about : 死後の世界

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この文は、浅田次郎の "椿山課長の七日間" からインスパイアされたもの
である事を宣言する。

仏教にならえば人は死後、中陰を経て極楽、地獄または輪廻する
という事になっている様だ。
中陰とは、死後の審判を受け極楽ないし地獄へ行くまでの経路
というものの様だ。
極楽については、死後に行く場所で、苦のない世界という事らしい。
輪廻については、死後に苦しみのある現世への回帰と言えるだろう。
地獄についてはここでは割愛する。

死後、人はどの様な状態で死後の世界に存在するだろうか?
仮に輪廻する場合には、生まれるところからという事になるだろう。
(但し、精子と卵子に分離して父母の体内に居るところからやり直して欲しい
と私は思う。ぜひ父の陰のうに戻って頂きたい。父の陰のうに。)
他方極楽、地獄となると話は別となる。私の認識では、現世の死時の
状態を保存する筈だ。その裏づけとして言及するなら、もし極楽に
いるとしても、記憶がなければ人は不安になるだろうし、リレイションシップ
なくして人の安寧は得られないだろう。地獄であってもやはり記憶は必要で、
地獄の沙汰も記憶が残っていなければ、贖罪なのかどうかも分からないし、
何故自分が地獄に居るのかすら分からない筈だ。

では次に、人間の関係はどうなるだろうか?
輪廻では人間関係を再構築する事になる。それに対し、極楽、地獄ではきっと
現世の状態が保存されるに違いない。

これらをまとめると、死後の人は死時の姿と人間関係を保ったまま
死後の世界で暮らすという事になる。

ここで 1つ考えたいのは、ではどこまでのリレイションシップが保たれている
だろうかという事だ。1等親、2等親だろうか、はたまた n等親だろうか。
現世では、親子関係だけみても、せいぜい 5世代程度までだろう。しかし
死後となると話は別だ。有史以来、いや有史以前、はたまた生物の誕生、
いや、有機物発生まで遡るか、どうせなら地球誕生、いっそビッグ・バンまで。
また、ヒトはこの様な分類なのだが、
動物界脊索動物門脊椎動物亜門哺乳綱霊長目真猿亜目狭鼻下目ヒト上科ヒト科
はたして死後の世界にはどの分類までが存在を許されるのだろうか。
ヒトだけだろうか?いや、類人猿まではいいだろう、いや、サルは許容範囲だ、
じゃあどこまで入れる?いっそ動物か、でも有機物まで含んでもいいのでは?

これらのどこまでの存在を許すかは神と仏に委ねるとして、仮にヒトだけ
としても、ヒト誕生以来の人口の累積が、死後の世界に存在する事になる。
ちなみに最近の人口は約 65億人で、年間 6千万人の方がお亡くなりに
なっているという。
となると、現在の死後の世界の人口は果たしてどれだけなのだろうか。
そしてこれから n年後、死後の世界の人口は果たしてどれだけになるだろうか?
答えは無限となる。

そしてそこには、故人と、故人の両親が、両親にはさらに両親が、脈々と
受け継いできた系統が、保存されている。そしてそれらは死時の状態を
保存しており、きっとじいさんとばあさんが無限に存在し、父よ母よ息子よと
呼び合うているに違いない。


もし死後の世界が存在するとしたら、それには 2つの可能性がある。
1つめは、無限小の空間、つまり数学的な点の様な存在だ。そこに
無限の人が詰まっている。だがそれは物理的に観測する事はできないだろう。
きっと、物理的なものではなくむしろスピリチュアルなものなのだろう。

2つめは、無限大の空間。宇宙の膨張論と同様で、きっと私たちがいる
宇宙とは別の、さる場所にある我々が住むとは別の宇宙なのではないか。

だが、我々の宇宙と、死後の宇宙は膨張する。死後の宇宙は我々の宇宙より
さらに速く膨張するだろう。

ひょっとすると、いずれ我々の宇宙と死後の宇宙が衝突し、ひょっこり
ご先祖様と鉢合わせする事態が、いずれ訪れるかもしれない。


※宗教を愚弄するつもりは毛頭ありません。好きにやって下さい。
−以上−

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