歎異抄に聞く

第15回

いわき市社会福祉センターで行われた歎異抄に聞く会の講義録を掲載いたします
        
       
第6章について(その1)


 専修念仏のともがらの、わが弟子ひとの弟子、という相論のそうろうらんこと、もってのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたずそうろう。そのゆえは、わがはからいにて、ひとに念仏をもうさせそうらわばこそ、弟子にてもそうらわめ。ひとえに弥陀の御もよおしにあずかって、念仏もうしそうろうひとを、わが弟子ともうすこと、きわめたる荒涼のことなり。つくべき縁あればともない、はなるべき縁あれば、はなるることのあるをも、師をそむきて、ひとにつれて念仏すれば、往生すべからざるものなりなんどということ、不可説なり。如来よりたまわりたる信心を、わがものがおに、とりかえさんともうすにや。かえすがえすもあるべからざることなり。自然のことわりにあいかなわば、佛恩をもしり、また師の恩をもしるべきなりと云々

    
  この6章は、仏法においての弟子の問題を取り上げて、念仏の教えを明らかにしようとしています。これは、歎異抄の魅力の一つでもあるかと思いますが、念仏の教えはこうであるという説き方ではなく、具体的な問題を取り上げて、そのことを通して念仏の教えを説き明かそうとします。しかも、我々の常識をひっくり返す提起がそこに含まれています。ここでも、関東で親鸞聖人はどれ程多くの弟子をお育てになったことかと思っている私たちに、私には弟子は一人もいないといわれる。そこには、大きなインパクトがあり、何故そのようにおっしゃるのかと私たちに思わしめるのに充分なものがあります。そして、その疑問に応えるということを通して念仏の教えが説かれていきます。


 
《 自専すべからず 

 こういう問題が取り上げられるには、弟子を取ったの取られたのということ、あるいは離反した弟子をどうするのかということが、大きな関心事として取りざたされていたということがあったにちがいありません。
 親鸞聖人の曾孫にあたる覚如上人が書かれた「口伝鈔」や「改邪鈔」にも、親鸞聖人当時のエピソードとして弟子の問題が取り上げられています。
 口伝鈔ー6には、信楽房という門弟が、きつくお叱りを受け、居られなくなって親鸞聖人のもとを離れることになります。そのとき、蓮位房という方が、門下を離れるからには、信楽房に与えたご本尊や、親鸞聖人の署名の入ったお聖教、それに信楽房という房号を取りあげるべきではないかと進言いたします。それに対して、親鸞聖人は、「ともに如来の御弟子なれば同行である。私が信楽房に教えて念仏を申させたのではなく、釈迦・弥陀二尊のおはたらきによって念仏申すようになったのである。ご本尊やお聖教は衆生を救うはたらきを持ち、自専するようなものではない。したがって、取り返すということはあってはならないことである」とおっしゃるのであります。ご本尊やお聖教は、自専、つまり、個人のものとして所有出来るものではない。それらは、公のものというか、救いを求める全ての人々のためのものであるということです。そして、面白いことをおっしゃっていて、たとえ、親鸞の署名入りのお聖教を「坊主にくけりゃ袈裟までにくい」の如く、どこかに棄てたとしても、棄てられたそこの生きとし生けるものが佛のはたらきに出遇うことができるのですから、無駄にあるのではないかという心配には及ばないと言われます。佛のはたらきに対する深い信頼がそこに語られています。
 親鸞聖人当時、そして歎異抄が書かれたのは没後27、8年、さらには、この口伝鈔は、親鸞聖人が亡くなられて70年頃に書かれたものですが、その時々において、弟子の帰属をめぐる問題が起こっていたということなのでしょう。教団と言うほど大きくはなくても、それぞれのリーダーのもとにつどう集団が形成され、その集団の経済的基盤と世間の評判を支えるのが弟子の多寡であるとき、弟子の帰属は大きな関心事にならざるをえません。そんななか、親鸞聖人は、弟子一人もなしとおっしゃり、弟子ではなく、皆同じ釈迦・諸仏の弟子としての同行であると。門徒集団は、如来の教えにふれ、教えを聞く道場としてあるというのが本義であるにも関わらず、いつの間にか門徒集団そのものに大きな意味を見出して、その教勢の大きくあらんことに勢力を遣い果たしていることへの厳しい批判がそこにはあります。
 弟子ではなく同行であるというのは、親鸞聖人が格好を付けておっしゃったのではなく、それは、念仏の教えそのものがもつ構造に起因するといわれるのです。そのことを、ここでは明らかにしたと思います。そこで、はじめに師弟関係について確かめ、次に、同行として弟子を見る理由をたずねたいと思います。そして、次号では、弟子を欲する我々の名利心について、そして、4章、5章、そして6章を貫いている問題について確かめたいと思います。


 
 《 師弟関係 》

 
私たちは様々な人間関係を生きています。親子・兄弟という家族関係、あるいは友人、先輩後輩、同僚、同志などいろいろな関係がありますが、師弟関係ほど、特に結びつきがハードで、その方向性が一方的な特異な関係はないのではないでしょうか。 
 もっとも、師弟関係にも、陶芸や織物、建築等の技術の継承、スポーツなどの技の伝承、あるいは学問や研究の知見の伝達を介在させての師弟においては、弟子が師の技術や知見を凌駕して師を越えることはあることですし、それがまた師の本望ともいえます。そのとき、弟子は師を尊敬し恩義を感じつつも、師から飛び立つことは可能であります。
 しかし、教法による師弟関係では、弟子は師を通して教法が自身の上に頷かれ、そのことで自らの人生全体が大きくひっくり返り、人生の方向がはじめて与えられるということが起こるのです。表現を換えれば、師を通して新しい自分を獲得したのです。そういう師を獲るということは、この上なく有難いことであります。
 しかし、同時にそのとき、そういう閉じられた師弟関係には、大きな問題もありえます。たとえば、師は弟子にとって、絶対的存在であり、批判を許さない存在となることさえあるでしょう。そのとき、もし師が大きく道を踏み外したとしても、弟子はそれをとがめ批判することは出来ないかも知れません。そのような時、その集団そのものが狂気の集団に変質したり、カルト集団に転落することにもなります。師といえど、人間であります。仏教的に言えば、凡夫であります。凡夫は、間違いを抱え、間違いを犯すものです。その凡夫を絶対化するとき、その集団全体が狂気と化す危険性があることは、オウムによって知られるところです。
 その点について、念仏の教えはどうかといえば、間違いだらけのものが、念仏の教えに出遇うことで、活きいきと生きられるようになるという教えであり、教えに触れればふれるほど、間違いだらけの凡夫であることを思い知らされる教えでもあります。そこには、絶対的存在を生み出していく余地はありません。しかし、教えの上からはそうであるはずなのですが、実際には、そうでないこともありました。たとえば、法主(宗門のトップ)を絶対視して、法主が入ったあとのお風呂のお湯を有難がったというようなことが、かつてありました。教えからは、法主といえど、凡夫であるということなのですが、私たちの暗さが絶対化する方向にいくという問題も見定めなければならないでしょう。
 いまひとつの問題は、宗教は、その人を自立させ、主体的に生きる一人を生み出すものであるにも関わらず、閉じた師弟関係では、師があたかも弟子を支配し、所有するが如き間柄となる危険性があり、そこでは弟子の自立性や主体性が宗教の名で奪われるということが起こりえます。
 親鸞聖人は、閉じた師弟関係を破る道として、先程もふれましたように、口伝鈔には「如来の御弟子」という表現がありますが、私の弟子ではなく、ともに如来の弟子なのだとおっしゃる。如来の弟子として、ともに念仏の道を歩む同行であるというわけです。そこでは、師弟という上下関係ではなく、如来の兄弟弟子という水平の関係が確保されています。
 親鸞聖人は、師弟の関係から、人間関係はどうあるべきか、ということを課題にされているともいえますし、同時に、閉じられた師弟関係を越える道を示しながら、念仏の教えを説き明かして下さいます。


 《 如来よりたまわりたる信心 

 
どうでしょうか、一般的に言われる仏道というのは、私たちが行に励んで佛果に至る道筋、あるいは佛果に一歩でも近づく道程をいっているのではないでしょうか。そこには、釈尊がどのようにして佛果を獲られたのかという思索を尽くし、釈尊と同じ追体験を実現しようとする営みであるか。もしくは、釈尊が何故、佛果を獲られたのか、その根拠が分かりさえすれば追体験をしなくても、釈尊と同じ佛果を獲ることが出来るであろうという道があります。いずれにしても、私たち自身が、佛果に至る道を歩む事になります。しかも、その歩む道は、一本道として真っ直ぐ佛果に通じているかどうかもわからないというのが正直なところといえるでしょう。そこには、それぞれが、こうすれば佛果に至るはずであるという予測と希望によって支えられた膨大な行の蓄積のみがあります。
 そこでは、はじめて仏道にたとうとする時、何をどのように歩んで良いのか全く見当もつかないということとなり、しかるべき師の指導と教育によるということになるのでしょう。そしてその仏道の正しさの証明は、師のその仏道にかける情熱や誠意によって果たされるのでしょう。弟子は師が佛果に至る道を指し示してくれていると信じて、ついていくこととなります。そこでは、師は信じる対象となるのです。
 一方、念仏の教えは、私たちが佛果に向かって歩む仏道ではなく、佛果である如来が私たちのところにまで歩みを運んで下さるところに開かれる仏道といえるでしょう。
 仏道を成り立たせ、支えているのが如来であるということです。それに対して先程ふれた仏道は、仏道を成り立たせているのは、私たちの情熱であったり意欲であります。従って、やる気がなくなれば同時に、仏道そのものが無くなってしまいます。念仏の仏道とそれ以外の仏道の違いは、如来を根拠とする仏道であるか、私たちの菩提心や意欲を根拠とする仏道であるかの違いであるともいえます。
 もちろん、如来を根拠にすると言いましても、どうもピンとこないかもしれません。そこで、少し具体的に申せば、例えば、私たちがこの人生に疑問を持って、何とか誠実に生きようという意欲を起こすとしましょう。それを、仏教では菩提心といいますが、一般的には、菩提心は私たちの真面目さが起こすものと見るのが普通かと思います。しかし、念仏の教えからは、如来のお心が私の上にはたらいて下さったことによって、この私に菩提心が起こった。菩提心の中味は如来のお心であるというわけです。あるいは、私たちが念仏申すものとなるのも、「弥陀の御もよおしにあずかった」ためであると了解できるわけです。また、信心を獲るのも、釈迦・諸仏の教化に預かって、如来のお心が私の上に至り届くということとしてあるというのです。
 如来は、佛果として仏道を歩もうとする者の最終目標であると同時に、私たち衆生を救うはたらきそのものでもあります。念仏の教えは、如来の衆生救済のはたらきに対する絶大なる信頼のところにあります。衆生を救わんとされる如来のお心をとくに本願といい、その本願が私の上に開発されることを、如来よりたまわりたる信心というのです。如来を根拠とし、如来のお心が私のところにまで至り届いたのですから。
 そして、この私に念仏の教えを伝え、教えて下さるはたらきを、諸仏といい、その代表をお釈迦様とするわけです。その釈迦・諸仏の教化にあって、弥陀の本願に自身の依って立つところを見出すものと成らせていただくのです。私たちは、みな釈迦・諸仏の弟子であり、同行であるといえるのは、念仏の教えそのものが如来を根拠として成り立っている仏道であるというところにあります。                                                          (つづく)