし、そうなったら悟浄に起きて頂くしかないんですよねー。残念な事に」
いつ?!どこで?!誰が?!っていうか、勝手に誘われてるアンタがおかしいんじゃ?!
大声で反論したくても、後ろで寝ているはずの三蔵たちのことが頭を掠め、寸でのところで言葉を飲み込む。それが、いけなかった。
「ま、横にいればこれくらいはできるかもしれませんがね」
スッと、伸ばされた八戒の指先が悟浄の頤に触れ、愉しそうに弓形に細められた緑碧の瞳が残像のように残る。
瞬きも、呼吸も忘れ、時間が止まる。
その、こめかみに。
――ガチリ。
「……このバカどもが」
「あ、三蔵。起きたんですか」
冷たい感触を感じた悟浄の背中に、ザァっと冷や汗が流れた。
「ささささささんぞうさまっ」
「どうした。とうとう脳にキたか?」
珍しく三蔵が饒舌に問い返している事実にも気付かず、悟浄はゆっくりと銃の照準から逃れつつ、八戒との距離を作る。
「俺っ、やっぱ後ろ行くわ。な。八戒も慣れたナビの方がいいだろうし」
「あ、別に気にしなくてもいいんですよー。僕、悟浄のナビも嫌いじゃありませんし」
のんびりとした口調で八戒が口を挟むが、言葉の裏に感じる『何か:』が、悟浄の恐怖を更に煽る。
「いや!是非、換わってクダサイ。三蔵サマ」
動いているジープから今にも転がり落ちようとせんばかりの悟浄の姿に、三蔵は一つ、溜息を吐いた。
「八戒、そういうわけで交代だ。ジープを停めろ」
見境なく盛ってんじゃねぇよ、という言葉と、八戒の小さな舌打ちが重なったのは偶然か。
幸いにして、シートの背凭れを乗り越えて後部座席に転がり落ちた悟浄には、どちらも聞き取る事は出来なかった。
脇見運転に無謀運転。貞操の危機と、ありとあらゆる「八戒による人災」を回避できるのが三蔵一人だなんて、しかも一見羨ましくも思える助手席が、その実生命の危機さえ感じさせる一番の貧乏くじの席だったとは、体験してみなければ解らないもので。
翌日からは誰も席順に文句を言う事はなくなった。
ナビなんて必要としない、西への旅はまだ続く。
みーすけ様からリクエスト頂きました、89350HIT記念SSでございます。お待たせして申し訳ありませんでした!
で、お題はジープの助手席争奪戦とのことでしたが……、原作2話では悟浄が助手席に座っているのに、それ以降では全て三蔵が助手席にいるんですよね。それは何故か。理屈としては西域方面の情報を持っているのは三蔵だから、ナビを出来るのも三蔵ってことなんでしょうけど、ワタクシ一番の理由は違うと思ってます。それは…「三蔵様は悟浄の頭で視界が塞がれるのが嫌だから」!これ以外の理由がどこにあるというのでしょう!つまり、三蔵は実力行使で助手席の座を奪い取ったと。こんな想像が私の頭の中には根強く蔓延っている為に、どう話に繋げるかが悩んでしまいました。な…長い割に碌でもない結果でごめんなさい。苦情可。でも謹んで捧げちゃいます。ありがとうございました。