「もし誰か、この地上で地獄を見たいと欲する者があるならば、夜の一時か二時頃の重病室を見られるようすすめる。鬼と生命との格闘に散る火花が視覚をかすめるかもしれない」(北條民雄『癩院記録』)
 オリンピックが間近にせまった中国からの報道に私は目を奪われた。北京五輪の組織委員会は、外国人への法律指南書を出し、どんな外国人は入国できないかの注意書きに、テロリストとともに麻瘋病(ハンセン病)の患者を挙げているのだ。
 「One World One Dream」、北京五輪のキャッチフレーズが心に空しく響く。
 ハンセン病に対する世界のすう勢は開放政策である。先進国といわれる国では、感染力が低く、日常生活で感染する可能性はほとんどないハンセン病の患者たちを隔離するようなことはしなかった。

 しかし、中国のことを批判ばかりはできない。長らくハンセン病患者たちを強制隔離する政策を続けたのは、実は日本政府であった。患者たちとその支援者のねばり強い抗議、反対運動によって、90年に及ぶ「らい予防法」が廃止されたのは1996年。それまでハンセン病者は出入国管理法で日本でも入国を拒否されていたのだ。
 そのらい予防法が続いていた30年程前、瀬戸内海に浮かぶ岡山県のハンセン病療養所、邑久(おく)光明園を訪ねたことがある。
 韓国のハンセン病回復者たちの開拓村へのワークキャンプをしていた私たちのグループは、日本の隔離政策に抗議をするとともに、日本各地の療養所への訪問、聞き取りなどもしていた。
 在日韓国人の患者たちとの交流会で少しお酒が入った時、一人の青年が語気するどく私たちにせまった。
 「あんたらホントに俺たちの気持ち分かるのか。分かるんだったら、これを食べてみろ」と不自由な手に握ったスプーンに、自分の皿からキムチをすくい突き出した。
 ハンセン病患者として、また在日韓国人として二重の差別を受けてきた人の気持ちを私たちは本当に理解できていたのだろうか。
 「人生は暗い。だが、たたかう火花が、一瞬暗闇を照らすこともあるのだ」徳島県出身の作家で、23歳でハンセン病で亡くなった北條民雄の言葉だ。その暗闇を私たちはどれだけ知っているのだろう。
 差し出されたキムチの苦い味を、私は忘れることができない。

 建築家 野口政司
 
2008年6月25日(水曜日) 徳島新聞夕刊 「ぞめき」より

火花
野口建築事務所
Noguchi Architect & Associates