about : never ending journey

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この雑言も、これでとうとう 999本目、宇宙に走り出してしまいそうな
番号まで到達してしまった。
最初は何の気なしに書き始めた上、その書き始めが 1999年、
ファイル名の文字数に昔風な制限をつけてしまったため
数字が 3桁しかなかった。まあその、ここまで書き続けるとも
思っていなかったというのもあり。

その内年間 100本というのが何となくノルマになってしまい、
今ここに飽和の時を迎えるに至りました。

今振り返ってみると、書き始めの頃と今とでは文体も違うし
書いている内容も違う気がします。それに第一、書くべきものが
さっと出てきません。どうやら既に記憶力が衰えてきているのか、
ネタを思いついても忘れてしまう事が多い様です。なるべくメモや
携帯に書き留める様にしているのですが、やはり思いついた時の
記憶を残しているのと、メモから発想から再構築するのとでは
ネタの鮮度が違います。

そんなこんなでこれを書くのも止め時か、と思っておりました。

ですが、色々考えた結果、書き続ける事になりました。
1つ目の理由は簡単で、止める必要が特にないからです。
ま、止めたとしてもやり直せばいいのだし、それを一々宣言するのは
自慰行為みたいなもので、意味がない。なので、止めると言う事を止めます。

そしてもう 1つ理由がありまして。

先日会社の後輩の文書を読んだ時に思ったのですが、文書・文章は
人を映すのです。特にその人のその時を。なので、その後輩がどういう
状態でこの文書を書いたのが手に取る様に分かり、ほくそ笑んでしまいました。
多分若かった自分も、きっとこんな文を書いていたんだろうなと思いつつ、
自分若かった頃は、良い思い出としつつ胸中と股間に熱い思い出を残しつつ、
それはそれとして鬼の様にダメだししてけちょんけちょんにけなしときました。
こうして少年は成長してゆくのだから仕方が無い (自分も後輩も)。

そういう観点から、やはりこうして文章を継続して記述し、閲覧可能にしておく
という事が、私を映しているのではないか、と思うに至ったのです。
それは古人の日記随筆などが当時の様を垣間見させたり、作者の感情を共有
させてくれるのと似て、自分を垣間見せ、感情を共有できるのではないか
と思うのです (対外的にというよりは、むしろ自分に向けて)。
これはつまり、文章における自分であり、自分の積分 (サンプリング)
といってもいいのかも知れません。

これまで裸を晒してきた私ですが、実は自分自身もさらしていた訳です。
そしてこれをもし年老いて、足腰が立たなくなり、キーが叩けなくなる
その日まで続けたら、それはひょっとしてとても面白いのではないだろうか。

そう思うと、なおの事止める訳にはいきません。
続けます。続けなければならないのです。
そんな全人類に対する嫌がらせとも思える面白い事を、
止められる訳がありません。
−以上−

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