草津栗生・楽泉園訪問記


 上越線高崎から草津線に乗り換え、長野原草津口駅で下車。バスを乗り継ぎ、草津温泉に降り立ったのは、十月にしては、小雪の舞う寒い日であった。宗議会議員東北・北陸ブロック同和研修に参加するための訪問である。ここ数年、議員のブロック別同和研修は、ハンセン病問題に学ぶことをテーマとして、全国に13あるハンセン病療養所の訪問研修を行なっている。この度は、草津温泉近くにある栗生・楽泉園の訪問と、療養所を退所された方との連帯と支援をめざしての退所者のお話を伺うことが主な内容といえる。議員の参加者は、他ブロックからの参加もあり25名。
 研修一日目に、「草津町・湯之沢地区物故者追弔会」の法要に参詣できるように日程が組まれていた。この法要は、楽泉園内にある聞法グループ「崇信会」の要請に宗門が応え、東京教区と群馬組の協力をえて、林同和推進本部長が導師をつとめ執行された。崇信会は、楽泉園内の真宗の信者のために1936年に開かれた布教施設「光明寮」(この9月13日付で、大谷派の栗生崇信教会となる)を中心に聞法するグループで、毎月一度、群馬組から講師が派遣され、聞法会がもたれているようである。現在、楽泉園には260名の入所者がいるが、そのうちの124名が崇信会のメンバーで、毎週土曜日の例会・毎月の聞法会には20名ほどの会員が参加しているという。この度の法要は、ひとり崇信会の要望というより、楽泉園の皆さんの願いでもあったと言えよう。
 ここで、湯之沢地区について、その歴史をたどってみよう。草津温泉は鎌倉時代に開湯され、日本三大名湯にかぞえられるほど、泉質が優れているという。その効能は、諸病と共に、特に皮膚病に効く霊泉とされていた。そのため、ハンセン病の人たちがその湯効を頼りとして湯治に来ていたようである。別けても、1869(M2)年に温泉街の大火があり、その復興のために、旅館経営者はハンセン病患者の草津温泉への誘客を積極的に行なった。そのため、多くの患者が集まってきた。ところが、復興がなると、一般の浴客がハンセン病患者との混浴を嫌うと言うことから、経営者たちは、温泉街からの患者の排除を企てる。その移転先とされたのが、草津のはずれに位置する谷間の「湯之沢」であった。この地は、湯治費を使い果した老人や、病人客を遺棄したところから、「投げ捨ての谷」と呼ばれたり、そこに、住居を建てようとすると、炭俵2俵ほどの人骨を拾い集めねばならないというところから、「骨ケ原」とも呼ばれ、地元の人々から忌諱されていた。しかし、1887(M20)年の開村以来、患者専門の旅館ができ、商店なども立ち並び、人口もピーク時には、221世帯、803名にのぼり、草津の人口の34%にあたったという(1930年)。
ところが、温泉街に隣接する湯之沢地区の存在が、草津温泉の発展を阻害する要因であると、さらに移転を画策。国の強制隔離政策と相俟って、「栗生楽泉園」を、1932(S7)年に開設し、患者の療養所への隔離をはかる。ところが、患者自身が開村し、自治によって生活していた湯之沢を安住の地にして終焉の地としていた患者は、そこを去り療養所に入ることをよしとはしなかった。しかし、ついに、1941(S16)年、「湯之沢」は解散に追い込まれ、その歴史を閉じる。
 この度の追弔法会は、湯之沢地区で生ききっていかれた方々に思いを致し、その願いとされたであろう「人と人とが、真に出会いたい」という願いに、そして「どうして出会えないのか」という問いかけに身を引き据えて、人と人との間柄を断つ隔離ということを、改めて考えさせられた。
追弔法会のあと、法要参加者による交流会が楽泉園でもたれ、そこで、楽泉園に入所している加藤三郎氏から、前出の湯之沢地区の歴史の一端を聞けたことは、大変ありがたかった。加藤氏は湯之沢地区から楽泉園に入所した人々から聞き取った事を整理して、93歳になる今も、語り継ぐ事に意欲を燃やしておられる。
 翌日、東日本退所者の会代表の柴田良平夫妻のお話を伺う。国賠訴訟の東京の原告でもあった方である。柴田氏は、隔離政策の最大の問題点を、人と人との関係を断ち切るところにあると指摘する。療養所の内と外で決定的な断絶があり、入所によって、今までの一切の家族関係・社会関係から切り離される。療養所内においても、職員と患者は、清潔な者と不潔な者として断ち切られ、患者同士がまた、群れることはあっても、厚い信頼に基づく連帯は成り立ちにくいと言う。療養所の運営方針は、入所者を従順に管理することを第一とし、職員の言うことを聞かぬ者には罰が用意されていた。
 交流会のあと、楽泉園のはずれの「重監房跡」を見学した。ここに、全国13の療養所の造反者を収容したという。夕暮れでかなり底冷えしてきたが、ここは厳寒には−20度にもなるという。凍死や餓死で収容されていた人の内92名が、亡くなっていったという。人権侵害の象徴とされる場である。
 刑罰主義を背景とした管理によって貫かれている場では、自立・自尊を放棄するしか生き延びる事が許されないといえよう。自分らしさを抑え、群れて生きることを強要されるところでは、人と人との真の連帯は生まれにくい。人との間柄を奪われることによって、アイデンティティを失わされる、これこそが隔離政策の最大の問題点であると、柴田氏から教えられた。
 我々自身、隔離政策を支持することで、ハンセン病の人との関係を断つ事によって、自身人間であることを見失ってきたと言えよう。あらゆる間柄を生きるところに、人間がたもたれる。好ましい、都合がいいと思い込んでいるような間柄しか生きようとしないところでは、もはや、それは人間とは言えない。