― 紺碧の蒼 ―
「悟浄?入りますよ。」
のんびりと声をかける。取り立てて急ぎの用があったわけでもなく、ただ昼を過ぎても一向に部屋から出て来ようとしない彼の事が気になっただけなのだが。その視界にやたらに鮮やかなブルーが目についた。コルクボードの茶の中にそれはぽつんと、けれど強烈なまでに存在を主張していて、目が離せなくなってしまったのかもしれない。殴り書きのメモの切れ端や、何処のものだか判らない風景のセピアカラーのフォトグラフ。どちらかと言えば、モノトーンで統一されていたそこにある、鮮やかなブルー。どうやらそれは、何処からが悟浄が手に入れて来たもののようで、踏み込んだ室内のあちこちに散らばっていた。
「悟浄?」
部屋の主は、夜具を蹴り飛ばしたベッドの上で、愛用のペンを握り締め、なにやら書き物に勤しんでいるらしい。俯いた顔に落ちかかる長い髪が、緋色のカーテンの役目を果たしてしまっていて、八戒の位置からは表情は窺い知れない。ムキになっているとも言える熱心さで自己の世界に没頭している悟浄の邪魔をする事も出来なくて、その光景をただ眺めやる。暫く、無言のまま、静かに、ただ静かに、二人の間を時間だけが流れて行く。
不意に、その時間を遮る、低い低い声。髪をくしゃくしゃッと掻き回す音がして悟浄が顔を上げた。その時になってやっと八戒に気が付いたのか、悟浄の切れ長な瞳が大きく見張られる。
「おわっ…びっくりしたぁ…何してんの?」
「悟浄こそ。何してたんです?」
八戒の問いかけに照れたように笑うと、悟浄はベッドの上に広げてあって何枚ものブルーの葉書を脇に追いやった。
「手紙…?」
「そう。」
「お兄さんですか?」
「……うん。」
書き掛けていたであろう葉書をくしゃりと丸めると、ぽんっとベッド脇のクズ籠に放り込む。それは見事な放物線を描いて、吸い込まれるように籠の中に入って行った。
「いいんですか?」
「失敗しちゃったからね。」
それに、どこにいるかも判らないし。別に出すつもりで書いてるわけじゃないからー。茶化したような声が笑う。自分達は失い方こそ違えども、手の届かないと言う事実だけは同じで、悟浄の薄い笑みが悲しくなる。
「綺麗な、写真ですね。」
「うん。海と空…って、綺麗でしょ。何か、すげえ気に入っちゃってさ。気が付いたらやたら買ってたの。」
本当は毎回、思い立つ度にこういう事をし続けていたけれど。こんな鮮やかな写真を選んだのは初めての事。どんな心境の変化なんだろうね、と自分でも思う。
「僕にも、くれません?」
「書くの?」
「宛てる人がいないですからねえ…。部屋にでも貼っておきますよ。」
八戒が薄く笑いかけると、悟浄はいたたまれなくなったかの様に俯いてしまう。無神経な事を言ってしまったのかもしれない。状況は近いかもしれないけれども、どこかで生きているかもしれない分、自分の方が恵まれていて、希望が持てる分、無神経だ。
「…悟浄?」
「うん、あげる。こういうトコでお揃いってのも、なんだかなって感じだけど、いいよ。」
謝るのも無神経な気がして。悟浄はさらりと躱す。気遣ってくれている。それが判る。ただそれだけが嬉しい。それを言葉で伝えるのも何となく憚られて、差し出された葉書を受け取りながら、八戒は自分に浮かべられる限りの極上の笑みをその口の端に乗せた。
「それにしても、いっぱい買ったんですねえ。」
「うん。……そうだ、ねえ、八戒。」
悟浄は脇に避けた葉書の束を引き寄せると、八階の腕を掴んでベッドの上に引き寄せる。されるがままに腰を下ろせば、膝の上にばさりと広げられるブルー。
「紙飛行機、知ってる?出来るだけ、長く、遠くに飛ぶやつ。」
「知ってますけど…?」
それほど長い年月が経ったわけでもないのに、もうすでに遠い過去になってしまったような気がする彼女との時間。その頃によく子供にせがまれて教えたり、自分も作ってやったりしたものだけれど。
「俺さ、そういうの縁なくて、あんま知らないんだ。作ってよ。これ、飛ばしちゃおうぜ?」
「葉書なんて硬いもの、飛行機には向きませんよ?」
「いいじゃない。やりたいんだからぁ。」
幼い頃に誰でもするような遊びに縁がない、という悟浄の生い立ちが些かならず寂しくなって、悲しくて。笑いながら混ぜ返せば、拗ねたような悟浄の声が応える。それが幼い子供の様で微笑ましくて愛しくて、膝の上の葉書を手にしてそっと折り始める。長い綺麗な指が器用に動いてみるみるうちに紙飛行機を折り上げる様は十分に悟浄の興味を惹き、あれやこれやと言葉を交わしながら、不慣れな手つきで幾つかの飛行機を折り上げた。
「ちょーっと不細工だけど、ま、いっか。」
出来上がった飛行機をそっと指で摘み上げて、悟浄は淡い微笑みを浮かべる。儚く見えるほどの薄い笑み。なぜか、それが酷く不安を駆り立てて、八戒は悟浄の肩を抱き寄せた。その腕の中にすんなりと身を任せた悟浄は小さくて軽いキスを紙飛行機に落す。ぐるぐると悩んだけれど、何を綴るよりこれが一番の様に思えた。送り先のない手紙。ただ、机の引出に溜まって行くばかりで、意味もなく、コルクボードに縫い止められ続けていた葉書。出す事も、綴る事も出来なかった言葉達。伝えられなかった想い。そんなものの全てが、この蒼い葉書一枚に織り込めるような気がして。
「とばそ!」
笑いながら、腕の中から抜け出して、窓を開け放つ。目が痛くなるくらいの青い青い澄んだ空。その中に口付けを落した葉書を飛ばせば、何もかもの境界線が消える、ひたすらに澄んだブルー。届く事はないけれど。そうか。今、もしかしたら、少しだけ、幸せの階と言うのを見ているのかもしれない。不意に思う。すぐ隣で、八戒の長い腕が、鮮やかな曲線を描いて空にブルーの紙飛行機を飛ばす。いつか、届く日が来ればいい。どこになのか、誰になのか、それはそれぞれ違うのだけれど。それでも、同じ、幸せの階へ。生命の波打ち際へ、きっと届くから。
「さて、お茶にしましょうか。」
「うん。」
また、同じように、言葉を綴ろうとする日が来る。その時はきっと一人の言葉ではなくて、今を生きる相手と織り成して行く言葉だろうと思う。それをする日が来るのと同じくらいに、きっと届く日も来る。いつの日か、それは紺碧の蒼の中に。
深海様のサイトのキリ番リクエストで書いて頂いた作品を奪い取ってまいりました(承諾済み)。
テーマは『葉書』だったのですが・・・妙に幼い面を見せる悟浄がせつない・・・(ほろり)
深海様、良い作品をありがとうございました。