・・・ 雨 音 ・・・
雨の音を聞きながら…。
星も月も灯もない、濃密な闇の中、八戒は身を強ばらせて一人座り込んでいた。
押しつぶされそうだった。『雨の音』に…。
真夜中過ぎに雨は降り始め、八戒は嫌な汗とともに目を覚ました。
それまで穏やかだった眠りが、急に過去を伴って八戒を苛みだしたのだ。
体は疲れているのだが、もう睡魔はやって来なかった。
それどころか嫌な記憶に呼ばれそうで、八戒は眠るのが怖かった。
八戒は寝具の上で膝を抱えていたが、ふいに喉の渇きを覚え、静かに部屋を出る。
酔えなどしないが、できることなら、酒が欲しかった。
なのに、八戒の足は、何かに誘われるように悟浄の部屋へと向かっていった。
そっとドアを開けば、安らかな寝息。
細心の注意を払って、悟浄が目を覚まさないように気配を殺した。
眠る足元に手探りで腰掛け、闇に阻まれ見えない悟浄の顔を見る。
それは瞼に映る記憶の中の悟浄にしかすぎないけれど、八戒にははっきりと見えていた。
自分をこの世につなぎ止めた、唯一の赤。
「…」
そっと頬を撫でる。…つもりが、頭だったらしい。
自分の記憶も頼りにならないと、少し笑う。
そのまま頭から頬へのラインを撫でて、手探りで悟浄の体を確かめた。
―――暖かい…。
押しつぶされそうだった自分の心が、にわかに活気づくのを感じる。
力が蘇ってくるような気がする。
目を閉じているのか開いているのか、どちらでもよくなりそうな闇の中、八戒は悟浄の胸へ耳を寄せた。
力強く穏やかな、命のリズムが聞こえる。
―――それは、雨の音にも負けなくて。
しばらくそれに聞き入っていると、突然リズムが乱れた。
悟浄が目を覚ましたのだ。
「八戒か? 何やってんだよ…」
寝起きのせいか、悟浄の声は掠れていた。
八戒は一瞬返答に窮したが、次の瞬間にはもう開き直っていた。
「よく、僕だとわかりましたね」
「…話を外らすなよ」
悟浄はそれ以上何も言わない。
寝ぼけているのかと思ったが、外の雨音に気がついたようだった。
「逃げたいのか? 俺はお前の、逃げ場なのか…?」
八戒に問う。
意外な言葉に、しばし八戒は言葉を失った。
悟浄が、こんなストレートに踏み込んで来るとは思わなかった。
人の心には、他人が踏み込んではいけない部分があるものだと、悟浄はよく知っていた。
慰めもせず、触れもせず、ただ悟浄はそっとしておいてくれた。
馬鹿、と八戒は声に出さずに言った。
それは悟浄に言ったのか、それとも自分に対して言ったのか。
「僕は逃げませんよ」
血塗れの自分の罪から。
汚れきった自分の業から。
彼女を、花南を愛してしまったときから始まった、過ちから。
「僕は、逃げたりしません」
「…そっか」
ぎゅっと、悟浄を抱き締めた。
だけど時には、忘れたフリをしたくなる。
どうしようもなく、自分が弱く感じる時がある。
膝を屈したくなることがある。
負けてしまいそうな、弱く矮小な自分がいることを否定できないのだ。
悟浄の唇が、何か言いたげに動いたような吐息を肌に感じた。
だが、声にならずに終わったようだった。
悟浄の温もりを、八戒は全身で感じていた。
「でもすみません、もう少し…」
起き上がった悟浄の背中に腕をまわし、胸に顔を押しつけた。
「もう少しだけ、力をください」
どれくらいそうしていただろう。
やがて悟浄の腕が、八戒の頭を抱えるように抱いた。
雨音が、漆黒の闇を震わせている。
暗闇の中、悟浄の姿は見えない。
手探りで悟浄を確かめていく。
何度も何度も目に焼き付けた鮮やかな肢体は、指が形を覚えている。
目尻から頬を指でたどり、唇に口付け息を奪った。
着ているものを剥ぎ取ると、ゆるゆると愛撫を施していく。
目に見えない分、感覚が敏感になる。
指先の感触が、悟浄の綺麗に筋肉のついている身体を、あらためて八戒に感じさせてくれた。
指先が思ったよりずっと、ほっそりと滑らかな首筋をたどる。
悟浄の身体も闇に阻まれ、予測のできない愛撫に過敏に反応してきた。
髪を割って接吻の雨を降らせていくと、悟浄の身体が闇の中、波打つように悶えるのが見えるようだった。
八戒の手によって煽られる身体は、どんどんと熱を溜めこんでいく。
「八…戒……、もう……っ」
「駄目です。もう少し我慢して」
微かな吐息も意地悪な囁きも、悟浄の身体は敏感に感じとっている。
はあ、と悟浄が熱い息を吐いた。
八戒は闇の中、微妙な笑みを含んでいるが、そんなものを感じとれるほどの余裕は、悟浄にはない。
相手の顔も見えない闇の中、悟浄の意識は夢と現の間を、ゆらゆらと漂っていった。
「…まいりましたね」
情事の後始末をしながら、八戒は呟く。
夜明けまであと数時間。
だが、悟浄は完全に失神していて、この様子では、朝になっても立ち上がることは難しそうだった。
自業自得とはいえ、何とかしたいところだ。
そうでないと、悟浄との情事に次がなくなる可能性もある。
(そんなことを許すつもりは全く無いが)
雨宿りを理由に、しばらくここへ滞在しようか。
悟浄が寝込んだ理由については、三蔵には赤裸々に、悟空には適当に伝えよう。
当の悟浄を丸め込むのが、実は一番たいへんなのだけど、その辺は楽しんでやろう。拗ねる悟浄も、悪くはないし。
悟浄の上に毛布をはおらせ、八戒は額に軽く接吻た。
何だか浮かれてしまっている自分に気がつき、八戒は少し笑う。
どうしてこう、自分は気分がいいのだろう?
先ほどまで押し潰されそうだった雨の音も、今はもう弱まっていた。
酒に酔うことはないが、悟浄の仕草や声に簡単に瞑酔してしまう自分が、なんとも滑稽で不思議だった。
身体の中に、心地よい温もりがあるのを感じる。
それは紛れもなく、明日を向かえ打つだけの力になるだろう。
八戒は、穏やかに夢路をたどった。
雨の音を聞きながら…。
悟浄の聞かせてくれる、穏やかな命の波動を聞きながら。
鎖骨さんから管理人が奪い取ってしまいました(笑)
某チャットでいつもお世話になっている方なんですが、
常々、私が『師匠』と呼びたくなるようなお話を書いていらっしゃいます。
また投稿してくださるそうなので、楽しみです(^^)