『 再・生 』



「ほら悟浄。キレイに咲いたでしょう?」
庭から、八戒が手を振っている。
俺は手を振り返すのも何なので、窓にもたれて、煙草をふかしながらそのさまを眺めていた。
伸びかけてまとまりの悪くなった髪を、風が弄っていく。
……庭らしくなったなあ。
八戒が俺の住処に居付いて、ずいぶんとここは変わった。
もとは雑草の生えるだけだった家横のスペースを、まめまめしく手入れする八戒の足元には、薔薇の株がある。
白っぽい、だが微かに薄紅かかった花弁を、恥かしそうに開いている野薔薇。
「咲いたな」
枯れてると思ったのに。
八戒がミドリの双眸を細めて、笑う。
俺は空を仰いだ。
晴れ広がった、嘘嘘しいまでの晴天。
「イイ天気だな…」
雲一つない空を見ながら、俺の目は何故か雨の夜空を見ていた。

八戒を拾った、あの日の雨空。

まだあの時はお互い名前すら知らなかったが。
自分でも驚いていた。
放っておけばいいものを、何故、俺は助ける気になったのか。
…理由はいい。その場を取り繕う言葉なら、いくらだってでてくるが、結局そのどれもが正確ではないのだろう。
言葉であの瞬間の感覚を表すことは、俺にはまだできない。
今はただ、俺のベッドに、怪我をして、死にかけている男がいる。
それだけだ。
まったく、面倒ごとを拾っちまったぜ…。
何度目かの溜息が口を突いた。
ぼんやりと窓の外に目を向けると、立ち枯れた枝々が目に入る。
アレは確か、薔薇だった。
花は枯れ、実も落ちてしまった茶色の、薔薇だった枝々。
枯れちまったのかな。…そりゃそうか、別に手入れもしてねーし。
俺がこの土地へ流れて来たときは、まだ夏だった。その時はまだ、ぱらぱらと小振りの花をけなげに咲かせていた。
何と言う種類の薔薇なのかは、俺は知らない。
それ以前に、夜や朝に帰ってくることが多いのでほとんど見てやしなかった。
おぼろげに思い出せるのは、淡いピンクの色彩。
盛りのころに無造作に手折って、一番始めに会った女にくれてやったら、らしくないと笑われた。俺も笑った。確かに、俺らしくねえ。
だが、その花は俺をそんな気にさせた。それくらい、綺麗だったんだろう…。
もう、覚えちゃいねーけどよ。行きずりの女の顔も、花も。
『薔薇は春になるとまた咲くのよ。何度でも蘇るの』
そう言って笑った女がどこかの街に居たような気がするが、俺はその言葉を信ない。
だって枯れてんじゃん。どう見ても。
葉は落ち、枝は茶になって、朽ちていくだけ。
そして、コイツも…。
俺はベッドの上に視線を戻した。
死んではいないが、目が覚めても生きてはいまい。
あの薔薇の枝と同じ。あとは朽ちてゆくだけの、生。
ほとんど無意識に、俺はポケットに手を突っ込んで煙草を探したが、火をつける寸前で我に返る。
怪我人に、煙草の煙はマズイんだったっけ。
ちっと一つ舌打ちをして、煙草は咥えるだけに留めた。
自分でも往生際が悪いと思うが、コレが無いと、なんとなく口が淋しく感じるのは愛煙者のサガってもんだ。
だが、煙草を吸いに、外に出ようとは思わなかった。
俺はベッドの横に腰掛けて、できるだけここに居るようにしていた。
今日で一週間、コイツは目を覚まさないのだ。
このまま、死ぬんじゃねーだろうな?
俺は今更そんな不安に襲われ、ベッドの上の顔を覗き込んだ。
…キレイな顔、してんじゃねーか。
女っぽいキレイってのとは違う、整った、柔和な面立ち。
青ざめた瞼の下にあったのは、確か翡翠のミドリだった。
「…キレイだったな」
このまま、朽ちていくのだろうか。
「もういっぺん、見てえな…」
俺は窓の外に視線を流した。
そこにあるのは、朽ちかけた野薔薇の株。
だが瞼に浮かぶのは、白に近いような、薄い薄いピンク色の花弁だった。
そして、たった一度だけ見た、ミドリ色の瞳。
泥にまみれた壊れた眼差しだったのに、いやに鮮やかだった、その色。
「目ぇ、覚ませよ」
意識無く、言葉が零れる。
コイツが目覚めるなら、あの薔薇ももう一度咲くような気が、何故かしていた。
「起きろって」
カチカチと…時計の音だけが、いやに俺の耳を刺した。
嘲笑が漏れる。
馬鹿馬鹿しくなってベッドから離れようとしたが…俺の目は再び、ベッドの上に釘付けになった。
青ざめた瞼がぴくりと動いた。
黒い前髪の下、白い包帯の下、鮮やかな鮮やかなミドリの瞳が、薄く覗いた。
――ぅわ…。
何とまあ、鮮やかな色。
そのミドリが望洋と宙をさまよった。
事態を把握できないでいるらしいそいつが、なんとも気の抜けた声で呟くまで、俺はじっとそれを眺めていた。
「……地獄って案外、庶民的な所だなぁ」
なんだ、案外普通の反応じゃん。壊れかけの死にかけのくせに。
「悪かったな、庶民的で」
俺はもっとよく見たくて、そいつの顔を覗きこんでやった。
すると見開かれる、ミドリの瞳。
―――ああ、本当にキレイだ。
鮮やかな…それは初夏に目にした薔薇の葉のようで。
コイツの顔に貼り付いた、壊れかけた微笑には相応しくない鮮やかさだった。
「…遅えんだよ、目ェ覚めんのが」
本当、遅せえよ。待ってたんだぜ?
始めは蒼白というより真っ白だったその顔に、今はずいぶん赤味が差してきていた。
白い花弁に散っていた、薄紅のような微かな赤味。
薔薇を見ている気分になった。
夜明け前に叩き起こして来てもらったのに、ヤブだのジジイだの言った医者に、こりゃ詫び入れなきゃならねえかも、な。

それから三蔵が悟空が来たりして。
いろいろ、騒動があったんだよな…。

「悟浄?」
ぼんやりしていた俺を、八戒が引き戻した。
「…ああ、悪ィ。聞いてなかった」
酷いですねえ、と八戒は笑って、少しだけ切った野薔薇を俺の目の前に差し出した。
「ちゃんと生き返ったでしょうって、言ったんですよ」
「ああ、そうだな」
綺麗に、咲いている。
立ち枯れたようにしか見えなかった薔薇が、春の日差しを浴びて、蘇った。
そして…再び生を選んだ、翡翠の瞳。
『猪悟能は死んだ』
三蔵にそう告げられたとき、やっぱり駄目だったと思った。
再生なんて有り得ない。
壊れかけたものは、結局壊れるしかないんだ。
だが、今、俺の目の前で、八戒は笑っている。
片方は失われてしまったけど、その眼差しは、前よりずっと強い力を帯びるようになっていた。
キレイな、ミドリ色。…瑞々しい、生命の色だ。
「生き返ったんだな」
この俺に、再生を信じさせてくれた。
母を兄を失ったあのときから、ただ無為に日々を過ごしてきた。
朽ちていこうとする薔薇のように、いつかどこかで死ぬときのためだけに日々を過ごして居た俺に、再び生きるために必要なものを与えてくれた、その生命の緑。
「…キレイだ、な」
「でしょう?」
意識せず口から言葉が出てしまい、俺はごまかすように手もとの薔薇に視線を移した。
俺だって、花は嫌いじゃないんだぜ。女もイイが、花だって悪くない。
恥らうように俺を見返す、小振りの花。
「…悟浄」
突然、すっと八戒の手が伸びてきて、俺の髪を風から奪った。
俺がその手を認識するより早く、窓枠越しに俺を引寄せ、こめかみに接吻られていた。
いつものことながら…こいつの行動は唐突でついていけない。
もう照れるのも飽きちまった。
「オイコラ。何のつもりだ?」
「…あは、すみません」
妙に、抱き締めたい雰囲気だったもので。
そうささやく八戒の唇がくすぐったくって身をよじるが、こいつは離す気がないらしい。
こめかみから耳朶へ耳の後ろへと唇が滑って行く。
この、馬鹿は。何を考えているのか。
俺がしみじみ、コイツを拾ったことを後悔するときだ。
「貴方が今みたいに笑ってくれるだけで、僕は頑張った甲斐がありましたよ」
にっこりと本当に嬉しそうに、八戒は間近で笑った。
「…確かに、頑張って庭の手入れはしていたよな。ゴクローサン。」
「そうですよ。だって貴方の為ですもん」
貴方のために、蘇ってきたんですよ。
何の衒いもなく、笑って見せる八戒。
…あ、マズイ。
意味も無く、俺の心臓がどきんと大きく脈打った。顔に血が登ってくるのを感じる。頬が熱い。
「悟浄?」
「…んでもねーよ!」
怪訝そうに顔を近づけてくる八戒を引き剥がし、俺は薔薇を奪い取ると、八戒の鼻先で窓をばたんと閉めた。
おまけにカーテンもかける。
『悟浄〜、何が気に触ったんですか〜』
カチカチと、爪でガラスを叩くような音と、情けない声がしばらくしていたが、諦めたらしく、足音は玄関のほうへ向かって消えた。
俺は耳まで真っ赤になりながら、なんとなく、笑っていた。
記憶の中のそれより、鮮やかに鮮烈に蘇った薔薇。
もうずっと、見たかった色だ。
俺はその葉にそっと触れた。
八戒の瞳と同じ色をした、そのミドリに。            
俺は大きく深呼吸をしてから、それっと子供のように玄関に飛んで行き、タイミングを計ってドアを開いた。
扉の前で、緑の目をまん丸に見開いている、八戒。
俺の前で生きているこいつの存在が、俺は無性にうれしかった。
――再び『生きて』いける。

「…オカエリ。待ってたんだぜ」
蘇った薔薇を、俺は八戒の手の中にくれてやった。


『再・生』了

鎖骨様より頂きました、復活記念小説です。
八戒のおかげで薔薇の咲く家となった悟浄宅。
メルヘンだと思ったのは私だけでしょうか・・・
鎖骨様、可愛い2人をありがとうございました(^^)



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