KEEP IT IN MIND
詳しい経緯は思い出したくもなかった。ただ、一瞬前まで目の前にいた緋色の姿が掻き消されるように消えた。手を伸ばしても届かなくて、何も掴む事なく空を掻いた。それから、数日を費やして足どりを辿り、ようやく取り戻す事が出来た時、いつもの皮肉な笑みも、優しい光を湛えた瞳も見る事が出来なかった。意識のないその人は、蒼白で、まるで人形のようで、ぞくりとする。ただ、その体の中に宿る命の炎が消えていない事だけは、微かに上下する胸が教えてくれて、取り戻すために奔走した三人は、ほっと息をつく事が出来た。
「……今日で、何日でしたっけ…?」
「……3日目だ。」
吐息とともに呟くと、目の前で同じように溜息まじりに応える人がいる。取り戻してから3日。その前に引き離されていた時間がるから、もう10日以上、彼の声を聞いていない。
「後は、待つだけ…ってところですか。」
明らかに暴力的な扱いを受けたであろう事を物語っていた身体の傷はすでに残っているものの方が少ないくらいだ。けれど、意識だけが戻って来ない。
「少し、休め。暫く、俺が代ろう。」
その申し出に、微かに首を横に振る。離れられなかった。離れたくないのだ。
「……八戒。他人を癒しても、自分が倒れては意味がないぞ。」
三蔵が苦々しく呟く。判っているけれども。先を急ぐ旅の途中で、不慮の事態であった悟浄はともかく、自分の不摂生で足を引っ張るわけにはいかないし、そうされる事を三蔵は何よりも疎んじている。
「僕には、罪悪感があるんです。だから…。」
ぽつりとこぼすと、三蔵は呆れたように溜め息をついた。かたりと椅子が鳴る。
「言っても無駄だろうが…極力無理はするなよ。」
その一言で三蔵は八戒の我を通す事を認めた。そのまま背を向けて部屋から出て行く。様子を見る者がいる以上、ここで顔を付き合わせていても仕方がない。同じように心配している人間が後一人いる。そちらもケアしてやらなければならなかった。子供の一途さと純粋さで身食いするように人を慕うから。それを止めてやらなくてはいけない。八戒が実質的なところで行動を起こすなら、三蔵は、精神的な面を引き受ける。とにかく事態は、悟浄の意識が戻るまでは好転しないのだから。
扉が閉まるのを見守った後、八戒はそっとベッドを覗き込んだ。元々体力のある人だけれども、ここ数日の間に彼の身の上に起こった事は、それを凌駕するものであったのだろう。窶れたような影が表情全体に浮かんでいる。時折、その真紅の瞳でじっと見つめてきては、八戒を整った顔立ちだと言う彼は、普段はその皮肉げな表情と、ふざけた言動で意識させない事が多いけれど、意識のない状態で見ると気味が悪いくらいに整った容姿を持っている。美しいとは思う。思うけれども。
「……戻って…来て下さい…。」
呟いた自分の声に、力がなくて、愕然とする。誰よりも誰よりも強く呼ばなくてはいけない自分の声が、こんなに力ないものでは帰って来れないのに。気が狂いそう。早く戻ってきて。顔を近づけると微かに香るすえた甘い匂い。それが意識が戻らない理由なのは判る。
「戻って、早くっ…!」
涙が出てきそうだ。貴方にまで置いて行かれるのは御免なんだ。僕は、もう二度と置いていかれたくないんだから。
「……はっかい……?」
擦れた声に呼ばれて、俯きかけていた顔を跳ね上げる。緋色の瞳が虚ろな視線でじっと見詰めていた。
「意識が…悟浄!?」
「……こんな所にいちゃ、ダメだろう…?戻りなさい。」
八戒の声に応えるわけでなく、悟浄はそう呟くと再び瞳を閉じた。何を言われたのか、八戒にはさっぱり判らなかったが、取りあえず譫言であったとしてもその瞳が開かれて、何よりも先に自分の名前を呼んでくれた。それだけで自分の思考はプラス方向に走り出す。
「悟浄…。」
貴方の見ている幻がどんなものか判らない。けれど、どんなに居心地のいい夢だったとしても、貴方をマボロシになんか渡さない。八戒は噛みしめるようにその名を呼んだ。
少なくとも、自分がいつもいる所にいるわけではない事だけは自覚出来た。そういや、何か一服盛られたっけか。それのせいで幻覚を見ているんだろう。冷静に分析している自分がいる事がおかしかった。この手のクスリって、現実と幻の区別がつかなくなるんじゃなかったっけ…?ああ、もしかしたら。幻だと思っているだけで、このなんにもない、ただ真っ暗なだけの、この空間が現実なのかな。だぁれも、なぁんにもなくって。ぼんやり一人でいる事しか出来ないなんて、俺に似合いのゲンジツじゃん。深くダークになっていく思考。ああ、やっぱ一服盛られたのが効いてるんだ、きっとそうだ。そうじゃなかったら、ここにアイツがいるはずないんだもの。必死に伸ばした手は、届かなかったんだもの。
どこか不安そうに、それでも微笑んで、必死の声で呼ぶのが聞こえた。こんな真っ暗な所に来たら、危ないだろ?お前、片目見えてないんだから。そのガラスの瞳じゃ危ないよ。それでも走り寄ってきて、まっすぐに見詰めてくれる、キレイな深緑の瞳。こんな空間でも見付けてくれるんだ…?
「八戒…。」
もっと大きな声を出したつもりなのに。自分の耳にも上手く届かない。こんな擦れた声じゃ、きっと聞こえない。
『悟浄!?』
そんなに大きな声を出さなくても、聞こえてるから。俺は大丈夫だから、そんな泣き出しそうな子供みたいな顔してるなよ。いつもの顔はどうしたんだよ?俺はお前の笑う顔は本当に綺麗だと思って、大スキなんだから。
「こんな所にいちゃダメだろう?戻りなさい。」
子供に言い聞かせるような口調になっちまうのは、あんまりお前が幼い表情をするからだ。こんな暗い所にいたら、危ないよ?ああ、灯りが欲しいね。俺はいいけど、お前が安全に戻れるように。
「あげようか?ほら、ここにあるよ…?」
誰のものか判らない声が響く。違う、嫌と言うほど聞き覚えがある。これは誰の声だったか。いきなり目の前にばあっと血の花が咲く。べったりと身体中に貼り付いた鉄の臭い。それがふわりと光を放つ。
「ほら…明るくなったよ?」
暗かった世界が仄明るくなってぞくりとした。この光を発しているのは……見渡す限りの血の海の中。見知ったカラダが幾つか転がる。気が付いたら。訳の判らない悲鳴が口から溢れていた。
それまでしぃんとしていた部屋から、絶叫としか言い表しようのない悲鳴が聞こえてびくりと身体が竦んだ。この人がこんな声で叫ぶなんて、余程の悪夢なんだろう。暫く動く事がなかった身体が嘘のように足掻き始める。力任せに抑えると信じられない力で振り払おうとする。
「悟浄!悟浄!!大丈夫、何もないから!!」
届かないかもしれないけれども。伸し掛かって無理やり抵抗を封じて空を掴む手首を一纏めにしてベッドヘッドに括り付ける。八戒の予想が正しければ、どんな幻を見ているにしてもあの香りのするモノを盛られたなら、あの中毒性の強い薬物なら、禁断症状が出る。間違いであって欲しいと思いながらの準備は希有で終わってはくれなかったわけですね。
扉が俄に叩かれて、三蔵と悟空の声がした。
「大丈夫です。何とかなりますから。任せて下さい。入って来ないで!」
こんな姿を見られる事は、きっと自分が許せないだろうから。僕も今のこの人を見せたくない。意識のなかった間だはある意味で誰が近付いても大丈夫だった。でも、今からは違う。これからどれくらい続くか判らないけれども、とにかくこの状況が収まるまでは誰も、本当なら僕も側にいるべきではないんだ。
思考に沈みかける八戒の意識を引き戻したのは、身体の下に引き込んだ悟浄の擦れきった自分を呼ぶ声だった。視線を落すと虚ろに見開いた瞳が瞬きする事もなく涙を溢れさせている。
「悟浄…。」
「……どうしよう、灯りなんかいらないから……こんな事、望んでないのに。」
呟かれる言葉の意味は判らない。けれども、悪夢である事だけは確かなようで、八戒が呼びかける度に微かに首を横に振る。
首が、呼ぶ。自分の名前を、繰り返し繰り返し、壊れた機械か何かのように。どうして?もう、声なんか出るわけない。だって、命の火は溢れ出て、ここで、俺の身体に纏わり付いて闇を照らす灯りになっているんだもの。
「ほら……これでずうっと、お前の傍で、お前を照らしてくれるよ?その首はとっておこうね。そしたら、お前のお気に入りのその緑の瞳は、ずっとお前を見ていてくれるもの。」
囁く声が聞こえる。どこか恍惚とした声は、嫌と言うほど聞き覚えのあるものだった。それは確かに自分の声で。錫杖が命の光を跳ね返して妖しい銀色に光る。こんな事、望んでないのに!
「だって、離したくないんでしょ?渡せないと思ったんでしょ?なのに、離れそうで怖かったんでしょ?だったらこうしてしまうのが一番じゃない?」
笑いを含んだ自分の声が光の届かない暗がりから響いて、自分を追い詰めていく。違う、そうじゃない。
「悟浄 !」
「……はっかい……?」
どれくらい経っただろう。悟浄の中で少しだけ、ゲンジツとマボロシが重なった。真紅の瞳が画像を捕らえて、焦点を結ぶ。
「……戻り、ましたか?」
「……夢の中にお前がいたよ…。」
囁く声は、安堵に満ちて。一瞬の内に八戒の中に葛藤が生まれる。自分の声に満たされていた安堵は、この人の無事。では、この人の声に満ちていた安堵は、何?戻ってきた事?それとも夢の中の僕?どんな幻だか知らないけれど、この人にこんな声を出させるようなものだったの?覗き込んだ真紅の瞳はまたマボロシの中に戻っていこうとする。渡せない、行かせない!
呼吸のために薄く開かれた唇に力任せに口付ける。そこにあるのは強烈な独占欲。身体のことを気遣う余裕はなかった。意識のない身体の世話をし易いようにと着せつけた前開きのシャツを裂かんばかりの勢いで剥ぎ取る。病み窶れた身体は、いつもより幾許か肉付きが薄くなっていたけれど、目を惹き付けて離さないのは同じだった。
「いやっ…。」
唇を離した途端に囁くように漏れる拒絶の言葉。それはある意味でこれ以上ないほどに八戒を煽る。拒絶しているのに、他人と肌を合わせる事になれたその身体は貪欲に快感を貪る。誰でもいいの、夢の中では、触れているのは誰なの。浮き上がった鎖骨に歯を立てると悟浄の身体がびくりと跳ね上がる。もがく腕に引かれて、ベッドヘッドがぎしりと音を発てた。
「ふ……やめ……かいっ。」
不明瞭な言葉が絶え間なく悟浄の口から漏れる。その中に自分の名を聞き取って、八戒は耳を傾けた。今、その身体に無体な行為を強いているのが自分だと認識しているのだろうか。だとしたら、悟浄は限りなく正気に近いという事になる。
「八戒ぃっ……。」
けれど、涙ながらに紡がれる名前に、拒絶の色はない。どちらかと言えば哀願の声だ。ということは、夢の中の彼は、自分を他の誰かと認識しているのだろうか。かあっと視界が燃え上がる。夢でも、マボロシでも、それがこの人自身の中から沸き上がったものだとしても、他の誰かがこの人に触れる事を止める事も出来ないなんて、許せない。八戒は無理に下肢を割り開き、何の準備も出来ていないソコに、自分の唾液で潤した指を突き立てた。途端に悲鳴のような声が上がる。
「僕を見なさい、悟浄。」
八戒が命じる強さで囁くと、悟浄の視線が虚ろに彷徨う。まだ、ダメか?この人を支配している幻から引き上げる事は出来ない?沸き上がって来るのは、怒りと苛立ち。その間に悲鳴は啜り泣きにかわり、艶やかな喘ぎにかわる。それに合わせて八戒は指を引き抜いて自身を乱暴に埋めこんだ。強引な行為に、異物を排除しようと内壁が蠢く。きつい締め付けに視界がゆらりとするのを八戒は感じた。
「いやぁっ…はっかい、はっかいぃっ。」
それは助けを求める声で。誰を求めているの?夢の中の僕?それとも、現実の僕?求めたって、誰も助けてはくれないのにねえ。八戒の中を皮肉な気持が満たしていく。身体を押し進めて顎を捕らえ、自分に向けさせると涙で濡れた滑らかな頬を幾許か強めの力で何かか叩く。
「こっちを見なさい。貴方を抱いてるのは誰なのか、きちんと認識しなさい。」
助けを求めたいのも、泣きたいのも僕の方なのに。なんで貴方が泣くの。身体を刺激されて、機械的に快感に反応する身体を無理に押さえ付けて、はしたなくししどに濡れる快感の象徴を捕らえる。出口を封じられた熱は、悟浄の体の中で渦を巻く。早く、早く僕を見て。でないと、僕が壊れてしまう。僕の名前を呼びながら、僕でない人を呼ばないで。
「…悟浄…僕を見て下さい…。」
どうする事も出来ずにのたうつ様は、まるで陸に上がったサカナの様で。何に苦しんでいるのか出来る事なら知ってみたい。
「悟浄…。」
「……はっかい……?」
快感と、狂気と、正気が入り乱れた真紅の瞳が八戒を求めて彷徨う。戻った。直感的に八戒は感じだ。
「悟浄?判りますか?貴方を抱いてるのが誰なのか。答えて?」
「……はっかい。」
視線をしっかり捕らえて囁くと、悟浄が蚊の鳴くような声で囁く。二人の目前に悦楽の果てが見える。悟浄が『戻った』事で、それは真実、快感にかわったものだ。本当はもっと抱いていたいけれど。そう囁くと悟浄は困ったように薄く笑った。判っているから。八戒はそっと解放する事を頷いて、ただひたすらに快楽に走る悟浄を導いた。
どんな夢だったんでしょうねえ。ふっと息を吐く。きっと語りはしないだろうと思う。眠る前に見せた、微かに哀しそうな顔は気にかかるけれど、今はもう平気だと、心配している人達に伝えて来なくてはいけない。そうそう、クスリのことも説明しなくては。夜具を掛けてやりながら微笑む顔はすっかりいつもの余裕を取り戻していた。
暗がりから、自分の笑う声がする。捕まえた、と。
深海紫更様の「PLASTIC MOON」にて、1111HITを踏んだ記念に頂きました。
実はワタクシ、ダーク系が大好きでございます。クスリネタなんてツボですよ、ツボ!
深海様、本当にありがとうございます。また宜しくお願いします(^^)