ささやかな幸せ



 悟浄は上機嫌だった。
 まだ湿ったままの髪からはポタポタと滴が落ち、床に小さな染みを作っていたけれど、そんな事はお構いなしに機嫌が良かった。
 何故そんなに機嫌が良いのかというと・・・たいした理由ではない。
 悟浄は風呂から上がったばかりであり、彼が向かう先には良く冷えたビールが待っている。そんな些細なことに幸せを噛み締めている・・・まったくもって小市民な男である。
「やっぱり風呂上りには冷たいビール、ってね♪」
 冷蔵庫の扉を開けると、冷やりとした冷気が悟浄の火照った素肌を撫でる。腰にタオルを巻いただけ、という恰好の悟浄にはその涼やかさが心地好く、彼の機嫌ゲージは更にプラス方向に上昇する。
 そして、その幸せの象徴であるビールの缶に手を伸ばした瞬間に・・・厄災は訪れた。


(さわ・・・)
「うぎゃぁ!!」
 ゴトン、ゴロゴロゴロゴロ・・・・・・・
 手から滑り落ちたビールの缶が派手な音を立てて床を転がって行くが、それどころではない。
 悟浄は関節が白くなる程に冷蔵庫の扉を握り締め、立ち捲くった鳥肌を必死に宥める。
「て・・・てめぇ〜〜〜」
「はい?」
 怒りに肩を震わせ、地を這うような重低音で吐き出された言葉は、どう聞いても不穏な響きを含んでいたが、向けられた当人は全く意に介さないという風情で暢気に応える。
 悟浄はゆっくりと冷蔵庫の扉を閉め、背後の不埒な人物を振り返った。
「いきなりヒトのケツ触るんじゃねぇ!!」
 文句ナシに直滑降で悪くなった機嫌のままに鉄拳付きで怒鳴れば、その拳はあっさりと受け止められてしまう。
 その拳の先にいるのは、当然ながら彼の唯一の同居人・八戒であった。
「やだなぁ。なにも本気で殴る事はないでしょう?」
 にっこり笑顔と余裕の表情で言われれば、うっかり気力も萎えそうになる・・・が、ここで怯んではいけない。
「だったら気配殺して人の後ろに立った挙句にケツまで触んな!!」
 あぁもう、なんだってこの俺が自分の家で野郎にケツを触られて、こんなに情けない思いをしなくちゃならねぇんだ・・・。
 しかし、そんな悟浄の思いをさっぱり判っていなさそうな顔で更に笑みを深めた八戒は、掴んだままの悟浄の腕を軽く引いた。すると当然のように、不安定な態勢の悟浄は八戒の腕の中に収まってしまう。
「おい・・・」
「何でしょう?」
 後ろから抱きすくめる形で捕われた悟浄に、八戒の表情は見えない。
 だがその声音が笑いを含んだ物だという事くらいは、十分過ぎるほどに判ってしまうのだ。
「あのさぁ」
「はい」
「この手は・・・何?」
 最早くっきりと刻まれた眉間の皺を隠そうともせずに、悟浄は空いた方の手で己の太腿を這いまわる手を捕らえた。
「僕の手ですが」
「俺が聞きたいのはそういう事じゃなくてだなぁ」
 ギリッと音がするほどに力を込めれば、流石に八戒の手も止まる。
「な・ん・で!こんなセクハラみたいな真似をしくさってるのかってコト」
 はっきり言えば体格差なんて殆どない、ガタイのイイ野郎の太腿なんざ触って何が楽しいと言うのか。俺だったらきっぱりゴメンだ。
「で?御返答は?」
 慇懃無礼に訊ねてやれば、八戒はそれまで捕らえていた悟浄の右手を離し、その空いた手を腰へと回した。
「悟浄が悪いんじゃないですか」
「へ?」
 耳朶に直接触れる近さで囁かれた言葉に、思わず我が耳を疑ってしまう。
 あまりに(悟浄にとっては)的外れな言葉に、反論してやろうと無理に首だけ捻じ曲げ後ろを振り返れば、僅かに細められた八戒の視線にかち合った。
「僕は前にも言った筈ですよね。『そういう恰好で歩き回らないで下さい』って」
「あ・・・」
 そういえば、確かに以前そんなコトを言われた記憶がある・・・気がする。あの時も風呂上りにタオル1枚でビールを飲んで――湯冷めして風邪をひいたのだ。
 しかもタイミングが悪かったらしく、大分拗らせ暫くベッドの住人になっていたのである。ついでに八戒の嫌味攻撃も加わり、散々な目にあった。
 この件があって以来、悟浄は『一応』湯冷めをしない様に気を付けてはいた・・・のだが、今日はすっかりさっぱり忘れてしまっていたのだ。
(俺とした事が、目先の幸福に惑わされたぜ)
 後悔しても時既に遅し。
 しかも悟浄の分は果てしなく悪い。
(ここは素直に謝っといた方が得策だよ・・・な)
「あのさ、悪・・・」
 ・・・かった、という悟浄の謝罪の言葉は最後まで発することなく、八戒によって遮られてしまった。
 いや、正確には八戒が落とした爆弾発言によって・・・
「そんな煽情的な恰好で目の前に来られたら、欲情しちゃいますから」
≪ビキッ≫
「責任とって下さいね
 にっこり笑顔にハートマーク付きで落とされた爆弾は、的確に悟浄の思考を破壊した。
(そんな爽やかに『欲情』とかって言うな〜〜っ!っつ〜か、『責任』ってナニ?!)
 頭の中では100万語の疑問と文句が回るが、残念な事に一言たりとも発せられることはなく、悟浄の口はただただ開閉を繰り返すばかり。まるで酸素を求める金魚である。
 そんな悟浄を楽しそうに眺めていた八戒は、不意に悟浄の腰を支えていた右手を動かした。
 ほんの僅かに手首の角度を変えただけで、八戒の手は悟浄の脇腹を通り、その下にあるタオルの結び目に触れる。
 元々挟んであっただけのそれは、加えられた僅かな衝撃だけであっさりと解け・・・
「ぎ・・・!?」
 タオルは重力に従った。
 次いで悟浄の口からは意味をなさない悲鳴らしきものが漏れ、ズルリと身体が下へ滑る。
 運良く腰に回されていた八戒の腕は悟浄の体を支えるほどの力はなく、悟浄はそのまま床に座り込み、落ちたタオルを即座に拾い寄せることに成功した。
「か・・・可愛い反応しますねぇ」
「〜〜〜〜〜っ!」
 怒りに打ち震えて振り向けば、背後には爆笑した八戒の姿。
「このっ・・・ヘンタイ!」
「何を今更」
「サイテー!!」
「そんな、女の子みたいなコト言わないで下さいよ」
 もう、何を言っても無駄である。
 こめかみに青筋を浮かばせながらも、悟浄はこの場を去るためタオルを再び腰に巻き付けようと必死に手を動かす。
 だが・・・
「うわぁっ!」
 ひょい、と身体が持ち上げられる感覚に驚いて声を上げれば、額に八戒の口唇が触れた。
「湯冷めしたら大変ですから、ベッドまで運んで上げましょうね」
「バカっ!降ろせっ!」
 何とか八戒の腕から逃れようと暴れるが、腰に引っ掛けただけのタオルが気になって思い切った行動が取れない。
 その間にも八戒の足は寝室へ向かって進む。
「離せ降ろせ止まれ〜〜〜っ」
「あはは。あんまり暴れると本当に落ちますよ」
 体格差が殆どない筈の悟浄をここまで軽々と持ち運ぶとは、流石妖怪である。
 じたじたと抵抗らしい抵抗も出来ないまま、悟浄は台所が遠退くのを焦る感情で捕らえた。
(俺はただ、風呂上りのビールを楽しみたかっただけなのにぃぃぃ)
 眼の端に映ったビールの缶に、何故こんな事になったのかと悲しい気持ちで想ってみても、もう遅い。悟浄の運命はベッド行きへと既に無理矢理決められてしまった。ついでに言えば、その後の事は押して知るべし。・・・・・・合掌。

「やっぱり据え膳は美味しくいただかないと」
 この八戒の言葉に、悟浄のなけなしの一撃がお見舞いされたのは、言うまでもない。




花詠さんに捧ぐ、変態八戒・・・(爆)。お題は『湯上り』。
・・・お待たせしたのに申し訳ない。付属品も一緒にお付けしますので、
宜しければ受け取ってやって下さいませ(--;)



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