― 夏草の海 ―




 さあぁ…っと一際涼しい風が草の海原を駆け向けた。その風に攫われる自分の長く伸ばした髪を見遣って、小さな息を吐く。ここ暫く、いろいろな物を見たと思い、実際、見てきた。いつだって一人ではなかったが。ゆっくりと空を見上げれば、そろそろ夏もいこうか、というこの時期らしい、少し高めの空が広がる。深く濃密な夜の闇は、その中に様々な光を宿して広がっていた。
 こんなにのんびりするの、久し振りかもなあ。
 いつだって時間は慌しく流れて、それでも居心地は良かったが、時折、ほんの時折なのだが、ゆったりとした時間の流れが恋しくなる時がある。それはそれで、嫌いな過ごし方ではないからなのかもしれないが、静寂が心地よく感じるようになったのはいつからだったか。
「悟浄?何してるんです?」
 背後から掛けられた声と、すぐ近くまで寄ってきている気配に薄く笑う。いつだって一人でないのは、この気配のせいだ。常に居心地のいい距離を保って、近くにいる。
「星見なんて、風流も悪くはないですが、一応、夏の盛りは過ぎてるんですし。風邪ひいても知りませんよ?」
 月明かりの白が、白い肌に照り返し、まるで作り物のように整った何かに見せるのに、その口から出てくるのは、酷く生活臭のある言葉で、酷く可笑しい。
 ぱさ、と肩に掛けられるシャツからは嗅ぎ慣れた甘い匂い。煙草の匂いもしないし、落ち着いた色味であるところを見ると、シャツは悟浄のものではなく、八戒のものなのだろう。洗剤の匂いと殆ど同化してしまう、ほんの幽かなコロンの匂いは、確かいつぞや自分が選んで贈ったものだ。外気に曝され、たった今掛けられたばかりで冷え切ったただの布であるはずなのに、なぜか酷く暖かい気がして、そのシャツに頬を摺り寄せる。
 酷く馴染んだその感触は、慣れた肌に似ているからだ、と気付いて悟浄は八戒に気付かれぬように口元を覆い隠して幽かに笑った。煙草を口に運ぶ仕草でされたそれに、八戒はまるで気付かないようだ。すぐ隣にまで歩み寄ってきて、同じように空を見上げる。
「…綺麗なものですねえ。」
「ああ、そうだな。」
 ただひたすらに視界に広がるのは、月と星ばかり。視界を遮るものは何もなく、天からの光が地上に届く事を妨げる街の灯りもないここでは、地上と天の境目を示す木立が幽かにあるばかりで天の全てが落ちてくるような感覚にさえ陥る。
「なんだか、明るい感じがしますね。」
「まあなあ。森の中とは言っても、街に近い所にいたしな。」
 旅に出る前の環境は、生活にはほどほど便利であったし、旅を始めてからはこんな風にのんびりとした時間は殆ど取れず、いつだってどこか警戒を滲ませて生活していたから。急にぽかりと空いた時間は、少しばかり持て余すけれど。
「たまになら、こんなんもイイなあ、とか、思っちまうなあ。」
 うん、と伸び上がるさまはどこか天に手を差し伸べているように見えて。頬を腕に押し当てる事で押さえられたシャツがする、と夏草の上に落ちそうになって、その伸びやかな背が見える。
 シャツを押さえながら、そっと掛けなおし、肩を抱こうとした八戒の手になぜだろう、幽かに力がこもった。
「…八戒…?」
「…え?」
 呼びかけられて、自覚する。強すぎる指の力に、幽かに悟浄が眉を寄せている事。
「あ…ああ、ごめんなさい、痛かったです?」
「ん?いや、いいんだけどさ。どーした?」
「なんでもないです。」
 星の攫われそうだ、なんて言ったら、きっとこのヒトの事だから、笑い飛ばしますよね。
 八戒は殊更にっこりと微笑みかけた。なんでもないのは事実なのだ。ただ、ほんの少しだけ、形容しがたい感情が胸の奥に湧き上がっただけ。自分でもそれは把握出来ない。
 真っ直ぐに伸ばされていた悟浄の腕がゆる、と下に向かい、片手がそのまま八戒の腰に回される。長い事外にいたせいか、その指先は薄地のシャツ越しに冷たかった。
「冷え切っちゃってますね。」
「そ?判んないなあ。」
 でも、お前がやたらあったかく感じるって事は、そうなのかな。
 そう言って笑いながら擦り寄るように体を寄せてくる悟浄の温もりは優しくて甘い。
 どうしてこう、僕を甘やかすのが上手いんですかねえ、このヒトは。
 幽かに内心苦笑を浮かべながら、そんな甘やかしも心地好い、と八戒は悟浄の体を引き寄せた。そしてそのまま、悟浄の視線を追って、また空へとその翡翠の瞳を向ける。同じモノは見れないかもしれない。けれども、同じ星空の下だ。似たものを見ているのは確かだろう。
「こんだけあると、星座とかって判んないな。」
「…まあ。大まかなものくらいですね、判るのは。解説、しましょうか?」
「いらない。苦手だもん、そーゆーの。」
 八戒センセはお得意かもしれないけど?眠くなっちゃうし〜。
 くすくすと笑う幽かな声が耳元に大きく響いて。
「なんかさ。」
「はい。」
「こーゆーのも、悪くなくない?」
「そうですね。」
 満天の星と、明るいくらいの月と。腕の中には愛しい温もり。こんなに居心地のいい空間は、そうそうないだろうと思う。お互いが求めているなら、なおさらの事。
「戻りませんか。」
「そーだな。」
 幸せというのは、案外と身近にあって、二人が共に在れば、そこが居心地のいい空間になるのだと、互いの腕の強さで判る。手放さない、という望みは、お互いの強さがあれば、そして弱さを愛せれば容易に叶える事が出来る、と知った、夏草の海。




深海様より残暑お見舞いとして戴きました。
静かに優しい二人の間の空気が、とても好きです。
多くを語るよりも、雰囲気に浸りたいと思います。
本当に有難う御座いました。


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