(2) 骨髄提供体験談 | |
Y.H | |
私が、骨髄移植のことを知ったのは十年少し前、広島県の因島に住む少年の提供者探しの記事 でした。当時は公的骨髄バンクの出来る前で、田舎において「血」は家柄を指すという考えも多く、 患者さん自身が呼びかける事はめずらしいことでした。残念ながら彼とは型が一致せず、支援組織の 紹介で東海骨髄バンクに登録しました。その後、公的に骨髄バンクが発足したため、改めてドナー 登録しました。 その後、ドナー登録をしている事を忘れるぐらいの歳月が経ち、体型も肥ってしまった4年前の初夏、 見慣れない色の封筒と電話により、ドナー候補に入ったという知らせがありました。 そのときは日々の 不摂生を悔やみ、「本当に自分が提供出来るのか?」といった思いがありました。 コーディネーターの方も「他に候補者もおられますし、太り過ぎの人は採取が難しいです。」と言われま した。自費で健康診断を受け、身体的に問題がない事が分り、提供の決心がつきました。 骨髄液の採取地の選択では岡山市、倉敷市、広島市が有りました。それにより、コーディネーターも 正式に決まり、検査のための通院時の手続きや、待ち時間などは話し相手をしてくれました。 検査の結果も採取可能で、腰の脂肪も少なく問題はありませんでした。 最終同意では、配偶者と共に弁護士の立会いのもと説明を受け、全身麻酔に対する説明では トラブルの可能性の有ること、重~軽症状などを挙げられ、一抹の不安が有りましたが、ドナーの 状態を絶えず監視し「危険な状態になれば直ちに中止」との事で、最終同意書に署名しました。 ただ、採取が冬になる事となり、健康面で不安が有りました。 3次検査は超精密検査というものでしょうか。1リットルの水を飲み行なう検査もあり、丁度喉が渇き きっていたため、出るものがなかなか出なかった事が記憶に残っています。この頃から、薬の服用に は注意をして、極力使用しないようにしました。骨髄液採取時に輸血するための自己血採血は2回に 分けて行なわれ、貧血防止用の錠剤を支給され念のため服用しました。 採取を1週間後に控えた頃、恐れていた風邪にとうとう感染し医者にも行かず辛抱していましたが、 子共が肺炎になりかけたと聞き、慌てて採取病院に駆け込み診察を受けたのが、入院予定日の 前日でした。(小児科医が専門用語で家族に伝えたため、特に混乱しました。) 採取日は微熱は有りましたが、予定通り採取に入りました。病室で睡眠導入剤を飲み手術室へ、 点滴のため針を刺し、麻酔医から軽い血管痛後に麻酔が効くと教えられました。その時点では 風邪のことも有り、麻酔に対する不安は有りませんでした。麻酔医の「血管痛!」の声と共に一瞬痛み を感じ、次の瞬間はまどろみの中、コーディネーターに会ったように記憶し、意識が完全に戻ったときは 病室でした。 (麻酔後、気管内挿入等や体位変換、採取部位の切開後に採取が行なわれました。) 採取部位に、痛みを感じることが無かったため、採取出来たのが信じられませんでした。 風邪の影響か何かの不都合で中止になったと思っていました。本当に実感できたのは患者さん からの手紙でした。手紙は家族で読み、患者さんの社会復帰をみんなで願いました。 採取後の経過は順調で、退院時には大きな絆創膏2枚が、抜糸後は小さな物になり、鏡で傷後を 見ると2cmたらずの小さなもので、現在はよほど注意しなければ分らなくなりました。その切開部から 多くの採取針が打たれ骨髄液が採取された事が不思議でなりません。 採取前は「一人でも患者さんを救いたい」と思っていました。採取に当たり「たった一人の人を救う ために多くの人が関わっている」事を知りました。言い換えれば、多くの人々の協力があって、やっと 一人の命を救えるということでしょうか。 採取後は、自分はたった一人の人に希望をもたらす場に居合わせただけ、患者さんには「ご家族、 他の多くの患者さん、関係者に希望や勇気をもたらす事が出来る。だから頑張れ」と手紙を出しました。 昨年ですが、再発の兆候があるとの事で、末梢血漿輸血を実施しました。これは成分献血の要領で 行ないました。少し時間が長く量も多かったと思います。正常な血液免疫成分を患者に入れ治療する 訳ですが、[自分の物]だけに拒絶反応が無いそうです。[血]を分けた人のためだけに、自然と力が 入ったように憶えています。(強制ではありません。) 最後に、今も多くのドナー待ちの患者さんがおられます。移植は患者、ドナーの体調の良いタイミング で行なうほうが成功率が高いと聞きます。一日も早く「チャンス」を読み、納得をして頂いた上で登録して 頂きます事を心よりお願いいたします。
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