2001年8月、16年ぶりにアイダホ州を訪れた。

1985年に帰国して以来、アメリカは何度も訪れているものの、交通の不便さなどから、アイダホにはなかなか立ち寄れずにいた。

アイダホ州は、アメリカの北中西部、カリフォルニアの北にあるオレゴン州の東に位置する。日本からは、一度、西海岸まで行き、飛行機を乗り継いで、ユタ州のソルトレークシティーへ、そして、そこから再度飛行機を乗り継ぎ、ようやくアイダホ州のツインフォールズ空港に到着する。ホームステイをしていた町ルパートへは、そこからさらに車で1時間ほどかかる。 

留学編でも書いたが、アイダホでの10ヶ月間は、その後の僕の人生に大きな影響を与えた。それまで、日本の常識というほんの狭い常識の範囲でしか物事を見られなかった僕の視野は確実に広がった。「人間にはいろんな生き方がある」、「日本の狭い常識なんかにとらわれては駄目だ」、そんなことを教えてくれたのも、この留学であり、Roundy夫妻であった。今回の旅の最も大きな目的は、ホストファミリーであったRoundy夫妻に、直接会ってそのお礼を言うことだった。 

また、今回の旅行のもう一つの目的は、母親をアイダホに連れていくことにあった。留学から帰国して以来、僕自身はまめな性格ではないので、途中、Roundy家としばらく連絡が途絶えていた時期もあった。しかし、母親は、毎年クリスマスにはクリスマスプレゼントをRoundy家に送り続けるなど、ずっと交流を続けていた。自分で書いた風景画を送ったり、写真を送ったり・・。そういう背景があり、母親は「一度、アイダホに行きたい」と前々から言っていた。プラス、僕自身も、留学後に何度も話したアイダホを直接見て欲しかったし、また、あの状況で僕に留学させてくれた母親への恩返しのつもりでもあった。また、Roudy夫妻の奥様デボラさんも、以前から母親と会いたいと言っていた。 

アイダホ州のルパートへは、ラスベガスに滞在後、ソルトレークを経由して、ツインフォールズという空港へ向かった。ソルトレークからの飛行機は、20人くらいしか乗れないような小型プロペラ機。飛行機に乗り慣れない母は、「大丈夫かな?」とちょっと不安そうな表情。

ソルトレークの空港を飛び立つとすぐに、眼下には巨大なソルトレークが見えた。日本の感覚からすると「これは海か?」と錯覚するほどの大きさ、なにしろ琵琶湖の7倍の大きさだ。飛行時間は45分。空港にはRoudy一家が迎えに来てくれている。久々の再会が徐々に近づいてくる。

さすがに、16年ぶりに人と会うというのは緊張する。「お互い会って、すぐに分かるかなあ?」と、ちょっと不安でもあった。

そうこうするうち、空港に到着。ツインフォールズ空港は非常に小さい空港で、待っているのはその便の搭乗者を迎えに来ている人たちのみ。見ると、待合室のガラス越しに見覚えのある顔があった。「いた!」。すぐにわかった。手を振っているデボラさん、カルロスさん(ご主人)、アリッサちゃん(娘さん)に、手を振って応える。

待合室に入って、16年ぶりの再会。久しぶりに見るデボラ、カルロスは、年はとっていたものの、雰囲気は16年前とほとんど変わらず、元気そうだった。二人の顔を見て、16年前、この空港で、泣きながら僕を見送ってくれたデボラさんの姿が頭に浮かんだ。「あれからもう16年もたつのかあ・・」。再会を喜ぶとともに、なんとなくセンチメンタルな気分になる。 

空港を出て、近くの峡谷に立ち寄った。グランドキャニオンほどではないが、日本人が初めて見るとびっくりするほどの大きさである。以前、「インディージョーンズ魔宮の伝説」の吊り橋を使ったラストシーンが撮影された場所である。

その後、バフェで夕食を食べ、Roudy宅へ。Twin Fallsからは車で40分くらいかかる。久々に見るRoundy宅は、16年前とほとんど川っていなかったが、庭の一部に子供用のダンスホールがつくられていて、そこで宿泊。Debraは、自宅で幼稚園を開いていたことがあり、その部屋を使っていたようだった。

2日目

16年前とこれも変わらぬ朝食をみんなで食べ、町の中心部へ。中心といっても、10分もあれば端から端まで歩けるくらいの距離だ。スクエアと呼ばれる公園を中心に、周囲に店が並ぶ、その近くには映画館が1件、スーパー、郵便局、銀行とそれなりに一通りは揃っている。当時は、ここでもずいぶん都会に思えたもんだった。町の様子は、これもあまり変わっていなかったが、僕が大好きだった映画館は閉鎖されていた。久々にここで映画を観て、当時を懐かしみたいと思っていたのに・・・、残念。改装されて別の場所に移転したようだった。当時は、毎週のようにここに映画を観にきていた。高校生は3ドルくらいだった気がする。それでも僕にとっては大金だったので、ささやかな贅沢ではあったが、とにかく娯楽と呼べるものは映画くらいしかなかったので、この映画館は非常に思い出深い。

スクエアを出て、国道沿いに歩いているとスクールバスを見つけた。毎朝、これに乗って、通学していた。初めての通学の日、誰とも会話ができず、隅っこで寂しく独りでいるしかなかったことを思い出した。あの時は、辛かったなあ・・・。

一度、帰宅して、ミニドカカウンティハイスクールへ。辛いことも楽しいこともあった、一番思い出のある場所だ。この日は、ちょうど夏休み最後の日で、翌日から始まる新学期のレジストレーションが行われていた。とはいっても、ほとんどお休みのようなもので、生徒はあまり見られない。校舎の雰囲気は、これも16年前とほぼ同じ。聞くと、翌年には改築工事をするようで、この校舎を見れるのはこれが最後とのことだった(たまたま工事前でラッキー!)。中に入ると受付けのような場所があり、その奥にロッカーが並んでいる。各生徒にロッカーが与えられ、ひとつのロッカーを二人で使う。通常、教科書などはこのロッカーに入れ置いておく。「家に持ち帰って勉強しなくていいのか?」と言われそうだが、そんなまじめな生徒はひとりもいない(・・と思う。少なくとも僕の周りには・・)。授業の合間に、ロッカーに戻って、次の授業の教科書を持って、また授業へ・・、という感じである。

 

(途中、執筆中。随時、更新していきます。)

 

帰国へ

 アイダホを出発する日、カルロスとデボラに今回の旅の目的を言った。

「僕が今、こうしていられるのも、カルロスとデボラのおかげです。どうしても直接会ってお礼を言いたかったから、ここまで来ました。僕だけではなく、その後お世話になって人たちもみんな同じ思いだと思います。」、僕がそう言うと、二人は目に涙を浮かべて喜んでくれた。この気持ちが伝えられただけで、今回の旅行に行ってよかったと思う。 

彼らは、僕がお世話になってから、16年の間に13人もの留学生を世話していた。ホストファミリーになるということは、ほとんどボランティアのようなもので、世話するためのお金は最低限しか与えられない。実質は、間違いなく赤字だ。彼らは学校の先生をしているが、お世辞にもリッチな家庭ではない。僕が留学していた当時、彼らは34歳。ちょうど、今の僕の年齢くらいだ。今、僕が彼らと同じことを、日本に来る留学生にしてやれるかといわれると、まったく自信がない。

さらに、普段、彼らは学校で、知恵遅れの子供たちを教えている。僕にはとても真似のできないことだ。 

彼らの持つ「奉仕の心」というか、「自分だけではなく、みんなが幸せでないといけない」と思う気持ちは、彼らの宗教であるモルモン教の教えから来ている。僕は、宗教や占いなどまったく信用していない人間だが、彼らの行動を見るにつけ、宗教の持つ力を感じずにはいられなかった。最近は、テロを起こしたり、変な方向に走ってしまう宗教ばかりが注目されてしまうが、宗教にはこういう素晴らしい力もあるということを再認識した。日本人は僕も含めて、平和に慣れ、神に感謝することも忘れてしまっているが、全てのものを何不自由なく、当たり前のように与えられている今の日本は、そのうち恐ろしいことになってしまいそうで怖い気もする。 

今度は、息子がもう少し大きくなったら、連れていってやりたい。できるだけ早いうちに、「世界は広いんだ」ということを感じさせてやれたらと改めて思った。

 

写真は徐々に更新していきます。

   

僕の背丈ほどだった庭に植えていた木が、巨大な木に変わっていたこと以外、16年前とほとんど同じ。

 

  ミニドカカウンティ・ハイスクール

 

Roundy家の庭からの風景