ハンセン病療養所訪問記


4月15日・16日の二日間、宮城県迫町にあるハンセン病療養所を訪ねてきました。東北ブロックの宗議会議員研修として、入所されている方々との交流を持つための訪問であります。東北自動車道・築館ICから約15分、ラムサール条約登録湿地で有名な伊豆沼のほぼ近くです。全国には、13の療養所がありますが、迂闊にも教区内に、それも仙台から車で1時間余りのところにあるということを全く知りませんでした。なお、同和推進本部要員である、仙南組の信楽弘道氏と、同推のハンセン懇メンバーである仙台組の久保田広志氏が、一緒に参加してくださいました。
 訪問した時期がよく、10万坪の敷地の中央にある池の周辺を中心に植えられた桜の木々満開に咲き誇っていました。入り口には、「国立療養所 東北新生園」と看板があり、全体が開放的で、整然と整備され、明るい感じを受けたものです。
 その交流会で、果たそうとしたことは二つ。一つは、教団としての謝罪であり、いまひとつは、お一人おひとりと真向かいになって、その声に深く耳を傾け、墓参とか一時帰郷などでお手伝いできることがあれば、させてもらいたいということであります。
 ハンセン病療養所に入所している人の殆どの方が、家族と離ればなれにさせられ、帰るべき故郷を奪われ、通名を名乗らざるを得ないという状況があります。さらには、断種手術まで受けさせられた方さえいます。本人自身が、人間としての尊厳と、人間らしさを奪われ、そのうえ、家族にまで迷惑をかけているという思いに苦しむ二重三重の過酷な人生を、入所者の人々に強いたのは、言うまでもありませんが、決して本人の責任によるものではありません。それは、偏に「らい予防法」という法律によってとられた隔離政策にあるといえます。
 国が強制隔離という方針をとるという事は、ハンセン病が伝染力が強く、完治することのない恐ろしい病気であるからだと言う認識を我々にもたらし、前世の悪業による業病であるとか、遺伝する病気だと言う根拠のない偏見を助長することとなりました。
 ハンセン病は、らい菌による伝染病で、極めて感染力は弱く、1940年頃に特効薬が開発され、その後、治療法も確立され、医学的な問題としては、ほぼ解決がついた病気であるとされていました。
 しかし、1996年4月、この法律が廃止されるまで、隔離政策をとり続ける事によって、ハンセン病は恐ろしい病気と言う差別と偏見を生み出し続けたといえるでしょう。それによって、患者はもとより、その家族さえも厳しい差別の眼に晒される事となったわけです。
 そして同時に、その隔離政策を、陰で支え、推し進める役割を果たしたのが、我々のハンセン病に対する無知と無関心に他ならないといえます。
 さらに、大谷派は、無関心に止まらず、1931年「大谷派光明会」という組織を作り、教団挙げて隔離政策の徹底を推し進めてきたという過ちを犯しました。その当時、すでに、同じ大谷派の僧侶で、医学博士である小笠原登師が、ハンセン病は、結核より伝染力は弱く、結核より完治しやすいとし、隔離の必要のないことを提唱されていたにも関わらず、その智慧に耳を傾けることもなくであります。親鸞聖人は、すべての人を同朋として見いだす眼と世界を明らかにされました。そして、教団はその教えをたもち、伝えることをその使命としているにも関わらず、ハンセン病患者を見失い、同朋として見る眼を捨て去ってきたといわざるをえません。 
 交流をしたのは、自治会の役員の人たちが中心で、ともに食事をし、親しく話し合いをもちました。できるだけ、お一人おひとりに真向かいになるということを課したため、2人対2人という小さな班別に。会話が弾まず、だまっていたのでは悪いという思いから、事前に、どういうことを質問しようかと問いを準備していたのですが、そんな心配は無用で、どなたも大変よくしゃべってくださいました。50年以上入所されている人もおられ、当時の劣悪な施設のこと、重度の患者を軽度の患者が看護すること、あるいは、大人の患者が子供の患者をこき使うこと等々。
 しかし、いったん、故郷のこと、あるいは、帰郷についてのことになると、話を向けても、ほとんど口を開かれず、「そんなことは、端から諦めている」と、おっしゃった言葉が重い。
 等しく、気に懸けておられた事は、現在209名の入所者の平均年齢が、75歳。あと、5年、10年すれば園はどうなるのか。行政は、最後の一人が息を引き取るまで、統廃合はせず、看護を続けるといっているが、大丈夫であろうか。できれば、亡くなるまで、ここで過ごしたいという望みをもっておられる方がほとんどです。
 納骨堂を参拝しましたが、ここで亡くなられていった方々の遺骨が安置されています。ご遺族が、故郷の墓に遺骨を持っていかれることは、極めて稀だと教えられ、改めて隔離政策が引き起こす残酷さを思い知らされます。
 我々は、ハンセン病の人を我々の社会から排除し、カベの中に押し込めることによって、我々の日常を守ろうとしてきました。あの人たちは、特別な人だと療養所の中に押し込め、死を待ってきたのではないかと、納骨堂で想わされました。 ハンセン病の人を排除することによって、守った日常とはなにか。ハンセン病患者を、人として見ず、切り捨てることによって、我々自身が人間であることを見失ってきたのではないか。人間であることを根こそぎ奪われてきた患者(厳密には、元患者)の人間回復運動は、同時に、我々自身の人間回復でもあります。

追加 : ハンセン病に対する我々自身の無知が偏見を生み、差別を増幅させる。そして、その人の一生を療養所の中に閉じ込めてきたということを身をもって教えられた。無知が人の一生を台無しにしていく。無知が罪を作っていくということを教えられた。