「この広い世界の中で生きていくためだけに手に入れたモノ」



 幼い子供のように、丸くなって眠る。
 まるで母親に抱かれる時の温もりを求めるように。
 そうして眠った日は、必ずと言って良い程、決まった夢を見る。
 自分だけに、優しく微笑みかける、瞳。
 その美しい瞳に、まるで今ではこっけいとしか写らないであろう、幼い自分。
 何を求めていると言うのだろう。それは、自分が作り出した幻想でしか有り得ないと言うのに。
 どれだけ手を伸ばしても、決して真実のその手には届かなくて。
 映し出されるのは過去の残像。
 何時も、笑っていて欲しかったのに。涙を浮かべている顔しか今でも思い出せなくて。その涙が綺麗に零れ落ちた瞬間に、もう一人の、大切な人の涙が目に入ってきた。
 結局、誰一人守れないから。だから、誰も守らない。生きて行く為に、それは必要のない事だと思っていたから。
 まさかそれを覆す事になるとは、本当に自分でも思っていなかった。



「……穏やかじゃあ、ないですよねぇ…」
 にこやかな笑顔に、然もすればまるで今日の夕食の心配でもしているかのような口調で、八戒は思っている事を口にした。何時も、大概の事がおこってもさして動揺する事のない、彼にとってはいつもと変わらぬ口調なのだが、今置かれている、この状況ですらそんな口調で話しかけてくる八戒に、悟浄は大きく溜息をつく。
「確かに穏やかじゃ、ないけどなぁ…」
 目の前に横たわる、人の容を既にとどめていないその死体へと哀れみにも似た目を向けて呟いた。自分が、その死体の半分を築いたのは事実なのだが、無残にも殺された後にまで、穏やかな口調で、殺された相手に、まさかこんな事を言われるとは、相手も思ってはいなかっただろう。
「なんですか?悟浄?」
 苦笑をも浮かべている悟浄に対して、何時もっと変わらない笑顔を浮かべて、八戒は問いかけの言葉をかけた。
「いーんや………」
 その問いかけにも、何ら返す言葉を見つけられず、悟浄は足の向きを変えた。
「ま、何時までもこんな所にいても仕方ないでしょ。先に進もうぜ」
「そう、ですね………」
 小さくそう答えて、八戒も悟浄の後について行く。目指す先は、普段の自分達とはまったく縁のない、『寺院』。しかも、この世界で最高僧と言う肩書きを一応は持つ相手の住まう場所。
 今、自分達の身を置く世界で余りにも急にやって来た変貌の意味を問う為に。
 その度の始まりから、既に異変を目の当たりにしたところだ。人と妖怪の共存する、理想の地、『桃源郷』。
 いつもと変わらない平穏な夜が来て、そうして目覚めた朝の世界は、変わり果てた妖怪の姿。
 突然の妖怪達の暴走。昨日までは、さっきまでは一緒に笑い合い、酒を飲んでいたのに。
 何が彼らを変えたのか、その理由をもしかしたら知ってるかもしれないその人に逢う為に、住み慣れた地を、2人は離れた。
「矢先から、こーんなにいっぱいの方と遊べるとは、思っちゃいなかったけどなぁ…」
 煙草に火をつけ、煙を吐き出しながら、悟浄は呟いた。そんな悟浄の言葉に、八戒も頷きながら言葉を繋げる。
「そうですねぇ。まさかあんな歓迎してもらえるとは思ってませんでしたよ、僕も。幸先、凄くいいんじゃないですか?」
 今の今まで、殺戮とも呼べるであろうその行為をしてきた2人の言葉とも思えぬ会話をしながら、停めてあるジープに乗り込む。
「もしかしなくても、今日は野宿ってやつ?」
 ジープの助手席に深く腰をかけ、横目で悟浄は八戒の事を見た。
「そうですねぇ…。先ほどの方々のお蔭で、今日中には町には辿りつけないだろうと思ってた所だったんですよ。悟浄からそう言ってもらえると、安心しますよ」
 相も変わらずに微笑みを浮かべて言われたその言葉に、悟浄は苦笑いを浮かべた。
「天気の日で、良かったなぁ……」
 ゆっくりと煙草を口にし、空を見やる。
 紅い、太陽の光に悟浄は目を細める。その光の指す方へと、車は走り出した。



 夢を、見た。
 幼い頃から繰り返し見る夢。
 そうして目覚めた朝、聞こえてきたのは、何かが壊れる音だった。正確には、その音で嫌がおうにも起きてしまったのだが。
 壊れたのは家の扉で。真っ赤に泣き腫らした目をした近隣の人間たちが悟浄と八戒の住む家に押し入ってきた。
「なんと言うか…行儀の悪い人たちですねぇ…」
 一瞬、何があったのかと、寝起きの頭で考える横から聞こえたのは、決して機嫌がいいとはお世辞にも言えないであろう八戒の声だった。
 確かに、まだ朝日もようやく顔を出したかと言う時間にノックならまだしも、それどころか仮にも人様の家のドアを叩き壊してきた来訪者に、ようやく悟浄は思考がまわり出した。
「確かに…このドアの請求書、誰宛に出せば払ってくれるん?」
 部屋の中央置かれている木の椅子に座り、その横にある机の上に置かれている煙草に火をつけながら、悟浄は自分の家に入りこんできた人たちの顔を見まわした。
 いつもは優しく笑いかけてくる、優しい人たち。けれども今は、見た事もないほどに怒りを露わにしていた。
「………出て行って…今すぐに、ここからっ」
 吐き出すように言われたその言葉に、八戒も悟浄も顔を見合わせる。
「そんな…何を藪からぼうに…」
 困ったような笑顔で、八戒はその言葉の主に向かって話しかけた。
「出て行って。貴方達も…殺すんでしょう?私達の事をっ」
 優しい笑顔で。真っ直ぐな瞳で、愛らしい声で。何時も自分達を呼んでくれていた、優しい少女。その少女の口から出た言葉に、八戒も悟浄も返す言葉が見つからなかった。
「お前達もそうやって優しいふりをして、俺達を食い殺す気だろうっ」
 少女の言葉に、まるで何かの糸が切れたかのように、その場にいる人々が一斉に2人に向かって言葉を投げかける。それは、誰にでもわかる殺意と憎悪の固まりで。
「……待って下さい。そんなふうに責められても、僕達には何の事かさっぱり…」
 八戒の言葉も、さして静止の意味を持たない。それどころか、今まで以上に憎しみを込めて叫びは続けられる。
 バン、と大きな音が響き、その音によってようやく静寂は訪れた。
 その音のした方へと一斉に視線が向く。不機嫌極まりない表情を浮かべ、煙草をくわえたままの悟浄が、目を細めて睨んでいる。
「で?俺達はなんでこんな朝っぱらから立ち退き食らわないとなんないわけ?ここ、借家じゃないぜ?」
 その言葉に、誰も返事を返さなかった。
 重い静寂がその場に流れる。それを破ったの、高い少女の声だった。
「…殺されたの、私の父さんが…。さっき、急に家の中に入って来た妖怪に…」
 消え入りそうな小さな声は、次第に感情の昂ぶりとともに大きくなっていく。
「一瞬の出来事よ。何が有ったのかもわからなかったわ。あんなに親しくしていたのに…。私の父さんだけじゃない、ここにいる人たちの家族だって…ううん、みんな殺されちゃったわ、化け物に」
 涙を堪えているのだろう、震える唇を噛み締めて、その少女は八戒と悟浄を睨みつけた。
「そうよ、貴方達と同類の化け物にっ。貴方達も、殺すんでしょう?私達の事…その前に出て行って?もしも私達の事を殺すと言うなら、私達……」
 父親を失ったと言う、きっと行き場のない怒りを込めた瞳で睨みつけられ、2人はお互いの顔を見合わせた。ゆっくりと瞬きをして、悟浄は椅子から立ち上がる。そのまま何も言わずに、奥の部屋へと姿を消した。
「待てっ、話は……」
「話は、ついてますよ」
 男の言葉を遮り、八戒はゆっくりと口を開いた。
「確かに、僕達は……貴方達の大切な人達の命を奪った妖怪の仲間です。でも、だからと言って僕達が貴方達のことを殺す理由はありません」
 どこか哀しげな微笑みを浮かべ、八戒はその場に立っている人達をゆっくりと見た。
「でも、確たる理由は、ないんですよね。ただ、僕達が妖怪だから…大切な人を奪われたモノと同種だから……。それだけで恨んでしまう気持ちは痛いほど判りますから…」
「なーに、語り入っちゃってんの、おにーさんは」
 八戒の言葉を途中で遮り、悟浄は奥の部屋から顔を出した。
「悟浄………準備は?」
 悟浄の言葉に顔をあげて、八戒は静かに視線を悟浄へと向ける。
「ま、一番安心すんのは、俺達が出て行く事だろう?いーじゃんか、それで」
 ずかずかと、部屋の中を横切り、悟浄はドアの前に立つまさに招かれざる客の一人の男の肩を軽く叩いた。
「ま、そゆ事なんで、どいてくんない?」
 そんな悟浄の言葉に素直に従い、道をあける。悟浄の後を八戒も無言で続いた。
 家の横に停めてあるジープに乗り込み、悟浄は両腕を高くあげ、大きく欠伸をした。
「んじゃ、俺寝るから。なんかあったら起こしてな」
 そう短く八戒に告げ、そのまま目を閉じる。その言葉に軽く頷き、八戒は、まさに今まで自分達の家だった前に立ち尽くす、近隣だった人達に笑顔を向けた。
「今までお世話になりました。また、何時かお会いできるといいですね」
 そう言ってジープのエンジンをかける。静かに、けれども早く走り出した車を、残された人たちはただ黙って見つめていた。




「……最悪…」
 夜も深けきった頃、悟浄はジープの助手席で小さな声でそう呟いた。
 今朝、家を出てきた時の事を夢に見るなんて。まさか自分がそんな事をこんなに引きずっているなんて。
「本当ですねぇ…」
 不意に横から聞こえたその声に、悟浄は驚いて体を起こした。
「ああ、おはようございます。まだ今晩わ、ですかね?」
 いつもの、まさに笑顔を浮かべてこちらを見てくる八戒に、悟浄は溜息をついた。
「お前もかよ……」
 きっと、八戒も自分と同じで。いや、八戒の事だ、寝てもいないのかもしれない。
「同じ化け物、はちょっと痛いですよねぇ…さすがに」
 運転席のシートに体を預け八戒は言葉を続けた。
「でも、少しだけだとしても、僕はわかりますから…。すべてを憎んでしまう気持ちは…。自分の事を、わかりもせずに…ね」
 淡々とした口調で紡がれた八戒の言葉に、悟浄は静かに目を閉じた。
 八戒の持つ傷跡は、まさにそれに似て。
 きっと、あの村にいる人の気持ちも誰よりも解ってあげられたであろうに。八戒の過去を知る筈もない人達には、無理な事だけれど。
「…何、自分と同調して自分を憎んでんだよ…。お前らしくもない」
 上着の胸ポケットから煙草と取りだし、そっと口にくわえた。火を付けるでもなく、そっと吸い込んだ。
「自分憎むのって、結構自己陶酔できるけど、しんどいぜ?そんな事、わかってんだろ?」
 くわえてた煙草を手に戻し、悟浄は視線を八戒に向けた。その言葉に、溜息をついて、悟浄へと視線を合わせる。
 紅い瞳。
 この暗闇でも尚も怪しく光るその瞳が笑みを浮かべた。
「…そう、ですね…」
 八戒も笑みを浮かべて、そっと悟浄の頬に手を添えた。
 深紅の髪と深紅の瞳は、生まれてきてはならない子供の証拠で。
 それゆえに、自分を憎みつづける過去を持つ悟浄の事も、八戒はよく判ってるつもりだった。
 辛いのは、自分だけではない。
 自分があの村に住むよりも長い時間、悟浄はあの村でそれなりの幸せというものを得ていたのだ。それは、悟浄の出生の事を知る年老いた人達もいたが、だからと言って何を言うわけもなく、ただ楽しい日々を過ごしていて。
「………やっぱり、悟浄の瞳、好きですよ、僕は…」
 真っ直ぐに見つめてくる視線と、急に言われたその言葉に、悟浄は一瞬表情を作る事を忘れた。
「…俺も、八戒の目、好きだけど?」
 口元に笑みを乗せ、悟浄は八戒の手に自分の手を合わせた。
 まるでそれが合図だったかのように、ゆっくりと口唇が重なる。
 軽く交わされた接吻けの後、八戒はそっと指で悟浄の目元に触れた。
「もしも…悟浄が死んだら、その瞳、僕に下さいね。ずっと…僕を見ていてくれるように」
 綺麗な笑顔と、透き通る声で言われたその言葉に、悟浄は困ったような笑みを浮かべた。
「死んだら…って、何縁起でもねーコト、言うんだ、お前…」
 溜息まじりにそう呟いて、けれども真っ直ぐに八戒を見つめ返した。
「死んでからも、他の方見させてくんないわけ?」
 そんな悟浄の冗談めいた言葉に、八戒は笑いをこぼす。
「悟浄みたいな人、きっと閻魔様でも面倒は見れないと思いますから…。僕がちゃんと見てあげますよ」
「なんだよ、それ………」
 言葉は、八戒の接吻けによって遮られて。
 ゆっくりと、長い、けれども短いキスを交わす。
 不意に、椅子の倒された衝動に、悟浄は目を開いた。
「……八戒…お前ね…」
「悟浄が誘ったんですよ?今、僕の心は傷ついてるんですからそんな無防備な姿で慰められたら、ね?」
 にっこりと笑顔を作り、八戒は悟浄の首元に顔を埋める。
「なんだよ…それ…」
 言葉では否定しながらも、それでもゆっくりと八戒の背に腕を回した。
「ま、俺も確かにセンチなわけだし?」
 ゆっくりと動く八戒の舌の動きに、身を任せ、静かに目を閉じた。
「あ……」
 不意に顔をあげ、悟浄の事を見て、八戒はにこやかな表情で口を開いた。
「何だか、僕ってばジープに申し訳ない事しちゃいましたね」
 あはははははは、と言う笑い付で言われたその言葉に、悟浄は、がっくりと肩を落とす。
「………お前、わざとやってないか?」
 そんな悟浄の言葉を、まったく聞いてないような顔で、八戒は言葉を続けた。
「まあ、明日はきっと、宿で眠れると思いますし…。その時また誘ってくださいね、悟浄。じゃあ、おやすみなさい」
 そう言うだけ言って、運転席によりかかり、八戒は目を閉じた。
「……おい………」
 何も言えない、と言った表情を浮かべ、悟浄は眠りにつこうとする八戒に視線をやった。
 彼なりの、気の使い方。
 そんな気を使わせるほど、自分は落ち込んでいた事を否応無しに見せ付けられた瞬間。
「…ったく………」
 苦笑いを浮かべ、悟浄も助手席のシートに体を沈めた。そうして静かに目を閉じる。



      『またいつか、会えるといいですね。』



 その日の為に、動き出したから。
 何よりも今、まるで死んでいたみたいに生きていた時に戻るのはごめんだから。
 それは、生きる事への意味を教えてくれた人の為に。何よりも自分の為に。



 この旅が、どんな過去を、未来を映し出すかもわからないけれども。
 それでも笑うために、生きていくための手段だから。




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