「十八になりたる子をたゝせてより、又ふためともみざるかなしさのあまりにいまこのはしをかける成、・・・」

 保田興重郎の名作、「日本の橋」の終りのところに出てくる文である。天正18年、小田原の戦に豊臣秀吉に従って出陣、戦死した堀尾金助という若武者の33回忌の供養のために母親が橋を架けたことを印した銘文が紹介されている。
 この文は、名古屋市熱田の町を流れている精進川に架けられた裁断橋の青銅擬宝珠に印されていて、本邦金石文の中でも名文の第一であると 保田興重郎は書いている。日本の優れた橋の文学の唯一のものであるとも。
 橋は“はし”であり、この世界の境である。そして此岸から彼岸へと越えていくものである。橋を架けることで、息子とつながることができるのではないか、という母の思いが400年の歳月を越えて伝わってくる。橋を架けるとは、そういうことであった。少なくともかつての日本では。



 1月23日に行われた「10年目の123」。1000人以上の参加者で大盛況であった。基調講演をしてくださった五十嵐敬喜さんと、翌24日に吉野川を巡った。第十堰から河口干潟までを見て回るエクスカーションである。
 お天気にも恵まれ、静かな湖のように澄んだ吉野川の水面に、眉山と空の青さが映り込む。第十堰から河口までの14.5kmにはいくつもの橋が架かっている。あらためて見てみると、それぞれに個性的である。名田橋やJRの鉄橋、吉野川橋(旧古川橋)はまだしも。吉野川大橋や東環状大橋などには、かつての日本の橋に見られた精神性が感じられないのはどうしてだろう。
 松茂空港や鳴門インターから徳島へと入ってくる人を先ず迎えるのが吉野川である。川の雄大さに心を奪われ、城山、眉山の遠近感のある風景を見ながら街の中心部へと誘われる。この橋を渡ることで別の世界へと入っていく、という最高のシチュエーションである。それなのに即物的な造りの橋が、その邪魔をしているのがいかにも残念である。
 
「まことに羅馬(ローマ)人は、むしろ築造橋の延長としての道をもってゐた。彼らは荒野の中に道を作った人々であったが、日本の旅人は山野の道を歩いた。道を自然の中のものとした。そして道の終りに橋を作った。はしは道の終りでもあった。しかしその終りははるかな彼方へつながる意味であった。」 (保田興重郎「日本の橋」)


 建築家 野口政司
 
2010年1月27日(水曜日) 徳島新聞夕刊 「ぞめき」より

日本の橋

野口建築事務所
Noguchi Architect & Associates