<嗤える話>
身動げば、グズグズという音がした。
腐った肉と肉の間に挟まった、空気が立てる音だ。
身体の動きに合わせて、空気が揺らぐ。
それに乗せられて、腐臭が鼻先まで届きやがった。
痛みは、ない。
単に痛覚がイカれちまってるせいかもしれねぇが、痛くはなかった。
ただ、吐きそうなこの匂いだけは正直勘弁して欲しい。
動くかな〜なんて思いながら少しだけ眼球を下に向ければ、ぼやけながらも傷口が見える。
血と、肉と、泥と。
自分で見ても汚ねぇと思った。
白く見えたのは、骨か腱か。
まぁ、どっちだって大した違いはねぇだろ。
それよりも頭に浮かんだのは。
『こりゃぁ義母さんもイヤな顔する筈だわ』
なんて、現状にはこれっぽっちも関係のないことだった。
嗤っちまう話、マジにそう思ったんだ。
仕方ねぇだろ?
八戒たちと別れたのは失敗だったかな〜と薄ぼんやり思ったが、先に行けと言っちまったのは俺だから、今更愚痴も言えやしねぇ。
みっともない真似だけはしたくないって、最後のプライド。
煙草を吸いたくなってポケットを探る為に右手を動かそうとしたら、面白いくらいに動いてくれなかった。
おいおい、俺の腕だろ?
そう思っても、バックリ裂けた二の腕を見たら面倒になって力を抜いた。
腕を動かせない事実に納得したんじゃない。本当に、これ以上動かすのが面倒なだけ。
前にこれと似たようなことがあったと、唐突に思い出す。
兄貴とお袋と。3人であの家に暮らしていた頃だ。
やっぱりバックリ開いちまった傷口を、兄貴が手当てしてくれていた。
『痛かったら、言え』
ぶっきらぼうに言われた言葉に、俺は首を横に振った。
『痩せ我慢なんかしても、何の特にもならねぇぞ』
そう言われたが、マジに痛くなかったんだ。
焼けるような熱さと、流れていく血液。
ボタボタとたれる真っ赤な血が、床に馴染めず溜まっていった。
それを見たら何だか可笑しくなって、嗤った。
外側だけじゃなくナカまでこんなに赤いことに、嗤った。
醜い皮袋の中に、真っ赤な液体がたっぷり詰まった俺のカラダ。
どっかに行っちまえるように、骨とか筋肉とか余分なものもちょこっとあるが、ただそれだけ。
真っ赤な俺が、血だらけになって、全身赤いところしかなくなって、そうして死んでいくのかと思ったら。
また、嗤えた。
目を閉じれば、お袋の姿が見える。
お袋は綺麗な女だった。
そして綺麗なものしか見ようとしない、女だった。
テメェの手でムチャクチャ殴っておいて、その癖血でも流そうモンなら狂ったように詰った。
呪詛のように俺のことを『汚い』と、幾度も叫んだ。
だから俺も、自然と自分が『汚いモノ』だと覚えていた。
まぁ実際、お世辞にも綺麗とは言い難いガキだったんだけど。
外に出りゃ、近所のガキ共が石やらゴミやら投げつけるわ、ストレートに殴り合いの喧嘩になるわ。
流石の俺も、あの当時は8割方負けてたな。多勢に無勢ってヤツだし、体格的にも体力的にも負けてた。
でも別に、悔しいと感じたこともなかった。
そういうもんだと、思っていたんだな。
そんで家に居りゃ、義母さんがことある毎に殴るだろ?生傷が絶えねぇどころの話じゃなかったなぁ。
肉がつかねぇから骨は浮いてるわ、皮膚はガサガサだわ。見えるところも見えないところも、かさぶたと痣だらけ。
偶に兄貴が手当てしてくれるんだけどさ、傷テープ貼んのがこれまたヘタなわけ。俺も俺で放っておくから何度か被れもしたっけ。
マジに汚かったわ、今考えれば。
それでも寝床と食料があるあの家は、兄貴がいなくなってからの数年に比べれば全然イイ場所だったんだけど。
そうそう、お袋の話だっけ。
俺が一緒に暮らすようになってからは、酒は飲むわクスリはやるわの直滑降路線でヤツレていったけど、それでも綺麗な女だったぜ。
緩く波打つ髪に護られるようにある、細い項が印象的だった。
妖怪なだけあって力は強かったけど、手足も細くて長くて、華奢に見えた。
そしてその性根は、燃え盛る紅蓮の焔のような女だった。
盲目的に『愛』だけに生きるオンナ。
バカなガキだった俺は、あんなオンナに愛されてみたいと、本気で願っていた。
身も心も焼かれるような愛に晒されてみたいと、本気で想っていたんだ。
愛という感情がどんなものなんだかは、未だに解らない。
独占欲とかいうのなら、もっと解り易いのに。でもアイってのはもっとキレイなもんなんだろ?
いつか解る日がくるんじゃないかって期待してたけど、一生解らないんだと確信もしてた。
『今』この状況で解らないってんなら、『一生』解らないままでも不思議じゃねぇだろ。
短ぇなぁ、俺の一生って。
長生きなんてするつもりもさらさらなかったけど、こうも呆気なく終れるとは思ってもみなかった。
あぁ、でも。
これで終っちまうくらいなら、もう一回くらいアイツに犯らせてやればよかったなぁ。ってか、俺がしたいんだけど。
そんで嘘でもいいからアイツに『アイシテル』の一言くらい、言ってやりたかった。
アイツにゃあんまり嘘吐きたくなかったから、今まで一度も言ったことなかったんだけど、それを今更後悔してる。
言ってやった瞬間のアイツの顔が想像出来るから言うのが嫌だったんだけど、一度くらい拝んどけばよかったわ。
結局俺はアイツの顔が好きで、アイツのキレイな手が好きで、アイツのくれる快感が好きで。
こんだけスキなら勘違いの一つや二つ許されるってもんだろ。
最期にアイツに触れたいと思った。抱き締めて、暖めてもらいたいと切実に思った。
血が足んないせいで寒いだけなのかもしれないけど、それでもアイツの腕の中で死ねたら『俺の人生まんざらでもなかった』くらいの戯言も吐けるくらいに楽しくなりそうだろ?
でもここにアイツはいないから。
俺はたった一人で、汚泥に塗れながら逝くしかなくて。
ガキの頃に思った通りに、辺りを真っ赤に塗り潰して死んでいく。
そんな最期しか迎えられなかった自分に、また。
―――嗤った。