仏陀との出会い  

『ラジオ放送・東本願寺の時間』で住職がお話しした内容を掲載します。


第一回

 我一人にして尊し

 仏陀との出会いというテーマで今回からお話ししていこうと思います。4月になってしばらくになりますが、4月には我々にとって大変大事な方のお誕生日がいくつかあります。
 一日には親鸞聖人が、七日には法然さまが、そして、仏陀釈尊は八日にお生まれになったと言われています。いうまでもありませんが、全国各地で行われます「花祭り」は、その仏陀のご誕生を讃嘆するものです。 
 花祭りというと、子どもの頃にいただいた甘茶の味が今も心に残っています。そしてご誕生の様子をお母さまの右脇から生まれられて、東西南北の四方にそれぞれ七歩歩まれ、右手で天を、左手で地を指して「天上天下唯我独尊」とおっしゃったと教えられたものです。
 小学から中学にかけて、甘茶の味はそう変わらなかったのですが、長ずるにしたがって、お釈迦さまって、なにかすごい方だなあという感じから、腋の下から生まれられたとか、赤ちゃんがむずかしいことを言うとか、なんか眉唾だなあ、という感想に変わっていったことを覚えています。
 しかし、やがて仏教の学びをするうちに、この記述は、仏陀の偉人性を強調するために付されたものであるというより、仏陀に出会った者が、出会った責任において、その世界を明らかにしようとするためのものと思えるようになりました。
 つまり、いかなる世界が仏陀との出会いによって開かれるのか。それは唯我独尊といえる私をいただくこと。ただ、我、独りにして尊しといえる私が明らかになること。としますなら、仏陀誕生の記述は同時に、仏陀との出会いによって生み出された私自身の誕生でもあるという意味を持つといえます。
 唯我独尊、ただ、我、独りにして尊し。
 この私を尊いものとして見いだすことができた。

 この私を誉めてやりたい

 いささか旧聞になりますが、バルセロナオリンピックのマラソンで有森裕子さんが、「自分を誉めてやりたい」と言ったことが随分話題になり、確かその年の流行語大賞に選ばれたと記憶しています。 彼女にとって、オリンピック代表を勝ち取るまでの日々、そしてその日の競技での健闘、それらのことがまさに誉めるに値することであったのでしょう。
見ていた我々もその彼女に共感しました。あの言葉が話題になったところには、彼女のガンバリが万人の称賛を得るに値したからということもあるでしょうが、何かそれより、あの言葉が、我々の日頃あまり意識していないが、意識の底にある本音を言い当てたからではないでしょうか。実は我々は皆、この私を誉めてやりたいのではないでしょうか。この私をこのままで、良しと言いたいのでしょう。もう少し言えば、尊しと言いたいのです。
 ところが、我々にも、自分を誉めることがないわけでもありません。厳しい状況の中で困難な仕事をやり終えたとき、ぼんやりしていた課題が明らかになったとき、あるいはまた、長年の恋が成就したとき、こんなときには自分もまんざらではないと思えますし、生きるいささかの自信にもなります。
 しかしそういう場面はそうそうありませんし、あったとしても長続きはしません。
 自分を誉めたいと思いつつ、なかなかそういうこととはならず、実際は、誉めるに値すると思われる基準で、この私を裁き続けているのではないでしょうか。そして、誉めるにはほど遠い状況を悔やみ、不運を嘆いていないでしょうか。
 あるいは、自分を誉めるには、誉めるに足る条件が必要と考え、条件を整えることで、誉めることの出来る私を手に入れようとがんばっているのかもしれません。

 この上なく尊し

 それに対して、仏陀は、唯我独尊、ただ我独りにして尊し。独りにしてとは、一切の条件を付けない。 独尊は、ある教典では無上尊となっています。無上は上が無いと書きます。この上無く尊しです。この上無くは、同時に下を必要としないことを意味します。
 我々は多く、もし賢さや強さや豊かさにおいて、まんざらでもないと思うことがあるとすれば、それはどれだけ多くの「下」を見いだしたかということではないでしょうか。
 無上とは、他との比較によって得られるものではないことを現しています。
 何の条件も比べることも必要とせず、等身大のこの私に、良しといえる、私を生み出すはたらきこそが、仏陀であるといえます。








第二回

 カースト制度のもとに

 前回に引き続き、仏陀釈尊の誕生に関わる事柄について、たずねてみましょう。
仏陀釈尊がお母さまの右脇から、お生まれになり、七歩歩まれて、天上天下唯我独尊とおっしゃったということを申し上げ、第一回では唯我独尊ということについてお話し致しました。今日は、右脇からお生まれになったと言うことについて考えてみたいと思います。なぜわざわざそういう言い方がされてきたのか。
実はそこには、釈尊がお生まれになったインドという国の過酷な現実が表現されていたのです。
 インドでは、生まれにより、あらゆる人間を四つの階級に分けて制度化したカースト制度があります。
宗教者のバラモン階級・政治家や軍人のクシャトリア階級・一般の人々のバイシャ階級・そして隷属していたシュウドラ階級の四階級です。実際は、その下にさらにアウトカーストとして、不可触民を作り、五階級と言うべきですが。
 現在のインドでは、さらに細分化されて二千から三千のカーストに別れていると言われています。
 それは、ジャーティとも言われるように、ジャーティというのは、生まれという意味ですが、生まれ出た親のカーストを引き継ぎ、そのことによって、職業・居住・結婚などが大きく制限を受けるというものです。
 カースト制度は、生まれが違うということをいうためか、第一階級のバラモンは頭から生まれ、クシャトリアは脇から生まれ、バイシャは股から、シュウドラはすねから生まれるといわれました。釈尊は政治を司るクシャトリア階級でありましたから、脇からお生まれになったといわれたわけです。
 このように釈尊の誕生をカースト制度の中で表現すると、あたかも釈尊自身がインドの差別社会を無批判に容認されたのかともみえてしまいます。しかし、釈尊のご生涯を思うとき、それはカーストとの闘いの80年であったといえます。
 原始経典の一つ、サンユッタニカーヤ・六一二には、次のように説かれています。
 『人間の間に区別は存在しない。区別表示が説かれるのは、ただ名称によるのみ』
と。当時のインドの人々が、カースト制度を固定化し、絶対視していたのに対し、其処には何ら必然的な根拠や理由はなく、ただ名称のみがあるだけだと、その本質を指摘し、制度そのものを相対化されたといえます。
 とはいえ、なんと言っても、仏陀がカースト制度を正面から否定されることとなる教えは、慈悲の教えだといえるでしょう。


 慈悲ということ

 慈悲、お慈悲というと、どうも我々はこの私にかけられたと思われる特別な恩恵を指してはいないでしょうか。たとえば、危機的な大病を患ったにもかかわらず、奇跡的に元気を回復したようなとき。あるいは、観光バスの事故などで多くの人が大けがをしたにもかかわらず、自分だけはかすり傷で済むというようなことがあったとするとき、ああ良かった、本当に助かったと安堵することでしょう。 そして、このようなことは、きっと仏様が私を守ってくださったに違いないと。
 ただ、こういう特別なことでなくても、私にとって好ましいこと、ありがたいことを、仏様のお慈悲だと言っていないでしょうか。
しかし、少しいじわるな言い方に聞こえるかも知れませんが、それは決して慈悲などではなく、たんに自分の都合を喜んでいるに過ぎません。
 言葉としては、もともと慈と悲とは別々の語でありましたが、やがて慈悲と熟語として使われるようになりました。
意味するところは、他者のうめき、苦しみを、自分のこと、友人のこととして受け取る。つまり、自分のこと、家族のこと、自分に関わりの深い人のことぐらいしか考えられない私に、他者のことが、友人のことのように、あるいは自分のことのように想える。
 我々にとって、他者は、文字通り、他なる存在にして関わりのない者を指します。
そして、自己関心の狭い世界を生きているのが、この私です。
そういう私に対して、仏陀の慈悲は、すべての存在は互いに関わりあい、深く影響しあって成り立っており、他者としか想えぬ存在が、この私にとって友人のごとく重いものとして見いだす眼を開いてくるといえます。
 一般的には、愛といってもいいかと思います。愛というのは深い関心を表します。仏陀の慈悲は、我々の上に他者に対する深い関心を生み出し、他者への愛を生み出すといえます。
 他者が自分のこと、友人のこととして見出せる、もう少し言えば、他者を同じ命を生きるものとして発見できるはたらきこそ、仏陀の慈悲といえます。
一方、差別やいじめということは、どこから起こってくるのでしょうか。人を差別したり、いじめたりするときに、もし、その人のことを友人と想っていたり、大事な人だと想っているときに、はたしてそういうことができるでしょうか。できるはずがありません。
 差別してその人の人格を踏みにじったり、いじめ抜いて死にまで追いやることが、その人を大事だと想っているときにどうしてできるでしょうか。
 つまり、差別やいじめが起こるのは、その人を大事な人として見出せない、同じ仲間とは見れない、もっと言えば、私とは関係のない存在としてしか見れないということが、そこにあるように思われます。
 同じ命を生きる人とは、決して、見出せないところに、引き起こされる事態ではないでしょうか。
 先ほども少し触れましたが、仏陀の慈悲に触れぬ限り、我々にとって他者とは、関わりのない存在をでるものではないとき、それはいつでも差別やいじめを生み出す元となり得ます。
 右脇からの誕生は、差別のまっただ中に、平等の地平を開く教えを明らかにされた、仏の誕生を言い当てようとしたといえます。








第三回

  七歩を歩く

  三回目になりますが、仏陀釈尊の誕生に関わることについてたずねてみましょう。お母さま、マヤ夫人の右脇から生まれられるとすぐ、七歩、東西南北の四方に歩みを運ばれて、右手で天を左手で地を指して、「天上天下唯我独尊」とおっしゃった。
 右脇からのご誕生、唯我独尊と言うことについてはすでに取り上げておりますので、ここではその「七歩」ということについてたずねてみましょう。
 七歩の歩、歩みは生活、生き方、境界(きょうがい)を示します。七は六を越える。
六とは六道。我々の迷いの人生を、六つの生き方に分けて言い当てようとしたのが、六道といえます。
 いわゆる、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六つで、それぞれに道がつき地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道といいます。道は、我々がそこを歩み、生きることをあらわします。
とはいえ、地獄という場所、天という空間がそこにあるわけではありません。我々が生きるのは、ここの、この世界に違いないのですが、我々がこの社会や世界に対して、いかに関わろうとするかによって、そこに現れる世界であるといえます。
 たとえば、そこに自分の居場所が見つからず、そこに居ることそれ自体が辛くて苦しくて、何の目的も見出せないまま生活している。そういうあり方を、地獄・極苦処といい、逆に他人の手柄を己のものとし、思うがごとく事を運び、有頂天(この言葉自体、今言うところの天の一部です)になっているあり方を天といいます。

 六道のうち、地獄・餓鬼・畜生は我々を苦しめ悩ますことから三悪道といわれます。それらについてたずねてみようと思いますが、今回はそのうち、餓鬼道についてみてみましょう。
 餓鬼道は、我々が貧欲、つまり物惜しみと貪りをもって、世界に対し、他人に対するとき、我々の生きる世界は餓鬼道として立ちあらわれると説かれます。関心のあるものは何でも、自分のものにしたい。そして、いったん我が物となったものは二度と手放したくない。我々の欲望は持っていないから欲しいということもありますが、では、持っていればそれでいいのかということになれば、そうではない。あればあったで、もっと欲しいというのが、欲望の正体です。
 平安時代に源信僧都が書かれた『往生要集』には、餓鬼について、次のような記述があります。あるとき、餓鬼が炎天下に喉をからからに嗄らして水を求めてさまよっている。すると、たまたま、そこに清水のわき出る音を聞きつけ、大喜びでそこに駆けつけ水を飲もうとする。すると、たちまちその水が炎に変わる、と。
 正確にはそういう記述ではありませんが、文意をとるとそういえます。そこに、水が炎に変わると。それは水を飲むのでしょう。水を飲むのでしょうが、飲んだ水が渇きを癒すことにならない。それどころか、飲んだがためにいよいよ乾きを増す働きとなり、飲めば飲むほど渇きをもよおす、それを炎というようにあらわしたと思います。
そこに、我々の欲望の際限のなさの指摘があります。
 では、なぜそうなるのでしょう。そこには、いろいろな見方が可能でしょうが、次のように見ることは出来ないでしょうか。先回、先々回ですでに見てきましたように、我々は等しく、この私に自身をもって生きたいという、根源的にして、普遍的な欲求を持っているといえます。
 言葉を換えれば、我ここにありという、私自身の存在を確認し、この私に、「良し」と強く言いたいのです。ところが、裸のままの、このままの私ではいかにも頼りなく、情けないものですから、そんなものを頼りにすることも、立場にすることも出来ないと考えます。そこで、できるだけ丈夫で、豪華な衣装を身にまとい、宝石や貴金属を身につけ、立派な住まいを構え、はじめてこの私に「良し」といえるものになると思うのかも知れません。
 もちろん、いま言うところの、衣装、宝石、住まいというのは、言うまでもなく、私にとっての家族・仕事・お金・財産・地位・友人・学歴・特技・知識・体験等々、この私を強化し、補強する支えとしているもののことです。佐瀬はどれだけ多くても邪魔にはなりませんし、私のまわりに出来るだけ多く集め所有しようとします。

 例えば、お金についてみてみましょう。決してこれだけあればもう良いということにはなりません。どれだけあっても、もう少しあった方が良いと言うことになります。
それは私を固めるのに、支えるのに確かなものとなり、間違いないものとできると、考えるからではないでしょうか。
 できるだけ多く所有し集めたいというのは、実は、私自身に対する自信のなさの裏返しだと言えないでしょうか。
 これこそが、餓鬼の本質なのです。
 しかし、支えをどれだけ豊かにしようが、どれほど眼鏡にしようが、支えられるべき私自身に光が当たらない限り、どkまでいっても、自身にはつながりません。迷いといわれる所以です。
 この私に光をあて、唯我独尊といえる私を明らかにし、自身を与え、そのことで餓鬼道を超えさせる。そういう仏陀が誕生された、という意味が、七歩にあると言えます。
 







第四回

 畜生道が問うもの


 先回は、迷いの六道、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人そして天のうち、餓鬼道について述べましたが、今回は、畜生道について述べてみたいと思います。
畜生というと言葉の響きが随分ときつく聞こえますが、畜生と漢訳された元の言葉の意味は、水平ということを表します。人が地面に対して垂直に立つものであるのに対して、水平な位置をとる動物のことで、そのうち人間に家畜として飼われているものを指します。
 そのとき、畜育する者と、家畜との関係はどうなっているでしょうか。それは、役に立つかどうかかかっていると言えるでしょう。家畜の病気で言えば、狂牛病が毎日のように報じられていますが、去年、ヨーロッパと国内で、口蹄疫という家畜の伝染病が問題になったことをご記憶の方も多いかと思います。一旦、口蹄疫が発生すると、その牧場全ての家畜を焼却処分にし、徹底した防疫体制をとり、ホカの牧場への伝染を防ごうとします。
 大変懼れられている病気ですから、てっきり家畜が死ぬ病気であるとばかり思っていましたが、この病気は死に至る病気ではなく、感染すると肥ることが出来なくなる家畜の病気だそうです。当然のことですが、肥らせて、肉をとるために飼育していることを、いまさらのように改めて知らされます。
 これは我々に役に立つかどうかが、家畜との関係を成立させる一点であることを教えてくれます。
 このように、他者との関係を、役に立つか立たないかで関わろうとする我々のあり方を畜生ということで表そうとしました。
 
 
 利用関係を生きる

 我々はあらゆるところでいろいろな人と関係を結んでいますし、さまざまな集団・共同体に身を置いてもいます。そこでいかなる関係を他人と持とうとしているのか、あるいは、その共同体とどのように関わろうとしているのか、大変重要なこととなります。
 相手を役に立つかどうか、有益かどうかで判断するとき、同時にそれは、私自身をも役立つかどうかで裁くことにもなるのですが、そのとき、相手を畜生とし、自分自身も畜生としているといえます。
 我々は大変複雑な人間関係を実際には生きていますが、今、それを簡略化して、一対一の関係と、一対多の関係に分けるとしましょう。
 一対一の関係で、そして、それが利用関係である場合、相手はいつも手段となり、ものと化し、相手が人間であることを見失いがちであります。そしてその関係は、ほとんど、相手が私にとって役立つ人か、有益であるかを基準にして見ていると言えます。
あまり、私が相手にとって役立っているかどうかなど、考えないのではないでしょうか。
私が相手にとって有益で必要な存在か、ということより、相手が私にとって役立ち必要かどうかにウェートが置かれているといえるでしょう。
 一方、一対多の関係を見てみましょう。会社・学校・地域社会・あるいは家族という我々の属している集団と私との関係でありますが、多く我々は、その集団が私にとって有益であるかというより、私がその集団にとって役立っているかということに、我々の関心はいってはいないでしょうか。
 例えば、会社との関係を考えるとき、自分がどれだけあてにされ、必要とされ大事にされているか、そう実感できるとき、人は大変充実した気持を持つことが出来ます。
 逆に、例えば給料などの待遇面が変わらなくても、大事なポストをはずされたり、閑職に回されたりすると腐ってしまうこともあります。
 家族にあっても同じではないでしょうか。若い人から「はいはい、もう何もしてもらわなくとも結構ですよ。好きなテレビでも見て下さい。」なんて言われると、元気だった人もぐっと老け込んでしまいます。
 我々にとって、大事な人だ、なくてはならない人だと言われたり、思われることは大変大きなことです。そのことによって、多くの人から評価され、受け入れられ、認められて、俺もまんざらではないと、自己存在に対する確認をやっているといえます。
 我々は自分自身のところで、この私になかなかイエスと言えないものですから、他人の評価と認証を通して、はじめて自己確認をするしかないのかも知れません。


 自分探し

 しかし、其処にまたやっかいなことが起こってきます。
 この私を役立つ者として見て欲しい、大事な存在として認めてもらいたいということが、大事だと思われるような私、必要だと認められるような私を演じるということになります。
 そして多く、演じている私と、自分自身がこうありたいと欲する私とは一つにはならずそこに、分裂が起こります。自己確認を求めながら、いよいよ、自分を見失い自己疎外に陥るということになりかねません。
「自分探し」という言葉が流行る理由をそこに見る思いがします。
 畜生ということは、我々が結ぶ諸々の関係を問う大事な視点であり、この私の存在意識を他者を通して確認したいという欲求と深く関わっています。
 「唯我独尊」ということは、畜生道に生きる私に、他者の評価を俟つまでもなく、そのままで尊く、自信を持って生きることのできる世界を顕かにし、そこにはじめて、相手をも尊敬できる地平が開かれることを教えています。
 








第五回

 地獄道が問うもの


 これまで四回掲載してきましたが、今回でこの連載は最後とします。
仏陀の誕生を手がかりとして、前二回は三悪道の「餓鬼道」「畜生道」に言及しながら、仏陀の世界をたずねてまいりましたが、今回は「地獄道」にふれ、仏陀との出会いによってひらかれる世界をたずねたいと思います。

≪ 地獄が説く世界 ≫
 
 我々が地獄に対して持っているイメージの多くは、平安時代に源信僧都によって書かれた「往生要集」によるところが大きいと言えます。
そこには八つの地獄が説かれています。一、二取り上げますと、「嘘を付くと地獄に堕ちて舌を抜かれる」あるいは「体をずたずたに切り裂かれる」ということが説かれています。
 そのことについて、もう少し正確に言えば、「嘘をつくと、地獄に堕ちて、舌を抜かれる」のではなく、「嘘をつくと、舌を抜かれて、地獄を生きる」ということなのでしょう。
つまり、舌とは、言葉のことですが、言葉は、自分の思いや考えを相手に伝えるというはたらきをもちます。ところが、嘘をつくことによって、「あいつの言うことは当てにならない」と、言葉が言葉としてのはたらきを失い、言葉の通じない世界を生み出す。それが地獄の一つの姿です。
 あるいは、刀葉林地獄では、木の葉が刀で出来ていて、その木のてっぺんに、肌もあらわな女性がいて、どうぞここまで来てくださいと、地上の男を誘う。男はその誘いに乗って、木をよじ登ろうとすると、刀で出来た葉は下向きになり、男はずたずたに傷つきながら、やっとの思いで木のてっぺんまで行く。
すると先ほどの女性は地上にいて、早く来いと言う。慌てて降りようとすると、今度は、葉は上向きになって、同様に切り裂かれる。それを限りなく繰り返していると説く。
 このように見てくると、地獄は、この世の我々の生き方そのものを説こうとしていると言えるでしょう。

≪ 無間地獄 ≫

 そして八段階に説かれる地獄の、もっとも残酷な地獄として、無間地獄が説かれます。無間とは、苦しみを受けるのに間隙が無い、間断なく苦しみを受け続けるという意味です。
ではなぜその無間地獄を生きねばならないのか。いくつかその理由が挙げられていますが、最大の理由は、撥無因果(ほつむいんが)にあるといいます。
 撥無因果というのは、あらゆる存在がお互いに関係しあい、因(原因)と縁(条件)を持ち、同時に、そのものがまた、因と縁となる、その道理が認められないことをいいます。
 たとえば、ギンナンの実からイチョウの木になるには、水が適当にあって陽当たりが良く、滋養にも恵まれるというプラスの条件が整ったということと、水に流されなかった風に倒されなかったなどのマイナスの条件がはたらかなかったことがあって、初めて立派なイチョウの木になるということであります。
つまり、一個のギンナンの実以外のすべてが、イチョウになるまでの縁といえます。
 私に於いてもそうです。今までどれほど多くの命を食べてこの身を維持してきたことでしょう。それと同時に、生きることを許されないほどのマイナスの縁がはたらかなかった。つまり、今まで死に至るような病や事故に遭わなかった、死ぬほどの飢餓にも遭わなかった、これも縁です。
 私がここにこのようにしてあるのには、私以外のすべてが、この私の縁となっていたということを、因縁と言います。
そのとき、他者とあらゆる関係を生きる者として、自分自身を見いだすという世界が開かれます。
 つまり、あらゆる存在は、無数の原因と条件が相互に関係しあって成り立っている。すべての存在は縁によって生じ、縁によって滅する。にもかかわらず、この道理に頷けない、あるいは認めようとしないために無間地獄を生きることになると、源信は言います。

≪ 孤独なるもの ≫

 私は今まで、自分の能力と努力といささかの運でここまでやってきた。まあ、苦しいときには助けてもらったこともあったが、それはお互い様。おおむね自分の力で生きてきたし、これからもできるだけ人様に迷惑をかけずに生きていこうと思う。
これは我々の偽らざる生活心情ではないでしょうか。
 私だけを頼りにしてやってきたと・・・。
 源信は無間地獄に生きる者を、「孤独にして同伴者無し」といいます。
閉塞したひとりぼっちの世界を、自分だけの力を頼りとして、生きていく者のことです。
 ところで、前回まででみてきましたように、この私はいつも、自分の存在を確かめ、イエス(これで良し)と言いたいという欲求を持っています。
閉塞した世界で、この私にイエスと言おうとするとき、それはどこまでも私自身が私を証明していくしかないということになります。
元気で事がうまく運んでいるときはあまり問題はありませんが、病気になったり、かけがえのない人との離別や、大きな災害にあったときなど、そういうときの私には、どうしてもイエスと言えない、ということに突き当たります。
 少し乱暴な言い方を許していただくなら、我々が日頃頑張っているのは、皆この私にイエスと言えるものを明らかにし、手に入れたいためだといってもいいでしょう。
しかしどうもそのようにならないのは、なぜか。求めるべき方向が間違っているからではないでしょうか。
 三悪道ということで見てきたのは、この私にイエスといい、自身を持って生きたいにもかかわらず、かえって逆に不信をかこつあり方でした。
 今一度見てみますと、自己確認の方向に問題を見いだすことができます。
つまり、地獄道では、自分自身の努力と頑張りで、この私を証明しようとするあり方ですし、畜生道は、他人の認証を通して自身を手に入れようとします。
餓鬼道では、この私の周りに役に立ちそうなものを集めて、それで私を支え、そのことで自信につなげようとするあり方といえます。
 しかしいずれもが、末通るものではなく、イエスと言える範囲のことしかイエスとは言えません。
 このような私に、「あなたはそのままで受け入れられ、認められ、愛されているのだ」ということを、顕かにしてくださるのが仏陀であり、そのことによって、自信を持って生きる私を獲得することが、仏陀に出会うということ、仏陀の世界をいただくことに他なりません。
 仏陀の教えは、自信を持って生きる私自身を生み出す教えなのです。
                                                 (了)