大人の階段登る〜 君はまだ〜 シンデレラさ〜 幸せは誰かがきっと〜 運んでくれると信じてるね〜 少女だったと〜 いつの日か〜 思う時が来るのさ〜 ... ... ええ、少女でした (回想中)。 少女の頃はなんだか素敵な事があるような気がして 何となく嬉しかった。 そして大人の女になった頃には、この時がいつまでも続くかのように錯覚し その存在をなおざりにしていた。 そして三十路女となった今では、ああ、また年を取るのかと 何となく憂鬱になったり。 そんな誕生日、いつの頃から祝う風習が定着したのだろうかと 気になったので調べてみた。 すると、 何とも後ろ向きな記述の多いことか。 まあ大体、そこそこ年を取った者か、何か悲しい事があった人が 考えるんでしょうね、こういう事って。 (え!? オレって悲しい人? ねえ、俺って悲しいの??) ちなみに日本に誕生日を祝う風習が入ってきたのは明治以降で、 西洋文化の一端らしい。それまでは数え年だから、正月とともに みんなの年齢がバッチ処理で上がっていたんだそーな。 そして、年を取るという事は昔の日本ではそれほど良い事ではなかったらしい。 何て言うか、年とともに現実に触れていく訳だしね。 昔は今ほど個人というものが尊重されていなかったから。 では今日、私達は何故誕生日を祝うのか? 生まれた事を祝うのは、理解できる。 子孫だしね。DNA を繋ぎとめる事ができたのだから、そりゃ嬉しいはずだ。 で、それを記念して毎年祝うのかというと、どうだろう? なんか違う様な気がする。 血族以外の方が祝ってくれる事もあるのだし。 どっちかって言うと、そういうものとして、祝うものとして捕らえているから という方が、しっくりくるような気がする。 言ってみればイベントなのか。 私達は、誕生日を祝う、という事の本質を理解していないのかも知れない。 等といっているとコノ人悲しい人なのね、なんて思われるかもしれないので、 もうちょっといい事言って終わりにしよう。 私は誕生日を祝うという事をこう考えてはどうだろうかと提言する。 誕生日を祝うという事は、その祝われる人の存在を祝うのだと。 その人が居てくれてよかったと、 その人が生まれてきてくれたことを感謝するのに その人の誕生日を記念日にしているのだと。 コレくらい壮大だと、たとえ年を取るのがちょっとうっとおしっくても、 誰でも祝福の言葉を素直に受け入れられるかなぁ、と思うんだが、どうか。 ※私は祝ってくれるものは全て welcome ですけどね |
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