(4) 骨髄移植体験談
I.N
 私は2003年9月に骨髄バンクを通じて骨髄移植を受け、3年と5ヶ月が経過しました。バンクの2005年の統計では、私の症例を当てはめると移植後3年~5年の無病生存率は33%プラスマイナス14%ということです。移植を受け1年少々で何とか職場復帰もできましたし、現在はほとんど以前と変わらない生活を送ることができています。ただし、できるだけ無理をしないことと規則正しい生活のリズムを崩さないことに留意しています。特に睡眠時間は入院中の習慣が体に染み付いていて午後9時過ぎには眠くなってしまいますので早めに就寝するようにしています。昔のことを思うと全くうそのようです。しょっちゅう夜中の2時3時くらいまで飲み歩いていたのですから。(そんな生活を送っていて病気にならないはずがありません。)
 3、4ヶ月前、仕事の関係でお世話になっている方が私と同じ急性リンパ性白血病とわかり入院されたということを耳にしました。年齢は私より少し年上で還暦前の方です。女性なのでお目にかからないほうが良いだろうかと迷いながら自分の経験上入院してすぐよりも少し治療になれた?頃のほうがいいかなと考え最近お見舞いに行きました。ちょうど2クール目の抗がん剤治療が始まったばかりで「今のところ副作用があまり強く出ていないので大丈夫です」と仰ってお元気そうなので少しほっとしました。ただ、移植に対する不安があり、年齢的にも無理なのではなかろうかとご心配の様子でした。そこで私は自分の体験や最近のミニ移植の話などをして帰りました。
 2、3日後に彼女からお礼のはがきが届きました。同病の私が骨髄移植を受けて回復している様子を見、年齢的にも移植医療の限界かと思っていたけれど少し希望の光が見えてきたということを綴っておられました。私がお見舞いに伺ったことは無駄ではなかったと嬉しくなりました。そして自分の体験を語ることによって少しでもより多くの患者さんが将来に希望を持つことができるようになれば、これまで私を支えてくれた方々へのご恩返しにもつながるのではないかと思いました。

 今から約5年前、2002年5月の人間ドックで急性リンパ性白血病に罹患していることがわかり、すぐに入院しました。50歳のときです。入院時に主治医から病気の概要、治療方針などいろいろと説明を受けました。(JALSGのプロトコルに基づく)化学療法を6ヶ月間行い、その途中兄弟のHLAが合えば骨髄移植をすることになるだろうということでした。そして翌日から早速抗がん剤治療が始められました。私の入院を知った同僚や上司の方たちが次々と見舞いに来てくれました。しかし、白血球が減少しているときは面会できないこともあって次第に「○○さんが見舞いに行っても面会謝絶になっていたそうだ。
ただ事じゃあなさそうだからあまり行かないほうが良いのではないか。」という話が広がっていったようでした。そんな中で何人かの友人は私の体調の良いときを見計らって、最後までいつも同じように励ましてくれました。それがどれくらい心の支えになったことか、本当に感謝感謝です。(家族の支えはもちろんです。今では家族に頭が上がりません。)
 最初の寛解導入療法をなんとか乗り切って体調が回復してきたとき、一時帰宅が許されたときはとても嬉しかったことを思い出します。
 次いで地固め療法に移り最初に骨髄穿刺(マルク)と髄腔内注射(髄注)がありました。骨髄穿刺は入院前にも精密検査のため受けていたのでどのようなものかはわかっていましたけれど、髄液を抜き取る瞬間の強烈な痛みと体全体が注射針に吊り上げられるような感覚は何回やっても嫌なものです。そしてそのとき髄注は初めてなのでどれくらいの痛みがあるのかとても不安でした。まず海老のように横向きになると早くも緊張のあまり冷や汗がたらたら出てきます。局部麻酔の注射針を刺すときチクチクっと痛みが走り、次に腰椎麻酔の要領で神経線維に触れないように慎重に注射針が腰椎の間に刺し込まれますが、これがなかなか1回ではうまくいかないのです。ズンという感じで何とも言えぬ重い痛みです。何度目かにやっときちんと針が刺し込まれたら骨髄穿刺と違いじっくりと抗がん剤が注入されるのでこれが終わる頃にはもう体中ぐっしょりでくたくたになってしまいます。そして次第に腰から下、お尻のあたりから足先まで重苦しい感じがしてきて2時間くらいは安静にしていなければなりませんでした。マルクの一瞬の痛みに対する恐怖感。そして髄注の蛇の生殺しのような恐怖感。治療のクールごとにこの二つがあるのでとても嫌でした。
 そして2回目、3回目と回を重ねるごとに抗がん剤の副作用の厳しさが増してきました。
午前中の点滴が終わると午後はテレビのお守りです。当時は北朝鮮の話題で持ちきりでした。それを見ていつも苦々しい思いをしていたものです。このため余計にストレスがたまりました。食事は病院のほうで食べやすいような献立を考えて出してくれますが、副作用のためほんの少ししか喉を通りません。それに白血球が少なくなると無菌処理をしたものしか出ませんでした。まったく味気がなく食事をとってもこんな具合ですから殆ど楽しみはありません。次第に髪の毛は抜けるし味覚もだんだんおかしくなってきて食欲不振、嘔吐、下痢、便秘と消化器系がやられました。そして手足の指先が痺れて自由が利かなくなり、お茶を汲みにいこうと思い手に持ったやかんが落ちて床に転がったときは強いショックを受けました。また、天井から噴き出す冷房装置の冷気やベッドの頭上に置かれたエアーフィルターを通る空気の流れが異様に寒く感じられるようになりました。そして足腰がまるで神経痛にでもなったのかと思えるほど痛くなり、真夏なのに毛布を2枚かけて足元には電気アンカがなければ落ち着いていられないほどになりました。そのうえ体中がガタガタと震えるような悪寒に何度も襲われて、そのたびに高熱と大量の発汗があって下着もパジャマも全部着替えなければならない状態になりました。なのに指先が痺れて自分ひとりで着替えることもおぼつかなくなっていたのには本当に情けない思いがしました。そして汚い話ですが、もともと便秘をしやすい体質だったので寛下剤を処方してもらっていたのですが、それが効き過ぎて粗相をしたり、逆に便秘になると気が遠くなるほど気持ちが悪くなったりしてついには高圧浣腸のお世話になったこともありました。さらに一時は肺炎になり妙な夢ばかり見たこともありました。治療の痛み、苦しみすべて個室の中で一人で耐えていかなければならない孤独感と絶望感でもう治療をやめてほしい、死んでもいいと思ったことさえありました。そんな中で兄がHLAの検査を受けてくれましたが残念なことに半分しか型が合っていませんでしたので結局抗ガン剤治療が続けられたのでした。時々母が見舞ってくれ体をさすってくれたりしましたが年老いてとぼとぼ歩いて帰っていく姿を窓越しに見ていると余計につらく悲しくなりました。そして息子たちが洗濯物を持ってきてくれても特に話もなく帰っていくのを事故を起こさないように気をつけて帰ってくれよと祈りながら見送ったりしたものです。それでも、みんなの顔を見ると一応ほっとしました。妻は病気になる前はよくけんかをしていましたが、どんなに忙しいときでも勤めの帰りに必ず立ち寄ってくれました。入院生活も長くなると特に話すこともなく一緒にテレビを見るだけのこともありましたが、いつしか彼女が病室から帰る際に握手するでもなく軽く手を触れ合うようになっていて、か細いけれどその一瞬のぬくもりが切なくも唯一の楽しみというか、救いになっていました。
 そうして予定期間の半分が終わる頃何とか先が見えてきたという思いと、家族や友人達の励ましのおかげもあってやっとの思いでその苦しさを脱することができたのです。特にI.Tさんは当時奥さんがガンのため闘病中でその看護に明け暮れていたにもかかわらず私にも優しい心遣いを示してくれ胸を打たれました。 そうこうして翌年(2003年)の3月3日にやっと退院することができました。

 ところがそれもつかの間、4月初めの外来診察時に再発を告げられました。このときは初めて病気を知ったときよりもはるかに強烈なショックを受けました。そのときは死が再び目の前に強く迫ってきたような気がして病院からの帰り道車を運転していても上の空で信号機が涙でかすんで見えたほどです。意気消沈して帰ると妻も激しく動揺したようでした。そして藁をもすがるような思いでアマゾン産の紫イペを取り寄せるなど懸命にいろんな健康食品の情報を捜してくれました。
 一方、本当に幸運なことにそのときHLAの一致するドナーが3人登録されていたので、すぐに患者登録をするように主治医に勧められそれに従いました。患者登録申請書を病院に提出したのは4月21日でした。
 しかし、本当にドナーから骨髄を提供してもらえるんだろうか、ドタキャンがないという保証はないし、仮に運よく移植できたとしても、抗がん剤の苦しさを体験してきただけに、これまでの投与量とは格段に多いであろう前処置における抗がん剤の副作用に本当に耐えることができるんだろうか、などとものすごく強い不安がありました。そしてこのまま自然に治癒してくれればいいのに、というのが偽らざる心境でした。
 ゴールデンウィークが明けるとバンクからドナーのコーディネートが開始されたという知らせが届き、銀行に費用を支払いに行きました。その手続きが終わっても気持ちは揺らいでいました。そして霊験あらたかと言われる神社仏閣へお参りに行ったりするなど現実から逃避しようとしていました。
 6月に入って一人目のドナーが不適格だったと知らされました。下旬に入ると二人目のドナーも脱落しました。残すはあと一人です。不安はつのりました。最後の一人もどうなるかわからない。今のところ健康食品の効果が現れているのか、血液の状態も落ち着いているようなのでこのまま治るのではないか、あえて移植という危険を冒すこともないのではないか、等々気持ちは揺らぐ一方でした。
 そんな中、7月14日に財団からドナーの最終同意が得られたとの知らせが届きました。
いよいよ来るものが来たな、という感じでした。しかし、嬉しさよりも依然として不安感のほうが勝っていました。今思えばドナーの方に失礼な話です。ただ、当時も私の病種と年齢から考えると移植後の5年生存率は40%あるかないかという程度だったと思いますし、ただただ頑張れるかどうかまったく自信がなく移植が怖かったのです。
 その4日後外来を受診し、ドナーさんの意向は9月下旬か10月初旬が都合がよいらしいということを聞かされ、ついに移植に正面から向き合わなければならなくなりました。それまで自分は抗がん剤治療を受けてきたことから必要以上に移植を恐れていて、ドナーさんの篤い気持ちをありがたく受け入れるという一番大切なことを忘れていたのです。
馬鹿なことでした。
 8月8日の外来で移植の日が9月26日になったことを聞かされました。それでもまだ心の底には不安感が残っておりました。そんな心の状態を揺るぎなく前向きにさせたのは非科学的な話ですがお盆のときの亡父の霊示でした。私が仏壇に向かい拝んでいたとき父が私の後ろにいて私の背中をさすっている姿が兄の眼に見えたというのです。やはり苦しいときの何とかです。妙なことに、科学的な根拠も何もないのに大丈夫だ、絶対移植は成功するぞ、と兄が言い、それを受けて私も自分に言い聞かせることができ、その気持ちで移植に臨めたのです。

 9月1日に移植前の身体検査を行うために大学病院に入院しました。耳鼻科、心エコー、骨髄検査、外科、精神科、眼科、歯科、胃内視鏡検査等々いろんな検査をしました。そしてその間に妻と息子を交えて移植についての説明を受けました。前処置として致死量の3倍もの抗がん剤を投入して悪い細胞をたたいてしまうのだと聞かされたときはさすがに内心驚きました。それから移植前の副作用、移植後の副作用の説明の後、予後について、約3割の治療関連死があること、再発はありうること、私の当時の状況をそれまでの実績と照らして5年生存率は約4割強であるなどの説明を受けました。
 説明を終えて主治医は私に「どうですか。移植を受けますか。今ならまだやめたいと思ったらやめることもできますよ。」と仰いましたが、ここまでくればもうまな板の鯉です。
「移植を受けます。よろしくお願いします。」と頭を下げました。

 10日あまりの検査入院を終えていったん帰宅し、いよいよ移植に向けて再入院しました。今度こそ逃げられません。いくら霊示のようなものがあったからといってもやはり怖いものは怖いわけで、IVHを胸に取り付けるときには、前にもしたことがあるので平気だと言って強がっていたのですが、無意識のうちに極度に緊張していたようでなかなか針がうまく入らなくて随分と先生に苦労させてしまい、担当の看護師さんに笑われてしまいました。
 移植1週間前から抗がん剤投与が始まりました。ブスルファンを1回に7錠。それを1日4回4日間、その後エンドキサンを2日間という計画です。2日目くらいから副作用が出始め、夕方から食欲がなくなりました。その日には大阪にいる兄が見舞ってくれました。苦しくなったら心を無にして霊魂に任せなさいとなんだかわかったような、わからないようなことを言って帰りました。要するにいくらじたばたしても始まらないから何も考えず、なるに任せなさいということかなあと一人合点したのでした。断っておきますが兄は決して霊感者でも僧侶でも心理学者でもありません。信仰心が他の人よりも少し篤いかなというくらいのごく普通の人です。
 5日目には口内炎の兆しが現れてきました。そして心臓モニターも取り付けられました。右胸にはIVHのチューブ、左胸には心臓モニターの端子がテープで貼り付けられ物々しい姿になってベッドの上でほとんど身動きできない状態になりました。夜になると足は痙攣するし心臓はきりきりと痛むし、心臓モニターの電子音も気になってすごくイライラしてなかなか寝付かれませんでした。あまりの寝苦しさに看護師さんにモニターをはずして欲しいと我儘を言いましたが聞き入れてもらえませんでした。我慢しなければなりません。そんな折ふと兄が言っていた言葉を思い出しました。霊魂に身を任せることです。といってもどうすればよいのか・・・・。深呼吸をしてみました。うまい具合にまったく何も考えられなくなってスーッと眠りについたようでした。
 するとどうでしょう。
 子供の頃あまり泳げませんでしたが夏休みになると自宅近くの川に入り水中眼鏡をかけて水の中にもぐると周りに藻がゆらゆらと揺らめいていて水面のほうを見ると太陽の光がやはり同じようにゆらゆらと輝いて見え、それはもうとてもきれいな光景でした。
 それとまったく同じような光景が見えてきました。同時に不思議なことに自分の寝息がスーッ、スーッと規則正しくはっきりと聞こえてきました。それに看護師さんの足音、モニターの規則的な電子音など病室の周りの音も夢うつつの中ですがはっきりと聞こえてきました。そして次にはなぜか宇宙の光景が見えてきました。広い宇宙の真ん中にいる感じです。今度はまるでドラえもんの世界です。
 何か絨毯のようなものに乗っかった感じで上へ下へと大きくうねりながらまっしぐらに突き進んでいるのです。360度周りの星星があっという間に後ろへ後ろへと後退していきます。やがて真っ暗なトンネルに入りました。まだ猛烈なスピードで進んでいます。トンネルの上下左右、四方八方になにやら黒い影がいっぱいうごめいているように感じました。まるでヨーロッパ中世の地獄絵のようです。その真ん中を突っ切ってしまうとやがてスピードがスローダウンしてきました。次には星も何もなく穏やかな漆黒の闇の中でやがて左前上方に黄金色に輝く光の塊が見えてきました。ゆっくりとそれに近づいています。そのとき私は光の中に到達することは死を意味するのだと気づき、思わず「まだ死ぬわけにはいかん。しないといけないことがあるんだ。」と大声で叫びました。と、同時に目が覚め、思い切り両手でマットの両端を握り締めている自分に気がつきました。時計を見るとモニターをはずすのを断られたときからたった15分くらいしか過ぎていませんでした。大旅行をした割にはあまりにも時間の経つのが遅いなと思いました。しかし身体は疲れきっていてそのまま眠りについたのでした。
 翌朝目が覚め、あれは一体何だったんだろうと考えました。夢だったのか、それとも本当に宇宙旅行をしたのだろうかと。よくわかりませんがいわゆる幽体離脱、臨死体験というやつだったのかもしれません。一応看護師さんにこの体験を話しました。するとしばらくして精神科の先生がその話を聞いたからといって部屋に入ってこられました。移植を受ける患者のために精神科医がカウンセリングをする態勢がとられているのです。そんな話は単なる夢に過ぎないよといわれるのかと思っていたら、彼は私の話しをよく聞いてくれました。
 やはり骨髄移植は大変な治療なんだとそのとき思いました。未体験の恐怖からありえもしない妄想のような夢を見ることもあるのかなとも思い、いや、あれは実際の臨死体験なんだとも思い、いまだに謎のままですが・・・。
 ともあれ、そういうことがあってついに移植の日を迎えることになりました。前夜は少し興奮気味だったので睡眠剤を飲んで寝たためか、朝9時半でもまだ頭はボーっとしていましたが、担当の先生が県外の骨髄採取病院へ向かったと聞かされ、期待感が高まりました。昼過ぎには午後4時15分岡山駅着の新幹線に乗り込んだという連絡が入ったことも聞かされ、時が経つにしたがって今頃は京都のあたりだろうか、県境のあたりだろうか、など次第に心がわくわくしてきました。4時半には骨髄液が無事病院に到着して血漿の処理をしているので6時半から移植をすると知らされました。
 全部で880mlもの量ですが4つの袋に分けられて移植されるそうです。間もなく真っ赤な骨髄液が病室に持ち込まれました。カテーテルを通って新鮮な骨髄液が私の体の中に入ってきました。ひんやりとした感触でしたが、ああ、これで自分は生まれ変わることができるんだと、とても熱いものを感じました。そして同時にドナーさんや関係者の方々に対する深い感謝の気持ちで一杯になりました。
 4つの袋に分けられた骨髄の移植が終了したのは翌日の午前3時15分でした。安心してそのまま眠りにつきました。そして翌朝6時半には目覚めました。意外とスッキリとしていました。短い睡眠時間の中で、自分が元気で新しい仕事を始めて活き活きとしている夢を見ました。不思議といえば不思議です。とにかくこれからは快方に向かうことを予感させるものでした。

 移植2日目になると下痢の症状が出てきて身体がだるく一日中横になっていました。3日目もそうでした。あの奇妙な夢を見た?前日までは普通に無菌食が出されていましたがほとんど食べることができなくなっていて、あの日に朝食と夕食をほんの少しだけ口にした程度でそれから後は食事ができなくなり移植の前日に小さなゼリーを一個口にしただけでした。ですから、3日目にカップアイスを一個食べられたのでとてもおいしく、うれしかったことを思い出します。
 4日目の朝パンが出されたので少し口にしてみましたがまったく受け入れられずにすぐ戻してしまいました。そして下痢が続き日中は寝ているばかりで昼と夜が逆転してしまったような感がありました。それから排便のつど部屋のブラインドを上げ下げし、おまけに大小便の量を自分で計測しなければならず結構大変でした。
5日目からは10月になりましたが、お尻が痛くなり、白血球も200に減少しました。6日目には口内炎が出てきたので歯科の先生に来て診てもらいました。翌日は白血球が100に落ち込みました。そして血小板も2,7万になったので血小板輸血がありました。移植によってABO式の血液型がB型からO型に変わったのですが、しばらくはB型の輸血なのだそうです。この日も口とお尻の痛みが続きました。ブラインドの上げ下げと便の量計測のうえにお尻の痛み止めの軟膏を塗ったりしなければならず、こうした作業にはうんざりで、いい加減には落ち着かないものかと少し嫌な気分にもなりました。8日目には口内炎の熱が出てきました。そして痛みが増してきたのでモルヒネの点滴が始められました。これで点滴台は栄養剤やサンディミュン(免疫抑制剤)、白血球を増やすグランなど何種類もの薬のバッグの花盛りです。これらが私のいわゆる命の綱です。
 モルヒネを始めた次の日から下痢は少し収まりましたが、今度は便秘気味になってきました。その日の新聞に妻の父が秋の叙勲(警察等の危険業務従事者の功労賞)を受けることが決まったとの記事が載っていました。私がこのような病気になっていなければきちんとお祝いもできたのにと悔やまれました。こんな慶事があっても関係なく私の身体はますます口内炎が激しくなって喉の奥のほうまで痛くなり出血するようになって発熱が続きました。白血球もまだ200とか300くらいでした。血小板も1,3万まで下がり2日に1回というペースで血小板輸血をしなければなりませんでした。そしてこれは結局年末まで続けられることになったのでした。
 移植後14日目にようやく白血球が1400に増えました。好中球も47%程度あったそうです。その翌日と次の週の初めにも採血して結果がよければこの日が生着日ということになるだろうとのことでした。この日、ドナーさんにお礼の手紙を書きました。そしてその日の夜、前の病院での主治医が見舞ってくれ、大きな励みになりました。
移植の前々日から始まって10日あまり続いた下痢と口内炎には随分と泣かされました。口内炎に関してはオーラルバランスというゼリー状のものを滅菌処理したビニール手袋をはめた指で口の中に塗って凌いだりもしました。
 翌週、10月の第3週に入り14日目で生着したことがはっきりしました。そして口内炎は落ち着いてきたのですが今度は胸のむかつきや吐き気、発熱と全身の倦怠感に襲われ、また下痢が始まり1週間そうした状態が続きました。この頃はビニール手袋の包装紙で鶴を折ってみたり、般若心経の写経をしてみたりして気分転換を試みていたものです。当時NHKでてるてる家族という番組が放送されていてそのストーリーの明るい展開も結構気分転換に役立ったような気がします。
 その次の週になって大腸の内視鏡検査を受けました。移植前に検査を受けて以来2回目です。今度はGVHDの検査です。前は下剤で十分腸の中をきれいにしていたのですが今回はそうした作業をせずにいきなりファイバースコープを挿入するわけですから少し恥ずかしい気持ちと検査技師の人に申し訳ない気がして同時に彼らも大変だなあと思いました。
検査の結果今回の下痢の症状は必ずしもGVHDによるものではないようでした。しかし同じような調子がもう数日続きました。そしてその週末頃には体重の増加と肝臓のあたりの痛みを感じるようになりました。超音波エコーの検査で腹水が確認されました。VODかもしれないとのことで利尿剤による治療が始められました。
 移植して1ヶ月が過ぎ、発熱とそれに伴う全身の倦怠感とか下痢などは少し収まってきましたが、引き続き口と目に乾いた感じがあってその不快感に悩まされました。
 そうこうするうちに11月になりました。入院する前には移植して1ヶ月は苦しいだろうけれどそれを乗りきれば何とかなるかもしれないと考えておりました。11月1日の新聞広告に以前から欲しいと思っていた乗用車がいわゆる未使用車として売り出されているのを見つけ、とたんに無性にそれが欲しくなり、早く購入して退院の暁にはドライブをしてみたいと強く思いました。そしてそのために早く治さなければと部屋に吊るしていたカレンダーに「意欲!!」と書き込みました。小さな目標ができたわけです。
 翌2日には妻と息子が見舞いに来たので二人に車の話をして購入してくれるように頼みました。当然二人とも訝りました。まったく他愛無い話ですが、欲しいと思ったらたまらなくなってしまう悪い癖です。治療費がたくさんかかって困っているのになんと馬鹿なことを言う男だと自分でも思いました。妻も私が病気だから仕方がないと思ったのか、思わなかったのか、とりあえず私の言うことを聞いてくれました。今回の入院では不安はありましたが妙な確信もあったので、家族の見舞いは前年ほどの頻度でなくてもよいと伝えておりましたから妻も数日に一度くらいのペースで来ていました。洗濯も看護師さんがしてくれたり、調子のいいときには自分でしたりしていましたので家族の負担も前より軽くてすみました。しかし全く異質な大きな負担を私は家族に押しつけたのです。
 その翌日には一番奥まったところにある完全無菌室からドアひとつ手前の普通の個室に部屋が変わりました。そしてその1週間後には一般病棟の個室へ移ることになりました。血小板がなかなか増えないし、腹水のほうは大丈夫なのだろうかと気になりましたが、とりあえず一般病棟に移ることになったので、もしかしたら今度の正月は自宅で迎えられるかもしれないとほのかな希望がわいてきたのでした。
 11日の夜から点滴のロックをして就寝してもよいことになり、やれやれやっと身軽になれると素直に嬉しくなりました。そして13日の木曜日には血液検査の数値がある程度安定してきたので翌週末の一時帰宅の許可が出されました。それにその日は待望の車の納車の日です。まだ運転するわけにはいきませんが夕方息子がそれに乗って来ました。車を見るとおよそ想像していたとおりで早く運転してみたいと子供のようにわくわくしました。
 結構とんとん拍子でいろんな話が進んでいきます。今度は大学病院の退院の話が主治医から出されました。移植を待っている患者さんが8人もいてどうしてもベッドを空けなくてはならなくなってしまったこと、そして退院して外来で血小板輸血の治療をするよりは前の病院で1週間でも2週間でも入院して輸血のめどを立てた上で退院するのが最良の選択だろうということでした。私はもう少しここで治療を続けて欲しいと思いましたが、次々と患者さんが入ってくるのでそれもやむを得ないことなのでしょう。退院というか、転院の話を進めてもらえるようお願いすることにしました。
 18日には抗菌剤ジフルカンと抗ウィルス剤ゾビラックスの投与が終了しました。また一段階ステップアップできたことが嬉しくなりました。翌19日には4人部屋に移り、そのまた翌日には自然にIVHが脱落しました。これには一瞬あわてましたが、看護師さんに言うと完全に抜け落ちているので心配は要らないと教えてくれ一安心しました。なんだか神様が「もうこれはなくてもいいんだよ。血小板もだんだん増えてくるよ。」と教えてくれているかのように思えました。
 週末が来て一時帰宅です。早速買ったばかりの車に乗ってみました。調子は上々、気分も上々です。翌年の手帳を買いに行き、帰宅してからパソコンで年賀状を作りました。翌日は実家に行ったりして用事を済ませ夕方には病院に戻りました。
 長い間入院していると一時帰宅はいつのときもとても良い気分転換になりました。特に病気がわかって入院して最初のときは我が家の空気を吸えたことがとても嬉しかったことを思い出します。ただ、回を重ねるごとに病院に戻るときは寂しく重苦しい気持ちになっていたものです。しかし、今回は心にゆとりがあります。はっきりと退院できる見通しが立ったからなのでしょう。
 ところが、です。退院(転院)の前日になってこれまで散々予防してきたはずのサイトメガロウィルスの陽性反応が現れたのです。このウィルスは肺炎を引き起こしたり腸炎を引き起こしたりする厄介なやつです。幸いまだ症状が出る前でしたので早めにこいつをやっつけてしまおうということで急遽デノシンという薬の点滴が始められました。
 翌11月27日に転院しました。移植の前に9ヶ月もお世話になったところです。スタッフもかなり変わっていましたが勝手知ったるなんとかで懐かしささえ感じました。部屋は大部屋です。ここでしばらくデノシンの点滴治療と血小板輸血が続けられることになりました。1週間目にウィルス検査の結果サイトメガロウィルスは陰性になっていたのでデノシンは終わりました。血小板の輸血については、大学病院では血液型が変わる前のB型の血小板を輸血していましたが、こちらではO型を輸血することになって、おお、初めてO型が入ってくるのか、と一つの感慨がありました。しかしまだ血小板は増えてきません。どうやらVODに対抗するために消耗しているらしいことと免疫抑制剤とかデノシンなどの影響もあるのかもしれないとのことでした。結局あせらず気長に増えてくるのを待つしかありませんでした。転院してすぐ12月になりましたが、その月はほとんど毎週のように週末を自宅で送りました。そして暮れも押し迫った12月28日に退院することになりました。

 2年ぶりに晴れて自宅で正月を迎えることができ本当に嬉しくて、実家での餅つきに参加することができました。もっとも傍で見ているだけでしたが、1年前の正月は病室で一人寂しく初日の出を拝んだことを思えば喜びもひとしおでした。そのうえ、もしかしたら生きてこのような生活を送ることもできていなかったかもしれないことを思うとなおさら喜びは大きく感じられたのでした。久しぶりに口にする雑煮のなんとおいしかったことか。
 調子に乗って裏庭のイチジクの木の剪定までやりました。すると3日になって疲れが出てきて翌日またぞろ病院へ行き先生に診てもらいました。帯状疱疹になっていてまた入院することになってしまいました。こんなことになるとは思ってもいませんでしたのでちょっとがっかりでした。しかしそれも2週間で退院することができ、今度こそ普通の生活に戻れたのでした。
 寒い間はできるだけ家の中だけで過ごし、徐々に身体を慣らしていくようにしましたが、なにぶん1年と7ヶ月ものブランクがあるのでおいそれと簡単にもとのようには戻りません。食事ひとつとってみても味覚が変わってしまっていて、特にしょうゆ味、塩味が実際より濃く感じられ、生ものも半年くらいは口にすることができません。おまけに口はいつも渇いた感じがしてペットボトルを離すことができず、骨髄バンクの電話相談で対処法を尋ねたり、大学病院の看護師さんに尋ねたりもしました。免疫力が自分のものになるまで大好きな温泉にも行くことができませんし、制限の多い生活がしばらく続きました。梅雨の頃になると手足の指の関節が痛むようになりました。いったん終了していた免疫抑制剤の量を減らして服用を再開するといくらか痛みが和らいだので、それは慢性GVHDだったのかもしれません。
それやこれやで職場復帰も最初考えていたよりも半年くらいは遅くなってしまいましたが、最初の入院から2年5ヶ月ぶりに元の職場に温かく迎えていただくことができました。
本当に長い闘病生活でした。病気をいち早く発見し適切な対処をしてくださった先生をはじめ、各医療施設の先生方、看護師さん方、職場の上司、同僚、友人、そして家族。また絶対に忘れてはならないのは骨髄バンクの方々とドナーさんです。そうした多くの方々の支えがあって私は生かされたのでした。本当に心から皆さんにお礼を申し上げたいと思います。

一昨年、再生不良性貧血に苦しんでおられる患者さんが私のところに移植を受けるべきかどうか相談に来られたことがあります。お医者さんを信頼しドナーが見つかれば絶対に移植を受けるべきです。そして必ず移植は成功するんだと自分に言い聞かせること、もうひとつは趣味でも何でもいいから実現させやすいような楽しみ(目標)を設定し、元気になった自分がそれを楽しんでいる姿を想像してその目標に向かって自分の気持ちを高めていけばきっと移植は成功しますよ、ただし、そのハードルは少し低めに設定したほうがいいかもしれませんね、とお話しました。
最近、彼は元気になっているよと共通の友人が教えてくれました。

私の場合極めて運良く病気が発見され、ドナーが見つかり、しかもGVHDも軽くてすむなど、ある意味異例ともいえる体験だったかもしれませんが、まず必ずドナーは現れると信じることが大切だと思います。そして運よくドナーが現れて移植となったときには元気になった自分の姿を想像して自分は絶対に治るんだ、絶対に移植は成功するんだという強い気持ちを持ち続けることが大切だと思います。
移植を受けても慢性のGVHDとか合併症で苦しんでおられる方も多いと聞きます。しかし、確実に移植医療は進歩しています。
全国のドナー登録者数がもう間もなく目標の30万人に到達しそうです。
さらに多くの方がドナー登録をしてくださり、血液疾患と闘っておられるすべての患者さんが元気になられますよう、そしてご家族揃って幸せな生活を送られる日々が訪れることを心から願ってやみません。

2007年3月